十九

今すぐに逃げたかった。

けれど身体が硬直してしまうのは、過去の痛みと屈辱を思い出していたからだ。


男たちはすぐそこまで迫ってくる。

逃げなければいけないという意思は、なまりのような身体を動かすことはできなかった。


手首をがっとつかまれて、千夜はやっと現実に戻った。


「離して……!」


いまさら、もう、関わりたくないのに、どうして……と、千夜は必死で腕を引きはがした。


「前より威勢がいいじゃねぇか」


二人がかりで千夜は部屋の中に引きずり込まれた。

大声を出せば、誰かが気づいてくれるかもしれない。でも、やっと抵抗できるようになったときには遅かった。


手も口も縛り上げられて、千夜の身体に男がしかかった。


「主税があんなことになっちまって、お前とは遊べなくなったと思ったがよ。

偶々たまたまあんたを見かけたときはびっくりしたぜ」


男たちはある日、千夜が店の暖簾のれんを上げているところを目撃して、満月屋で働いていることを知った。

かつては囲い者の千夜で楽しんでいた男たちは、主税が捕まったあとは千夜の行方がわからずに忘れかけていた矢先に、目撃したのである。


そして、男たちの目的は……


「また楽しもうじゃねぇか」


不快な手に頬をぜられて、千夜は自身に持ちうる力すべてで抵抗してみせた。

しかし、決して屈してはいけないという千夜の意思を嘲笑あざわらうかのように、首を絞めつけられる。

口が塞がれていてろくに充分に呼吸もできないところに、死を身近に感じてしまうほどの恐怖が、千夜を再び無抵抗にさせた。


主税も、この男たちも、よく首を絞めては苦しむ姿を見て愉悦の表情を浮かべていた記憶が蘇る。

殺そうとしているわけではないと思いながらも、痛みと恐怖は凄まじいものだった。


やはり男たちは殺さない程度に千夜をいたぶってから言った。


「善良な爺さん婆さんをだまして上手く転がり込んだお前が、このまま平々凡々にやっていきたいなら、わかるよな。

お前の過去を、ばらされたくはないだろう?」


千夜が、実は罪人となった男の妾をしていたとは、太一とかやは夢にも思わないだろう。

いつも恐れていた。

太一たちに自分の過去を知られて、追い出されてしまうことを。


何より、秘密を抱えていることに、太一たちに真実を告げられないことに良心が痛んでいた。


千夜の瞳から零れ落ちた涙は、絶望の証だった。






「まだ耄碌もうろくにならないでくださいよ」


お玉稲荷神社に向かった太一たちであったが、太一は途中で財布を持ち忘れたことに気づき、満月屋に引き返していた。


「当たり前だ。お千夜が嫁にいくまでは、元気でいねぇと」


まだぼけてはいないと言い張った太一に、かやは苦笑する。


千夜には、並々ならない過去がある。

必死に幸せにすがりつこうとしていても、どこか遠慮をしてしまう千夜の感じで、太一たちは察していた。


だからこそ、千夜には幸せになってほしいというのが、二人の願いだ。


過去は兎も角、他にも難儀があった。

千夜は旗本である高村冬野を好いていて、しかも両想いなのである。


応援してあげたいけれど、二人がどうにもならないことがわかっていて、たしなめることもできなかった。


いつかは終焉を迎えるこいである。

ならばせめて冬野ではない他の誰かと、幸せになってほしいという気持ちから、花嫁修業のようなことを千夜にさせていた。


お嫁に……太一たちがそう口走ると、一瞬だけだが千夜は哀しい顔をする。

その理由を、報われない戀に対してだと思っていた太一たちであったが、千夜には別に理由があった。


すでに傷をつけられた自分が誰かと添い遂げることはできないと、身分うんぬん以前に千夜はあきらめていたのだ。


店の入り口は閉めてしまっているので、太一は裏から家に入った。

太一は、庭に横たわっている箒に目がいく。

一つところに集められた落ち葉の近くに箒が落ちていた。


千夜が掃除をしてくれたのだろうと考えるもその千夜はおらず、しかも途中である。


何となく不自然に感じながら歩くと、家の中から声が聞こえた。

声は男のものだったので、思わず太一の足は止まった。


この家にいるのは、千夜だけのはずだ。

では、男は誰なのか。どうして家にいるのか。


それが冬野だと思わなかったのは、小さい悲鳴に似た声も聞こえたからだった。


「お千夜……!」


考えるよりも前に、太一は障子戸を開けた。

目の前に飛び込んだ光景に愕然がくぜんとしたのは、半裸の千夜が男二人に組み敷かれていたからだった。


怒りと、千夜を助けなければという焦燥しょうそうで、太一は千夜の股に顔を埋めていた男に飛びかかった。


男たちの意識が太一に向かって、男たちから千夜を引き離すことには成功したものの、突き飛ばされたりして頭を押さえている。

外で待っていたかやも異変に気づいて来たときには、悲鳴を上げることしかできなかった。


そこで千夜を襲っていた男たちは誰かが駆けつけて大事になってしまう前に、一目散に去って行った。


「お千夜!」

「お千夜ちゃん!」


二人は千夜の拘束を解いたあとで、ただただ千夜を抱きしめた。

静かに肩を震わせて泣いている千夜の姿が、余計に哀れで、痛々しい。


太一と男たちが揉み合ったときに倒れた花瓶からい出た藤の花は、無残に散らばっていた。

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