1-4


「おい、天祐てんゆう!」


 怒声と取れる声に呼ばれ、木葉は後方を振り返る。坊主頭で厳めしい表情のクラスメイトが、ご立腹だと言わんばかりに睨みを利かせていた。

「なにか――?」

 木葉は彼の目を見ず、そっけなく返す。面倒事は嫌いなのだ。特に本日、今現在、非常に機嫌が悪い。もう夕刻であるのに、今朝の出来事が尾を引いて気が立っている。

 向かい合う彼とは、十年来の付き合いになるだろうか。ただ、友人でもなければ幼馴染みでもない。産まれ年と出身の教育課程が同じである、と言うだけだ。

「お前、櫻木さんに酷いこと言ったんだってな。ずっと泣いてたぞ。女子を傷付けるなんて最低過ぎるだろ! 男が女に暴言吐くなんて、一番しちゃいけないことだ!」

 坊主頭の彼は正義感を全面に押し出し、鼻息荒く捲し立てた。

 ようやく一日が終わる、そう思っていた矢先にこれだ。木葉は腹の底で舌打ちし、無視を決めて踵を返した。面倒事ばかりが続く。きっと今日は厄日だ。

「お前は本当に最低な人間だな! 謝りもしないで逃げるつもりか? お前は普通じゃない。社会不適合な本当のクズやろうだ!」

 そう言い放たれ、気が変わった――そう吐いた声音が、思ったよりも冷徹で自身でせせら笑う。木葉は、顔面を真っ赤にして頭を沸かせた彼を、冷めた眼差しで見やった。

 彼とは元より馬が合わない。普通と呼ばれる常識に囚われ、社会的常識に同意しない、又は従わない者を冷遇し、酷いときには攻撃的に振る舞う。正義と言う名の支配思考が強く、やたらと集団に階級を作りたがる。おまけに、彼の中で常識的でない他者を、妙な程に支配したがるのだ。

 木葉はずっと昔から彼のことを、権威主義に従属する奴隷だと思っていた。

「もう少し君は、君自身の軸を持って、持ち得る思考力を駆使し、思索、考察、決定した方がいい。臆病な権威主義はいい加減に卒業したらどうだ? 日頃から本心を抑圧されている自覚はないか? その反動としか思えない。階下の人間だ――と君が認識する他者に当たり散らしぶちまけるのは、脅迫的なだけであって無意味だ。残念だけど、世界は君以外の誰かのためにしか回っていない――」

「そんなことはどうでもいい! とにかく他人に迷惑をかけるな! どうしてお前は当たり前に当たり前のことができないんだよ」

 彼の語彙力の乏しさに、木葉は呆れてしまうようだった。ちらと時計に目を向ける。本来なら帰宅を済ませ、雪葉へ手紙を書いている時間帯だ。

「君と俺とは迷惑の軸がずれてるんだ。君のそれも、俺からすれば迷惑きわまりない。君の掲げる正義は俺の正義とは相容れることはないよ」

 早々に無駄話を切り上げたい。憂鬱な気持ちが表に出たせいか、少し投げ遣りな返答になってしまった。彼はこうした食い付けるような粗を逃しはしない。

「どうしてそんな言い方しかできないんだ? そう言う言葉が他人を傷付けてるんじゃないか。普通はもっと、他人を思いやった言葉を選ぶもんだ。お前は人の気持ちを理解できないのか?」

「――わかった。なら、言い方を変えよう」

 思った通りの展開に言葉もない。煩わしさを隠しもせずに言い放ち、奴隷に降格した彼を見据えて再び口を開いた。

「悪いとは思う。故意に君を傷つけたいわけではないけど、どうにも君の主張を素直には受け取れないよ。君が友人や他人を大切にするという信念があるように、俺には俺の信念や考えがある。それはきっと、君の信念とは相容れないものなんだろう」

「ほんっとうに気に入らない。悪いなんてこれっぽっちも思ってないだろ! お前の思考とか信念とか全部、普通じゃない。常識からズレてるってどうしてわからないんだ?」

 なんて面倒な男だろう――何故何故何故何故、どうしてどうして、常識、普通、当たり前。耐え難い焦燥感に頭を掻きむしり、喚き散らしたい衝動に駆られる。

 どうすれば無駄な正義に燃えるこの男を黙らせられるか、木葉はしばし思考を巡らせ、嘲笑し言葉を紡いだ。

「君に愛する人はいるか?」

「あ、愛っ――!?」

 こういった言い方をすれば、彼は狼狽えるだろうと想定していた。幾度目かの予想に沿った反応に、拍子抜けさえするし滑稽だと鼻で笑いたくもなる。

「俺にはいる。この命を掛けても守り抜きたい、大切な人だ。その人のためだけにこれまでの人生を掛けてきたし、これからだって迷いなくそうする。彼女のためならなんだってできるし、なんだってする。それ程に愛する人はいるか?」

「そんなことお前には関係ないだろ。って言うか、櫻木のこと泣かしてるじゃないか。命懸けで守りたいとか言いながら、お前自身が傷つけてるじゃねえか。なにが愛だよ! バカが、笑わせんなっ!」

 なにもかもを理解しない、何一つも悟らない彼の言動に、木葉はついに重たい溜め息を吐いた。自身は他人を蔑む立場にある、と彼は思っているのだろう。

「全く俺は、君の知性の脆さを疑うよ――」

 無意識の内に口からそう滑り落ちていた。木葉は素っ気なく鼻で笑い、追い込むように言葉を続ける。

「先に言ったはずだ、なんでもすると。傀儡だろうが道化だろうが、なんにだってなれるんだ。天使のように微笑むことも、悪魔のように囀ずることだって可能なんだよ」

 そう嘲るように言ってから不適な口角を正し、いかにも愛想よくと言った風に微笑み「彼女のためなら七色にも変幻自在、どんな表情もご覧に入れて差し上げましょう」と、目を見張る程に紳士的な表情、声音、動作を振る舞った。


「僕の愛する女性は、櫻木マヤではないのです」


 主に一礼する執事のように身を屈め、さっさと踵を返した。背後で罵声が飛んでいたが、もう、どうだっていいことだ。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る