馬が嫌い。

シーラ

第1話

馬が嫌い。-1


僕は馬が嫌いだ。馬の存在すら不愉快だ。

もう二度と、見たくも聞きたくも無いって思ってたんだ。あの時までは。あんな世界があるなんて。


僕は、無知だった。


ーーー


「おい!鉄板もってこい!」


「はい!」


時計を見たら5時だ。8時までに寄合い場へ出荷する分を作らなきゃいけない。そろそろメロンパンにクリームを詰めなきゃ間に合わない。冷ます台を空けておかないと、12分後に焼き上がるタルトタタンを置く場所が無い。


「ウラ!カラメル作っておけ!1キロだ!」


店長からの怒鳴り声を聞きつつ、メロンパンにクリームを絞り入れる。


「はい!……あの。これ詰め終わったので、袋詰めお願いします」


「はいよ」


隣にいるパートのおばちゃんにメロンパンの乗った鉄板を渡す。おばちゃんはベテランで、手際良く袋にメロンパンを入れていく。綺麗で丁寧な作業だ。だけど、見とれている時間はない。

鍋にカラメルの材料を入れて強火にかける。様子を見ながら洗い物を片付けていく。


あ、先輩が作っているパウンドケーキの生地が完成しそうだ。紙を敷いた型を先輩の横に並べて準備しておく。


「置いておきます!」


一言かけてその場を離れようとすると、S先輩から太もも辺りを蹴られた。勢い良く地面に転けて先輩を見上げると、笑われた。


「そんなので転けんのかよ。本当愚図だな」


「………」


「『ビックリしましたよ〜』とか、気の利いた事が言えねえのかよ。だから女も出来ねえんだ」


S先輩は入社して10年。店長の信頼は厚い。

S先輩も店長も、この業界ではこういう事は当たり前だし、耐えられない奴は何処に行っても通用しないと言う。

この業界は広いようで狭い。僕が何かをすれば、それは直ぐに広まり、次の就職に不利になる。我慢の出来ない奴はいらないんだ。


「すみませんでした」


「カラメル焦げるぞ愚図!」


「汚ねぇ手、洗ってから作業しろよ!」


店長とS先輩から吐き捨てられながら、急いで手を洗う。蹴られて跡がついたままのズボンは放っておく。


カラメルは端が色付きはじめていた。僕は、カラメルを作るのが好きだ。少し火入れの時間が長いと直ぐ焦げてしまうが、苦くて甘いカラメルに仕上げるにはそのギリギリを攻めなければならない。砂糖と僕の戦い。よし!ここだ!

深い琥珀色になった所で火から下ろし、水を入れて色を止める。よし!今日も上手に出来た!


「ウラ君。チョコレートクリームが無くなったわ。あと2個どうする?足りないわ」


おばちゃんがコッペパン2個を指差して僕に指示を仰ぐ。直ぐに作業台の下の冷蔵庫を確認して、昨日作っておいたレモンカードと生クリームを取り出して、渡す。


「レモンカードと生クリームを詰めて下さい。店長。プリンパンは20個ですか?」


「あ〜、いや、予約が入ったから追加で5個だ。それにしても、何でまだパウンドケーキが仕上がってないんだ。マドレーヌが仕込めないだろ」


店長がイライラと呟く。無理もない。S先輩は今日も遅刻していた。そんな日にかぎって予約数も多く、時間におされている。


「店長。俺、めっちゃ可愛い子見つけたんですよ。一緒に行きましょうよ」


「おお、そうか。そいつぁいい」


S先輩がニヤつきながら言うと、店長の機嫌が急激に良くなった。


これが、僕の働く製菓店での日常。


ーーー


今日の昼の中休憩は2時間。店から家まで徒歩15分。単純計算で1時間半は自由時間だ。早歩きしながら家へと向かう。


「ふわふわ、たっぷりクリーム……クルクルクレープ」


好きなアニメの歌を口ずさみながら、道だけを集中して見るように歩く。子供みたいだけど、こうしているとその世界の住人になれている気がするんだ。現実逃避ってやつだ。

そうでないと、見えてしまう。僕の働く製菓店の目の前にある乗馬クラブが。嫌でも馬の存在を感じてしまう。


どこか他で働きたい。此処に住んでいたくない。でも現実は、高卒で資格も無い僕を正社員で雇ってくれる所なんて無かった。高校時代からバイトとしてこの製菓店に入って、卒業と同時に社員として雇ってもらえた。こんな僕を拾ってくれた店長に恩は返したい。


「うぐいすはとりじゃないよ……ぐげっ!!」


いきなり肩を掴まれて変な声を出してしまった。誰だと反射的に振り返れば、何となく見覚えのある男がすっごい笑顔で立っている。


「久しぶりじゃんか〜!!ウララぁ〜!!変わらなさ過ぎてビックリした!俺だよ!琢磨だよ!」


高校時代に友達だった琢磨。髪の毛の色は灰色っぽい白に染めている。コイツは大学に進学してから、充実した生活を送っているみたいだ。


歌を聞かれていたんじゃないか?ヤバい。ここは、冷静に。落ち着け僕。


「…琢磨か。何だよ」


「2年ぶりか?変わってないなぁ!お前携帯持ってないから連絡できないし、どうしてっかなって心配してたんだぜ。今日暇?」


「………仕事の中休憩中。時間は無い」


高校時代に2年間同じクラスだった琢磨。無駄に明るくて、僕とは正反対の人物だ。親しくしていた……が、僕が進学を断念してから音信不通だった。こんな僕を見られたくなかった。大学に行ってキラキラしている琢磨を見て、恨みたくなかった。


「あそこの製菓店で働いてんの?カッコイイなぁ!でさぁ〜、俺。中学で乗馬は辞めてたんだけど、馬が可愛くて大学の厩舎の掃除に行ってたんだ。そしたら、ここの乗馬クラブのアルバイトを紹介してもらってよ!」


僕と同じ速度で歩きながら琢磨は息を切らさず、ずっと話している。僕はイライラして歩みを止めた。


「あのさ、琢磨。いいか?」


「何だよ?乗馬クラブに興味ある?」


「僕は資格を取る為に勉強をしたいんだ。帰ってくれ」


冷たく言い放つ。僕とお前は住む世界が違うんだ。もう、かまってくれるな。


「わかったよ。今日は邪魔しねぇよ。ここがウララの住んでる部屋?わかったわかった。じゃ、仕事頑張れよ!またな!」


あっさりとかわすと、琢磨は両手を振りながら元気よく走って行った。無駄に体力があるようだ。

呆れつつ玄関の鍵を取り出し、玄関の扉を開ける。

さて、気持ちを切り替えて昨日の続きをしよう。食品衛生法の所だ。


琢磨に会えたのは、正直嬉しかった。偶然に感謝したい。けど、僕が馬が嫌いな事をアイツは知っているのに。気分が悪い。それと同時に嫌な予感もする。


「馬なんて、クソだ」


ーーー


ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン


ドンドンドンドンドンドン


インターフォンと玄関の扉を叩く音で目が覚めた。驚いて時計を見れば、朝の7時。何事だろう、絶対に宅配業者では無い。きっと、酔っ払いが部屋間違えて騒いでいるんだろう。この前も一回あった。あの時は大変だった。出ない方が良い。


今日は定休日。昨日、店を閉めてからケーキ作りの練習をしていた。帰ってからも食品添加物についての勉強をしていた。

心身ともに疲れてんだ。あと2時間は寝たい。布団に潜ると


「ウララ〜!ウララ〜!ウララちゃ〜ん!起きてるか〜?ウラ…ほげぅ!?」


勢いよく玄関の扉を開ける。琢磨に直撃した。これくらいで勘弁してやる。


「琢磨、お前、ワザとだろ」


僕の名前を早朝からでかい声で叫びやがって!!怒鳴りたい所だが、腕を掴んで部屋に引き入れる。ここで追い出せばまた僕の名前を叫ぶだろう。


「おはようウララ。今日定休日だろ。一緒に競馬場行こうぜ」


その一言に、僕は全身の毛が逆立った。コイツ、記憶喪失にでもなったのか。


「まぁまぁ、落ち着けよ。人は時に休息する事も必要さ!だから、一緒に行こうぜ!」


「行かない。帰れ!」


「お前凄い顔になってんぞ。そう頭ごなしに怒んなって。お前、そのまま出掛けられる服着てんな。よし。行くぞ!部屋の鍵は?」


「鍵はそこの棚……って、僕は行かないぞ!何すんだ!お、おい!」


奴のテキパキした雰囲気にのまれそうになる。このままでは駄目だ。僕は流されないからな!

腕を引かれながら外に出ると、琢磨のバイクが待ち焦がれるかのように待っていた。


「バイクは乗った事あるか?」


僕の意見なんて聞かないで、琢磨が頭に無理矢理ヘルメットを被せてくる。

丁寧に調整してくる辺り、コイツの几帳面さは高校時代から変わらないようだ。変わってないんだな、琢磨は。


「よし!それではウララちゃんとの初タンデムと行こう!競馬場に向けて出発だ!」  


僕は否定した。嫌だって言ったんだ。だけど、ここで騒がれたらこのアパートに住んでいられなくなるかもしれない。無理矢理な琢磨に、大人しく従う事にした。

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