独歩(ひとりあるく)

永嶋良一

第1話

               1

 今日もあの老人が図書館に来ていた。いつもの女物の赤い柄シャツが眼についた。娘のお古でも着ているのだろうか? 老人はいつもの日課に取り掛かる。国木田独歩の「武蔵野」を書架から抜き出し、午前中かけて読むのだ。午後からは窓辺の席に腰を掛けて、窓の外に広がる武蔵野の雑木林をぼんやり眺めている。いつも一人で、誰かが付き添っているのを見たことがない。誰かと話をするのを見たこともない。いつも黙って本を読んで、窓の外を眺めている。毎日、同じことの繰り返しだ。寂しそうだった。俺は図書館のカウンターから毎日それを見ていた。


               2

 私は書架から「武蔵野」を取り出すと、いつもの窓際の席に座って読み始めた。図書館の中で私に気づく人は誰もいない。

 国木田独歩の「武蔵野」は図書館で毎日読んでいる。もう、大方の文章は暗記してしまった。「武蔵野」の中でも、とりわけ私の好きなのは日記形式の文章の部分だ。独歩は「武蔵野」の前半で、作者の日記として武蔵野の自然を紹介している。以下、「武蔵野」から私の好きな箇所を引用してみよう。


十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」

同十八日――「月をんで散歩す、青煙地をい月光林に砕く」

同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹をまじゆ。小鳥こずえてんず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟こうぎんし、足にまかせて近郊をめぐる」

同二十二日――「夜けぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」

同二十三日――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」


 図書館の終了時間が来た。私が恐れる時間だ。私は図書館を出て歩いた。

 私は孤独だった。長年勤めた会社を定年退職した後、妻に先立たれた。娘と息子が一人ずついるが、子ども達は独立して家にまったく立ち寄らなくなった。娘のお古の赤い柄シャツを着ることだけが、私と子ども達との唯一の接点だった。親兄弟はとっくに他界している。いつしか学生時代や会社時代の友人たちとも疎遠になった。今は年金だけで細々と暮らしている。いつの間にか毎日図書館に来て「武蔵野」を読んで、窓の外の雑木林を眺めることだけが私の唯一の楽しみになっていた。

 ふと気がつくと、眼の前に雑木林があった。鬱蒼としていた。いつも図書館から見る林ではなかった。こんな林が図書館の周囲にあったとは知らなかった。早くに家に帰ったとて、私を待っている者は誰もいない。私の足は自然に林の中に進んだ。

 中に入るとひんやりした冷気が私を包んだ。夕闇が迫っていたが、頭上にはまだ青空が残されていた。青空を烏が鳴きながら飛んでいった。まわりの木の葉は黄色く色づいて、地面は落ち葉で埋まっていた。私が歩く度に落ち葉が乾いた音を立てた。静かだった。私の頭に枯れ葉が二三枚、音もなく落ちてきた。私は枯れ葉を頭にのせたまま歩いた。静寂が私にまとわりついた。誰にも会わなかった。

 ふいに、私の心に先ほど感じた孤独が甦った。今ここで私が倒れて死んだとしても誰も悲しむ者はいない。いや、それどころか気づく者さえいないだろう。私は生きているが、社会の中には存在していなかった。突然、私の身体が周りから浮き上がり、隔絶し、見えない存在になったように感じた。いや、周りからは私の身体は見えているのだ。見えていながら無視される存在だった。見えないのと同じだった。誰も私に声をかける者はいない。孤独が私の心を満たし、寂寥が心の縁から溢れ出して私の身体をさいなんだ。

 いたたまれなかった。まわりの静寂が恐怖に変わった。私は林の中を走った。孤独の恐怖から逃げるように無我夢中で走った。走っても走っても林は続いていた。


               3

 しばらく走ると、前方に切り株が見えた。若い男が座って本を読んでいた。私は足を緩めた。荒い息を整えた。若い男の方に歩いて行った。

 「散歩ですか?」

 急に若い男が話しかけてきた。細面の屈託のない顔だった。顔に知性があった。鼻の下に髭を生やしている。いまどき髭とは珍しい。

 「ええ」

 まさか孤独に苛まれて逃げているとは言えない。私は曖昧に返事を返した。しかし、人と話をするのはいつぶりだろうか?

 「私は読書です」

 男は私に読みかけの本を見せた。安物の簡単な装丁の上に『あいびき』とあり、下に『ツルゲーネフ著 二葉亭四迷訳』と書かれているのが見えた。ずいぶん昔の本だ。

 男は切り株の横に私を座らせると、国木田哲夫と名乗った。国木田と私は武蔵野の四季や自然や人の営みについておもむくままに話をした。国木田は博学だった。そして武蔵野を愛していた。私は国木田の話に引き込まれていった。

 いつしか私と国木田は雑木林の中を歩いていた。国木田はこの林をよく知っているようだった。道が分かれているところでも躊躇なく右に左にと進んでいった。その度に国木田は私に草木の名前や土地の名前や土地に由来する話などを面白く聞かせてくれた。私は心地よく彼の話に相槌を打った。私は人と話す楽しさに夢中になった。ここには私を無視しない人間がいた。いつの間にか私の中の孤独感は消えていた。

 ようやく、私たちは林の切れ目に出た。畑があった。畑の間に農家が散在していた。小川に小さな木の橋が架かっていた。まるで日本の原風景を見るようだった。私は国木田に言った。

 「まだ日本にこんなところが残っているんですね」

 国木田は私の言葉を勘違いしたようだった。

 「ええ、人の生活と自然とがこのように密接しているところは武蔵野だけですよ」

 そこで私は国木田と別れた。畑の中の道をしばらく歩くと、見覚えのある電車道に出た。私は満ち足りた気分で家路についた。

 翌日、私はいつものように図書館へ行った。国木田独歩の「武蔵野」を書架から抜き出し、いつもの椅子に座って読み始めた。私の心は子どものようにはしゃいでいた。今日も図書館が終わったら、あの国木田に会いに行こう。

 私は「武蔵野」を読み進めた。大好きな日記のところにきた時だ。私は飛び上がった。印刷された文章が違っているのだ。図書館の本にはこう書かれていた。

 同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹をまじゆ。小鳥こずえてんず。口吟こうぎん

 「」以下は「一路人影なし。独り歩み黙思口吟こうぎんし、足にまかせて近郊をめぐる」だったはずだ。どうしてこんなことが?

 私の胸に国木田哲夫という名前が甦ってきた。私は書架に取って返し、むさぼるように本を漁った。

 国木田哲夫は国木田独歩の本名だった。私は茫然となった。昨日、私と話をしたのは国木田独歩だったのか。

 しかし、あれが過去の人間だったとは・・・と、いうことは、私はもう国木田には会えないのだろうか? 私の心に孤独という言葉が甦ってきた。何とかして、国木田に会いたい。国木田、そして国木田の時代には、今の時代には無い懐かしい何かがあった。私はカウンターから赤いボールペンを持ってきた。そして「武蔵野」の先ほどの文の横に次の文字を書き加えた。

 『


               4

 急にあの老人が図書館に来なくなった。年が年だけに万一ということも考えられた。しかし、俺が気をもんでも仕方がなかった。俺は老人の名前も住所も何も知らないのだ。

 年が明けて、春がきて、夏が過ぎた。そんなある日、俺は国木田独歩の「武蔵野」を書架から取り出した。あの老人がいつも読んでいた本だ。急に老人のことが懐かしく思い出された。俺はぱらぱらと本を繰った。

 俺は飛び上がらんばかりに驚いた。「武蔵野」の終わりの方の文が違っていた。ここは武蔵野にある図書館だ。俺は仕事柄、独歩の「武蔵野」をよく読んでいた。元の本来の文章は間違いなくこうであった。

 『神田上水の上流の橋の一つを、夜の八時ごろ通りかかった。この夜は月えて風清く、野も林も白紗はくしゃにつつまれしようにて、何ともいいがたき良夜りょうやであった。かの橋の上には村のもの四五人集まっていて、らんって何事をか語り何事をか笑い、何事をか歌っていた。その中に一人の老翁ろうおうがまざっていて、しきりに若い者の話や歌をまぜッかえしていた。月はさやかに照り、これらの光景を朦朧もうろうたる楕円形だえんけいのうちに描きだして、田園詩の一節のように浮かべている。自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月はるやかに流るる水面に澄んで映っている。』

 この中の『その中に一人の老翁ろうおうがまざっていて』という文が『その中に一人の老翁ろうおうがまざっていて、しきりに若い者の話や歌をまぜッかえしていた。』に変わっていたのだ。

 『一人の老翁ろうおう』・・・俺は老人の赤い柄シャツを思いだした。

 そのとき、図書館の窓から、あの老人が歩いているのが見えた。赤い柄シャツを着ていた。老人が俺の方を見た。にこりと笑った。俺は老人が笑うのを初めて見た。心から楽しそうだった。そして、老人の姿は消えた。

 俺は、もう老人が図書館には現れないことを悟った。「武蔵野」を書架に戻した。俺の心に温かいものがこみ上げてきた。俺はカウンターで赤いボールペンを手にして、書架に向かった。

                                了

(国木田独歩著「武蔵野」は、青空文庫作成ファイルから引用)


 

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独歩(ひとりあるく) 永嶋良一 @azuki-takuan

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