バッテリーさえ交換すれば

吟野慶隆

バッテリーさえ交換すれば

 餡藤(あんどう)呂偉子(ろいこ)は、とある総合公園の西広場に設けられている、とあるベンチに腰かけていた。彼女のパートナーである比渡彦(ひとひこ)は、ついさきほど、近くの公衆便所に入っていったばかりだった。

 呂偉子は、意識的に、ぼんやり、として、辺りを眺めていた。どことなく、いらいらした気分だった。今のうちに、全身をリラックスさせて、精神を落ち着けよう、と考えているのだが、大した効果は得られていなかった。

 数十秒後、ふと、少し離れたあたりにいる、小学校低学年くらいの男児の姿が、目に入った。彼は、呂偉子のいるほうに、背を向けていた。傍らの地面には、ラジコンらしきオフロードカーと、それを操作するためであろうプロポが置かれていた。

 男児のすぐ前の地面には、猫が横たわっていた。おそらくは、野良だろう。瞼は閉じられていて、文字どおり、微動だにしていなかった。呼吸すらしていないに違いなかった。彼は、その体を、ぺたぺたぺた、と両手で忙しなく触っていた。

 呂偉子は、きっ、と眉間に皺を寄せた。ベンチから、ばっ、と立ち上がると、男児に、つかつか、と近づいていった。「ねえ」と後ろから声をかける。「何をしているの」

 男児は、両手を止めると、くる、と振り向いた。当然ながら、怪訝な表情をしており、じろじろ、と呂偉子の全身に視線を遣った。「お姉さん、誰?」

「質問しているのは、わたしのほうよ」呂偉子は、右足の爪先で、地面を、とんっとんっ、と叩きながら、言った。「さっきから、何をしているのよ」

 男児は、むっ、としたような表情になると、ぷいっ、と顔を前に向けた。「これ、さっきまで、元気に動き回っていたんだけど、急に、倒れて、動かなくなっちゃったんだ」再び、猫の体を、ぺたぺた、と触り始めた。「たぶん、バッテリー切れだと思う。ぼく、ちょうど、今、ラジコン用バッテリーの予備を持っているから、交換してあげようと思って。で、バッテリーボックスの蓋を探しているんだ。まあ、規格が合うかどうか、わからないけれど……」

 そこまで彼が言った直後、呂偉子は、両目を瞠り、鼻孔を膨らませ、口を半開きにした。それから、みるみるうちに、顔を真っ赤にすると、「こんな考えの子がいるだなんて!」と大声で喚いた。

 男児は、くるっ、と振り向いた。驚いたような表情をしている。両手は、止まっていた。

「学校教育の低質化よ! ゲーム脳よ! 子供たちの倫理観の低下よ!」

 その後、男児は、呆れ返ったような表情になった。それから、ぷいっ、と顔を前に向けると、みたび、ぺたぺた、と猫の体を触り始めた。

「まったくもう……この国の将来が、心配でたまらないわ!」

「おいおい……いったい、どうしたんだ?」

 そんな、比渡彦の声が、右方から聞こえてきた。そちらに、視線を遣る。

 彼は、すでに、公衆便所から出てきていた。大きなリュックサックを背負っている。

「ちょっと、聴いてちょうだいよ!」呂偉子は、男児の背に、ばっ、と右手人差し指を突きつけた。「今ね、この子が──」

 そこまで喚いたところで、ぱかっ、という音が聞こえてきた。男児が、猫の体の側面に付いていたバッテリーボックスの蓋を、外したのだ。

「よし、このタイプなら、ぼくの持っている予備の物が、使えるね」

 そう呟くと、男児は、ボックスに収められていたバッテリーを、ぱちっ、と取り外した。代わりに、ズボンのポケットから取り出したバッテリーを、そこに入れて、かちっ、とセットした。

 それから、彼は、ぱちっ、とボックスの蓋を閉めた。猫から、手を離す。

 一秒後、猫は、ぱちり、と左右の瞼を開いた。そして、男児の姿に驚いた様子を見せると、あっという間に、その場から、たたたたた、と逃げ去ってしまった。

 男児は、満足気な表情になった。その後、比渡彦は、彼に、「きみ、うちの呂偉子が迷惑をかけたようだね」と声をかけると、頭を下げた。「すまなかった」

 立ち上がると、男児は、くるっ、と振り向いた。笑みを浮かべたまま、言う。「いえ、別に、気にしていませんよ。……それにしても」呂偉子の全身に、じろじろ、と視線を遣った。「すごいクオリティですね」

「だろう? そう言ってもらえると、嬉しいよ」比渡彦は、誇らしげな表情になった後、ふと、顔を軽く曇らせた。「だが、いくつか、欠点があってね……いろいろ、苦労しているよ。例えば、バッテリー切れが近づいてきたら、感情制御コンピューターの能力が低下する、とかね。そろそろ、予備のやつに交換しようかな」

 そう言うと、比渡彦は、呂偉子の首の後ろに手を遣って、バッテリーボックスの蓋を、ぱかっ、と開いた。


   〈了〉

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