賭け
芽衣ちゃんって呼んでくれた。
たったそれだけのことで、ボクの頬はだらしなく緩んでしまうのだった。
…………好きな人に名前を呼ばれることがこんなにドキドキするなんて知らなかった。
予定外にテンパって、何だか変なテンションになっちゃったかも。
前世と言っていいのか何なのかは分からないけれど、とにかく向こうの世界では千早くんがボクの事を名前では呼んでくれることは無かった。
…………結構仲良かったと思うんだけどなあ。
菜々実ちゃんに、ちょっとジェラシー。
まあ、その経験から分かったことは多分こっちからぐいぐい行かないと千早くんは遠慮してしまうということだ。だからボクはもう絶対遠慮なんかしない。
絶対に千早くんの彼女になってみせるんだ。
「ねえ、千早くんって好きな配信者とかいないの?」
ボクがそう問いかけると、ヘッドセットの向こうで息を飲む声が聞こえた。きっとボクの配信なんて観ていないから気を回そうとしているんだろう。
『…………まあいるにはいるけど…………』
千早くんの答えはやっぱり濁っていて、暗にボクではないということを物語っていた。
今のボクは千早くんがこおりちゃんのファンだって知っているからいいけど、もし知らなかったらショックだったかも。
「あ待って言わないで。…………ねえ、ひとつ賭けをしない?」
『賭け?』
「うん。もしボクが千早くんの好きな配信者を当てられたら、何でも一つボクの言うことを聞く。もし当てられなかったら、反対にボクが千早くんの言うことを聞く────どう?」
『いや、そんなこと言われても…………』
唐突なボクの提案に千早くんは戸惑っているみたいだった。
まあ、何でも一つ言うことを聞くなんて言われて、よし待ってましたとはならないよね。千早くんは特に。
「千早くんは当てられなければボクに何でも一つ言うことを聞かせられるんだよ? ボク、千早くんの言うことなら何でも聞いちゃうんだけどなあ……?」
放送でも出さないような精一杯の甘え声でなんとか千早くんを誘惑する。けれど、ボクの好きな千早くんは色仕掛けには乗ってこない気もした。何せ抱き着いたって襲ってこなかったんだもん。
…………もしかしてボク、魅力ない?
『もし負けたら俺何されるのさ……』
「それはこれから考えるよ。大丈夫、変なことはさせないからさ。ほら、どうせ当たらないんだし男らしく勝負してみようよ!」
『うーん……まあそこまでいうなら……。でも、当たらないと思うよ?』
「よーし決まりね!」
千早くんが乗ってきてくれて小さくガッツポーズする。
ふっふっふ、何をお願いしようかな。
それにしても千早くん、絶対当てられないような気持ちでいるけどこおりちゃんってもう結構人気だった気がするんだよね。まあ姫とかバレッタとか他のバーチャリアルの人の方が出やすいとは思うけど。
「じゃあ、言うね────」
願わくば────この世界ではそっと見守っていてほしい。
その名前を、ボクは紡いだ。
「────
『……………………え?』
驚いたような千早くんの声。
「千早くんが好きなのは、氷月こおりちゃん。…………どう?」
『え……うそ、なんで……?』
「ふふーん、どうやら正解みたいだね」
嬉しいような悲しいような。
まあでも、いっか。ボクのことはこれから好きになって貰うから。
◆
芽衣ちゃんとの賭けに負けて数日後、俺のスマホが一通のルインを受信した。
送信者は『神楽芽衣』。
元々鳴ることの少なかった俺のスマホは今や完全に芽衣ちゃん専用機と化していた。
『今週の土曜日、空けておくよーに!』
要件のみの簡素なメッセージ。
…………これが『お願い』なんだろうか。
だとしたら芽衣ちゃんは俺の事を勘違いしていた。
そもそも俺は基本的に予定なんてないし、それに普通に誘ってくれれば断ったりしない。
『お願い』なんかなくたって、俺だって芽衣ちゃんと遊びたいと思っているんだ。
『了解』
異性からのお誘いに浮かれているのを悟られたくなくて、わざと短く返事をする。
「…………ふう」
スマホをベッドに放りなげると、そのままスマホ二号の如くベッドにダイブした。柔らかい感触が優しく背中を押し返してくれる。
…………目を閉じると、脳裏に浮かぶのは芽衣ちゃんの顔。聞こえるのは、芽衣ちゃんの声。
最近芽衣ちゃんとゲームすることが多いから、どうしても意識してしまう。
元々異性と関わりの薄い人生を送ってきた。これからもずっとそうだと思っていた。
そこに強烈に入り込んできた神楽芽衣という存在に、俺はどうしていいか分からなくなってしまっていた。初めて抱く感情の連続に頭が追い付いていない。
…………付き合いたいとは思わない。俺と芽衣ちゃんじゃあまりにも釣り合っていない。そんなことは俺にだって分かる。
…………いくら俺でも、そこまで浮かれたりしないさ。勘違い男の痛いエピソードなんてネットにいくらでも転がっている。
ただ、この関係が出来ればずっと続いてくれればいいなって、それくらいは願ってもいいはずだ。
そんなことを考えながら、気付けば俺は眠りに落ちていた。
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