煙草

晴海川 京花

第1話 憩いの場

 通勤途中のいつもの朝。

 俺は出社前に、必ず立ち寄る場所がある。

 

 喫煙所だ。


 会社がある最寄り駅のホームにたどり着くと、歩幅の小さな階段を降りて行き、電子マネーカードを改札口にタッチして通過する。

 バスターミナルを通りすぎて、大通りから一本外れた裏路地に入り少し歩くと、古い民家に囲まれた一軒の小さなコンビニがある。

 俺はいつも、そこのコンビニで缶コーヒーをひとつ買い、腰ぐらいまでの高さがある銀色の灰皿を利用して、缶コーヒーを飲みながら一服をする。

 俺は、この場所を見つけてからというもの、駅からさほど離れていないのに、静かで居心地の良さが気に入り、出社前にはここに立ち寄って一服してから会社に向かうことが俺の中で一つの日課になった。

 ここに来る途中にも喫煙所はある。改札口から見えるほどに大きく、分かりやすい場所に設置されていて、大体30人ほどが入れるガラス張りで造られた喫煙ブースだ。

 だが、いつ見ても人だかりが出来ていて、朝の通勤ラッシュともなれば尚更だ。

  

 都の条例により、路上喫煙は禁止されている。


 それを知ってて知らないでか、周りの目を気にせずに喫煙ブースの外でタバコを吸う人もいる。

 俺も喫煙者だから、吸いたい気持ちは痛いほどに分かる。


 何せ、かつては俺も、利用しやすいことからこの喫煙ブースで朝の一服をしていた時期がある。

 外での順番待ちをし終わり、喫煙ブースに入ると、目の前の景色ががらりと変わる。

 人一人分のスペースはあるものの、自由に動けず極端に狭く感じる。それに、中に置いてある四つの灰皿は吸い殻で満タンになり溢れ返っていた。

 しかも、その下にあるコンクリートの地面の上にも吸い殻が散乱していて、気が休めず全く落ち着かない。

 喫煙ブースを覆う透明なガラスは、副流煙により外からも内側からも真っ白に見えるほどに視界を奪う。

 俺は、この環境が心底嫌になり、もっとゆっくり落ち着いてタバコが吸える場所を探すことにした。

 

 あれから数日が経過した。

 灯台もと暗しとはこのことだろうか。

 定時退社の帰り道、考え事をしながら最寄り駅まで歩いている途中、ふと周りに目をやるといつもとは違う風景に戸惑う。

 俺は現在地を知るために、カバンからスマホを取り出すと画面のロックを解除した。

 地図アプリを開き、それを見ながら駅方面に歩いていると、その通り沿いにある一軒の小さなコンビニが俺の視界に飛び込んできた。

 俺はその場で立ち止まると、周囲を見た。

 今まで気付かなかったが、夕方なのに人通りが少なく、道幅が狭いためか、車の往来もほとんどない。しかもそのコンビニには、一つの灰皿がポツンと置かれていた。

 俺は、ここのコンビニに立ち寄ると、缶コーヒーを一つ買い、外にある腰ほどの高さの灰皿の前でタバコに火を付けてコーヒーを飲みながら一服をする。

 最初の一口を、息を吸い込む要領で空気と一緒に肺へと入れる。

「ふぅ。夕暮れ時なのに、やけに静かだな。明日の朝、もう一度ここに来てみるか」   

 二口、三口とタバコを味わっていると、手に持っていた缶コーヒーは飲み終わり、同時にタバコも一緒に吸い終えていた。

 俺は灰皿で火種を消すと、近くにあったゴミ箱まで空き缶を捨てに行く。

「さて、帰るか」

 俺はこの場所を忘れないように、周りの景色と駅に続く道を覚えながら帰宅した。


 翌朝。

 俺は、前日よりも早く起床して、いつものように身支度を済ませた後、バスと電車を乗り継ぎ、駅に到着すると、昨日の帰り道に見つけた裏路地にあるコンビニへと向かった。

「ふむ。ホントに駅前か? さっきまでの人混みが嘘のようだな······これなら」

 俺はコンビニに入っていき、缶コーヒーを買うと、外に置いてある灰皿の横でタバコに火を付けて、それを口に加えながら周りを観察し始めた。

 すると、車はおろか、人通りも少ない。朝方の通勤ラッシュが始まって間もない時間帯だと言うのに、この場所は怖いと思えるほどに静けさを保っている。

「良い場所を見つけたな。気に入った。明日からは、ここに寄ってから会社に行くか」

 吸い終わって短くなったタバコの火種を灰皿で消すと、空き缶をゴミ箱に捨てに行き、会社へと向かう。

「よし。今日も仕事だ」

 この時に吸ったいつもと変わらぬ銘柄の煙草は、普段とは違う格別な味がした。


 俺はこの日を境に、お気に入りのコンビニに立ち寄った。

 出社するときには、必ず向かう。

 毎日、毎日通った。

 毎回決まった時間に来店し、同じ缶コーヒーを一つ買うと、外にある灰皿で一服をする。繰り返していく内に、自然と店長さんと仲良くなり、世間話をするようになった。

 月日が流れて、気が付けば通い始めてから約半年が経過した。

 俺は今日も、いつものように顔なじみのコンビニに向かっている。

 すると、今日は珍しく先客らしき一人の男性が俺の視界に入ってきた。俺はその人物の横を通り過ぎ、いつものように缶コーヒーを買い、外の灰皿に場所を移した。


 俺は胸ポケットに忍ばせているタバコに手を伸ばし、箱から一本だけを抜き取り、口に加えた。火をつけようとライターを取り出そうとして、再び胸ポケットに手を入れようとするが、突然目の前に、火が現れた。しかもご丁寧に、その火が消えないようライターから発火された小さな炎を手で覆ってくれていた。

 俺はそのまま、口に加えているタバコの先端をその火に近づけると、息を吸い一口目の味を楽しんだ。


 これだ、この感じ。 

 二口、三口、それ以上でもなく、火を付けてから一番最初に味わうこのなんとも言えない至福がたまらなく好きなのだ。

「ふぅ。うん、うまい」

 空気と一緒に肺に入れたタバコの煙を、空に向かって吐き出す。

 俺は、隣にいる男性に一礼をしてお礼を言う。

「すいません。火を付けてくれてありがとうございます」

「あ、いえ。大丈夫ですよ」

 簡単な会話を終えると、俺とその男性は、再び周りの景色を眺めながらタバコを堪能する。

 すると、隣にいる男性から声をかけられた。

「ここは駅前と違って、静かで落ち着いて、ゆっくり一服出来るのでいい場所ですよね」

「はい。俺もこの場所は気に入っています。実は、ちょっと前に駅前にある喫煙ブースを利用していたのですが、どうも環境が嫌になりましてね。偶然、この場所を見つけました」

「やっぱり、あなたもそうでしたか。実は私もなんです。こんな偶然もあるんですね」

 俺は男性に目線を移すと、彼の顔の表情はちょっと嬉しそうに見えた。

 だがそのあと、少し残念そうな表情で話してくれた。

「喫煙者の肩身は段々狭くなってきてますから、結構つらいですよね。それに、マナー違反する人も中にはいるので、余計にですよね。全く、ルールを守ってもらいたいものです」

「はい。それは同意しますね」

 初めて会った喫煙者の二人は、少ない会話ですっかりと意気投合した。

 初対面で行われた談話は、双方のタバコの火が消えるまで続けられた。

「ありがとうございます。よいお話が出来ました。私はこれから出社なのでこれで失礼しますね」

 男性は俺にそう言うと、ポケットから何かを取り出して、自分の口の中に放り込んだ。俺はそれが何なのかが気になり、彼に訊ねてみることにした。

「すいません。今、口に入れたのって何ですか?」

 男性は、ニコッと笑って答えてくれた。

「粒タイプのタバコ専用口臭ケアです。私は営業職ですので、相手に不快感を与えないようにタバコを吸った後は必ず使っています。タバコの匂いをお嫌いな人は、中にはいらっしゃいますからね。ここのコンビニにも売っていますよ。それでは、失礼します」

 そう言うと、彼は俺に軽く一礼してからその場を後にした。

 俺の視界から徐々に遠ざかっていく彼の背中を見ながら、彼の言葉を脳内で再生していた。

「口臭ケア……か。今まで、考えたことなかったな」

 俺は今まで、口臭のことは気にしていなかった。

 だが、俺の職業も彼と同じ営業職。

 今まで取引先や会社の人たちからは、そのような指摘を受けたことがない。いや、言われてないだけで、自分が気付いていないだけかもしれない。

「よし、俺も彼を見習って行動に移そう」

 俺は再びコンビニに入ると、口臭ケアを手に持ってレジへと向かう。

「これ、お願いします」

「お、お兄さんもついに口臭ケアを買うようになりましたか」

「ええ。さっき外で談話していましてね。今まで、意識してなかったもので」

「タバコって意外と独特の匂いはしますよね。僕はタバコは吸わないので、街中を歩いていても匂いですぐわかっちゃうんですよ」

「あ、そうなんですね。じゃあ、今ももしかして……?」

「お兄さんだから言いますけど、この距離でも匂います。すみません……」

 店長さんは少し苦笑いをしながら、申し訳なさそうに答えてくれた。

「いえ、教えてくれてありがとうございます」

「いえ、こちらこそすみません。あ、そうだ。今お兄さんだけで、会計も済んでるので、口臭ケアをここで試してみますか?」

 店長さんの発言に、俺は耳を疑った。

 馴染みとは言え、流石に店内では気が引けると思ったが、相手が店長ということもあり、試してみることにした。

「では、お言葉に甘えさせてもらいます」

 俺はケースから一粒取り出すと、ポイっと口の中に放り込む。

 粒を歯でつぶすと、口の中でシュワっとミントが広がり爽快感を感じられた。

「店長。どうでしょうか?」

「さっきより大分ましですね。ミントの爽やかな匂いがします」

「ありがとうございます。短時間で効果を実感出来たのはいいですね。では、失礼します」

「はい。こちらこそ、ありがとうございます。また明日、お待ちしていますね」

 俺は、気分を新たにコンビニを後にする。

「よし。これから出社だ。もしまたここで彼に会うことが出来たなら、今度は俺の方から火を付けてあげよう」


 俺は、お気に入りの場所で、今日初めて会った彼に感謝をしながら、意気揚々と会社に向かう。



 

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