二十五

昨日はじめじめと雨が降っていたのが、やっと今日の朝になって晴れ間がのぞいた。

梅雨の季節に入って、今日は幸い雨の日が続くのかと思うと、少し気鬱になりそうだ。


千夜は暖簾のれんを掲げながら、太一とかやのことを考えていた。


幼くして亡くしてしまった娘の名前と同じことから、二人はお玉稲荷神社を信仰していて、足を運んでは祈ることを日課としている。

だが、連日雨が続く季節となって、千夜は二人の身体が心配だった。


さすがに野分のわき(台風)になれば行かないだろうが、差しさわりのない雨程度ならきっと行くのではないかと思う。

事実、雨の日にも出かけたことはあるのだから、やはり二人は行くのだろう。


千夜はまだ、太一が体調を崩すところを見たことがないし、かやにいたっても、初めて会った日だけのことであった。

二人の身体が丈夫なことは理解していても、もし風邪でもひいてしまったらという心配は消えない。


せめて羽織でも作ってあげようか。

かやから裁縫を習っているから、恩返しの意味を込めても作りたい。

心配しすぎだと突っ返すような二人ではないことも承知している。


そうと決まれば今夜からでも取り掛かろうと、秘かに勢い込んだ。


店に入ろうとしたところで、二ちょう駕籠かごが後ろを通り過ぎて、満月屋の前に止まった。

その内の一挺から、ぴょこりと女の子が首だけを出して辺りを見渡した。


「あ!おねぇちゃん!」


「お君、待ちなさい……」


千夜の姿を見つけた女の子は、駕籠の中から聞こえた女の制止を振り切って駆けてくる。

にこにこと微笑むその子を、千夜はどこかで見たことがある気がした。

次いではりきった口調で告げられた言葉で、思い出した。


「卵焼き、ください!」



「あの日からお君はずっと卵焼き卵焼きと言い続けていたんです。

よほど美味だったんだと、私まで食べたくなりましてお邪魔させていただきました」


お君と、連れ立ってきたのはお君の父の喜左衛門と母のおつゆである。

千夜はこの三人とは以前に、花見をした折に会ったことがあった。


一人で花見の席を外してしまったお君は、千夜と冬野がいた席に来たところ、弁当に入っていた卵焼きをねだり食べさせてあげたのである。

お君はそれ以来、同じ卵焼きが食べたいと両親を困らせていた。

何しろ千夜たちの名前すら聞いていなかったのだ。

食べさせてあげたくても、家で作った卵焼きも美味しいけれど味が違うとはっきり言われてしまう。

と、困っていたところに喜左衛門が相談したのが……


「定町廻り同心の荒木さまにお尋ねしたら、こちら様ではないかとうかがいましたので」


「荒木さまが……」


喜左衛門たちに会ったときに、千夜は冬野と二人きりで逢瀬を楽しんでいたので、いささかばつが悪かった。

武士と町娘が花見を決め込んでいる姿を、喜左衛門たちにはどう見えていたのだろうか。

目立っていたからこそ印象に残って、音十郎にも相談できたのではないかと考えれば、自らがしでかしたことに今さらながら千夜は怖気づく。


ふと目が合ったおつゆが微笑んでくれて、表情に出る前に千夜は持ちこたえることができた。


太一がお君たちに作ったのは、もちろん卵焼きである。

他にも稲荷寿司に海老しんじょう、野菜の和えもの、まくわ瓜を小さく切ったものも載せて、千夜とかやは三人の前に運んだ。


「いただきます!」


やっと再会できたと言わんばかりにお君の瞳は輝いている。

真っ先に箸を伸ばしたのも、卵焼きだった。


小さい口で、一口目を頬張る。

ぎゅっと目をつむって、晴れやかな笑顔で言った。


「美味しい!」


噛むと溢れる出汁だし、そして優しく甘い卵の味を見ている千夜も想像してしまうほど、お君の言葉が響いた。

満月屋の味によろこんでもらえてよかったと、かやと連れ添って手を合わせる。


あっという間に卵焼きを食べ終えたお君は、すでに違うおかずを味わっていた。

どれも美味しい美味しいと漏らして、隣に座る両親もそんな娘の姿を微笑ましそうに見ている。


「あら、お野菜も食べなきゃいけませんよ。美味しいから食べてごらんなさい」


とおつゆに言われた途端、お君は口をへの字にした。

野菜が苦手なのかもしれない。


さて、お君は野菜を食べてくれるだろうか。

これには作った張本人の太一も、行く末を見守っている。


お君はごくわずかに野菜の和えものをちょんと箸でつままんで、嫌そうに口の中に入れた。


「……!」


あれれ、意外といけるじゃんという顔をして、お君はきれいに食べきってみせた。


「偉いわね。かかさまの卵焼きもあげるわ」


手を上げてうれしがる娘に、おつゆは自身の分の卵焼きを分け与えた。

仲睦まじい親子の姿を目の当たりにして、やはり千夜の脳裏のうりよみがえるのは亡き母の姿だった。


千夜の母もまた、よく千夜の好物が食事にでれば分け与えてくれていたのだ。


どうしていなくなってしまったの……どうして……

まだ両親の死を受け入れられなかった千夜は、毎日泣きくれるような日々を送っていた。

そして不幸の中で幸福な親子の姿を見ては、羨ましくて仕方なかった。


けれど今の自分は……


(よかった……笑えている)


たしかに昔の幸せも、千夜の中に存在している。

何より、大切な存在が、太一とかやは側にいて離れない。

千夜は今も、幸福の只中にいるのだ。



お君だけでなく、舌が肥えているだろう商家の主人の喜左衛門とおつゆも満月屋の味にはご満悦であった。

一行は気持ちよく店を後にする。


「私はあまり自由な時間がとれないもので、足が遠のくかと存じます。

ですがこれからも、妻とお君のことはよろしくお願いします」


つまりまた満月屋に来たいと言ってくれる人たちに、千夜たちは深々と頭を下げた。


「小さい店ですが、精進してやっておりやすので」


「いつでもお待ちしております」


しきりに手を振っていたお君が駕籠に乗って、神田の往来に消えていった。


今日あたり、冬野は来てくれるだろうか。この花見の縁を話したい。

お君たちを見送ってすぐに、客の書き入れ時となった。

想い人の姿を浮かべる暇はないようだ。

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