二十

その日の夜はとても店を開けることなどできずに、戸締りを厳重に施した家の中に太一はいた。

隣の部屋から漏れ聞こえていた千夜の泣き声がやんで、やっと一つ息を吐く。


千夜の側にいたかやが部屋から出てきて、静かに太一の近くに座った。


「やっと眠ったみたい……」


間一髪で助かった千夜だが、事が事だけにすっかり蒼白になって、太一とかやがなだめていた長い時間を泣いていた。

取り乱しはせずに大人しかったものの、身体の震えは一向に止まらなかったのだ。


「……明日、俺が荒木さまのところに行ってくらぁ」


太一のつぶやきには、怒りとやるせなさが混じっている。


もしも財布を忘れていなかったら、忘れたことに気づくのが遅れていたら、千夜は深いところまでを凌辱されていたのだ。

千夜を傷つけようとした、いや、充分に傷つけたあの男たちを、許せるわけがなかった。


さっそく明日には千夜の保証人でもある荒木音十郎の力を借りようとする。


「あの子、何回もごめんなさいって言うのよ……」


それが誰に対しての謝罪なのか、かやにはわからなかったが、もしかしたら自分と太一に対してではないかと感じていた。


「何も悪くないのに……」


一瞬にして千夜の笑顔を奪われた悔しさが声になって、熱い涙がかやの目から零れ落ちた。



翌日、満月屋に北町奉行同心の荒木音十郎が訪ねて来た。


「どうも御足労をおかけ申します……」


早朝のうちに太一は近くの自身番に行って、荒木音十郎に来てもらいたい旨を告げていた。

わざわざ呼び立てたのは、家に千夜とかやだけを残しているのが心許こころもとなかったからで、いつまた男たちが来るかもしれないと思えば、家を空けたくなかったからだ。


南北の奉行所は月番制で、今月は南町奉行所の月番である。

とはいえ休みではないので音十郎は奉行所へ出仕するところを、番太から聞いた岡っ引きの知らせですぐに満月屋に足を運べたのは、月番ではなかったからだった。


太一は昨日の顛末てんまつを、暖簾のれんを上げていない店の中で音十郎に告げた。


「ちっ、俺としたことが気が回らなかった。

相手が侍じゃねぇなら、すぐにでもしょっ引いてやるから安心しろ」


千夜をおとしめていた山ノ井主税がつるんでいた仲間とは、侠客きょうかくまがいのごろつきたちで、特に贋金にせがね作りには関与していなかったことからお咎めはなかった。

というより、山ノ井家が捕まってすぐに、世間に後ろ暗い彼らは雲隠れしていたのだ。


自由の身となった千夜が関わることはないだろうという考えが甘かったことに、忌々いまいまし気に音十郎は言った。


そのとき、奥からかやが慌てて走ってきた。


「お千夜ちゃんが……お千夜ちゃんがいないの……!」


はっとして音十郎たちが千夜のいた部屋に行くと、もぬけの殻である。


かやがかわやに行っている間に、千夜はいなくなったのだという。

すぐに探しに行こうとする二人を音十郎が制したのは、机の上に置いてある金包と文に気づいたからだった。


音十郎が広げる文を、太一とかやものぞき込む。


文は太一とかやに宛てられたもので、差出人は昨夜に書いたと思われる千夜であった。


千夜は自身の生い立ちを洗いざらいと文に書き、満月屋に来るまでの経緯を明らかにしていた。

今まで黙っていて申しわけがなかった、こんな自分に親切にしてくれてうれしかったと千夜の心が述べられている。

そして十両はびとして置いていくこと、これからは親戚の家に厄介になることがつらつらとあった。


「早く、探さないと……」


「待て」


太一とかやが顔を見合わせたのを見て、音十郎が再び二人を止めた。


「止めないでくださいませ。お千夜ちゃんは親戚のところになんか行っていないんです。

だって、今まで誰一人、あの子の親戚と名乗る人は来なかったんですもの。そんな薄情な人たちに頼るわけがありません」


かやの言葉に、太一も隣でうなずいている。


「お前らは千夜の過去を知って、それでも探すんだな」


「死んだ娘の代わりだなんて、思っちゃあいません。こんなじじばばを両親と思えなんて大それたことも言いません。

居場所がないならここにいてくれていいんです。もう一人の、大事な娘だと思って……」


後半はもう涙声で太一が訴える。

千夜の過去を知り、また今まで千夜が抱えていた胸中を知った太一とかやは、この込み上げる不安を覚えている。

病に苦しんでいた幼い我が子が医者にも見放されたときに感じた、二度と会えなくなるかもしれないという耐えがたいほどの畏怖いふだ。


「そう遠くには行ってねぇはずだ。手下にも知らせるから安心しろ」


颯爽さっそうと去って行く音十郎は、千夜の変えるべき場所と安寧があることを確信した。






「おや、今日はやっていないようだ」


冬野と新之介が満月屋に着いたのは真昼時だというのに、店は閉まっている。

休みの日を設けていないとはいえ、都合で休みにすることもあるだろうと、そのときは深く考えなかった。


住居の方に回ってみようとして、新之介が後ろに控えていた男に言った。


「あとは私が運びます。ご苦労でした」


伊東家で千夜の琴を預かっていたのを、新之介の父である左馬之介が梅見で琴を演奏してくれた礼にと手入れに出していた。

壊れているということはなかったが、亡き両親からの贈り物という大事な品であるので、手入れを頼んだのである。

その手入れが終わったという連絡がきて、丁寧に手入れを頼んだ店の者が満月屋まで琴を運んでくれたのだが、冬野たちも一緒なのは、折角だから千夜に一曲弾いてもらおうとしたからだった。


琴を受け取った新之介と冬野が裏に回って声をかけてみるも、住居は無人であった。


「出かけているのか……」


どこかに用事があっていないのだろうと、あてがはずれた冬野は気の抜けた声で言う。

いなければ仕方ないので出直そうとして、琴は家の中に置いておくことにした。


遠慮深く、冬野が障子戸を開ける。

じろじろ他人の家の中を見ることもせずに離れようとしたのを、視界に映った金包に目がいった。


障子戸を開けてすぐ目に入る場所に、金包は置かれている。

新之介も不審に思って、

「不用心だな」

と言っているのを、冬野は金包の近くに置いてある紙に意識が向いていた。


勝手に人の家の物を許しも得ずに見るのは悪いとわかっていても、冬野の手は紙を取った。

それは、目の前に置かれている金包が、千夜の金であると思ったからである。


千夜は、叔父夫婦から手切金として十両をもらっている。

金包の厚さは十両ぐらいで、千夜が今まで無駄遣いをしないでいたとすれば、やはり千夜の金ではないかと考えられた。


では何故、その十両が不用心に置いてあるのか。

冬野は自ずと嫌な予感を頭にぎらせていたのだった。


「……!」


手に取ったもの、それは千夜が書いた文である。

すべて読み終えると、冬野は脇目も振らず走り出した。


「おい、冬野!」


新之介の声は、すでに冬野には聞こえていない。

千夜はどこにも行くあてがないことを、冬野は知っていた。

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