あたたかい人たち
松井みのり
あたたかい人たち
そろそろ夏が来る季節。茜空の窓がきれいで、心地よい日曜日。
札幌の美容室で働いている私は、遅めの昼食を終え、パートナーとデートの予定があるお客様のカットをしていた。お客様は、いつも私に陽気にたくさん話しかけてくる。
半年ほど前であれば、お客様の話を聞く余裕も、話しかける余裕もなく、とにかく時間と、鏡に映る髪型のことだけ考えていた。なぜなら、店長から一人前のスタイリストとして認められたばかりで、素早く正確にデザイン、スタイリングしなければいけないという緊張があったからだ。
今日の話題は、「夏は海派か、山派か」という質問から始まった。
「海か山なら、海ですね。車に乗って、窓を開けて、風を浴びるのが好きなんです」
「へえ、そうなんですか、ちょっと意外かも。キョウコさんって、山じゃなくても、皆で大きな公園でキャンプでバーベキューとかをしているイメージでした。でも、この美容室で会う時のキョウコさんしか知らないんだから、当たり前といえば、当たり前ですよね」
「あはは、ちょっと大袈裟ですね。お店でも家でも、私はそんなに変わらないですよ。というより、あんまり変えられないんですよね」
「でも、すっごく話しやすいですよ。キョウコさんにだったら、ウチの会社の企業秘密も、中学生の頃の恥ずかしい失敗も、なんでも話したくなっちゃいますよ。あ、突然、話を変えちゃうし、根拠も全然ないんですけど、キョウコさんって猫派ってイメージあります。予想、当たってますか」
「あー。たしかに猫もかわいいけど、犬派なんですよね。実家で飼っているんですよ」
「え、また予想が外れちゃった。というか、ワンちゃん飼ってるんですか。写真とかありますか。犬種は何だろ。チワワかな、柴犬かな、ポメラニアンとかですか。写真とかありますか」
「えっと、これが実家で飼っているグンちゃんです。見ての通り、レトリバーです。かわいいでしょ」
スマホの画面いっぱいに、満面の笑顔のグンちゃんが、満面の笑顔の私を襲っている。撮影しているのは、私の兄だ。
「すっごくかわいい。いいなー。ウチも犬を飼いたいんですよね。保護された犬って飼うのに資格とか必要なのかな。それから、ついでに、アレも聞こうかな、『赤いきつね』派か、『緑のたぬき』派か」
私は、一瞬考えた。
「赤いきつね派かなあ」
私は赤いきつね派だ。だけど、答えるために、考えてしまったのには、理由がある。
それには、スタイリストとしても人間としても、心から尊敬している店長。陰ながら見守ってくれている優しい先輩スタイリストのサカモトさん。教えているつもりだけど、教わっていることのほうが多い後輩アシスタントのハルちゃん。それから、いつも笑顔だけど、時々予想がつかない行動をするグンちゃん、そして、大好きな兄が関わっている。
半年ほど前の十一月の末頃。営業時間は終わっていて、ビルから漏れる光は綺麗だけど、寒くて暗い夜だった。その日、店長から私はスタイリストとして認められた。最初は耳を疑った。
この美容室には店長を含めて、二人のスタイリストがいる。この二人は私と違って、経歴が長い。経歴が長いだけじゃなくて、努力している姿も凄まじい。世界的なファッションの流行はもちろん、美術や映画、写真の知識、それだけじゃなく、スポーツのことや、料理のことにまでアンテナを張っている。知識のインプットだけではなく、営業時間が終わっても、カラーやパーマ、髪質改善などへの研究、お客様のヘアケアのためにシャンプーを試したり、それから、多くのスタイリストは新人の頃しか行わないことだけど、二人はカットの練習も積み重ねている。さらに、アシスタントが練習している姿も見てくれている。ただ眺めているだけじゃなくて、すごく的確なアドバイスをくれる。そして、上手くできた時は褒めてくれる。
そんな二人に並んで、鏡の前でお客様の髪を預からなければならない。
私は怖かった。店長も、先輩のサカモトさんも、「あんまり気張らないで」と優しく笑ってくれた。それでも、私は怖かった。
その夜、赤いきつねを食べながら、旭川にいる兄に電話した。泣きながら電話した。小さい頃から、私は何でも兄に報告する癖がある。どうして私にそんな癖があるのかわからないけど、兄が、どんな私でも受け入れてくれているからだと思う。
たくさんの感情をそのまま伝えた。二年間の専門学校時代と、四年半のアシスタント時代の、合計六年半の努力が、ついに認められた嬉しさ。それから、六年半前の自分では全く想像することもできなかった夢が叶うという実感。それから、これまでの自分よりも進化して、お客様の前に立たなければならないという怖さ。
兄は、いつも通りの優しさで聞いてくれた。そして、「キョウコのことを一番よく知っている俺が大丈夫って言ってるんだ。あんまり気張るなよ、何があっても大丈夫だ」と伝えてくれた。私はいつのまにか元気になっていた。気がつけば、電話をして二時間半くらい経っていた。すっかり冷めている赤いきつねのつゆを、ぐいっと飲み干した。こんなに冷めたスープを飲み干すのは、はじめてだったけど、思っている以上に美味しくて、少し笑ってしまった。その時、小さい頃の私が、兄の緑のたぬきから、かき揚げを盗み、自分の赤いきつねに乗せて食べていたことを不意に思い出して、また、笑ってしまった。それから、ちょっと泣きそうになって、コンビニへ、赤いきつねと緑のたぬきを買いに行った。
元気になった私だったけど、その翌日からはずっと緊張していた。
肩書きが変わっただけで、昨日までと実力は何も変わらない自分に、焦りを感じた。同じ肩書きのサカモトさんに対して、萎縮してしまった。同じくらいの実力のはずなのに、まだアシスタントをしてるハルちゃんにも、心から笑える自分がいなかった。悔しかった。とても悔しかった。店長やサカモトさんよりも、時間がかかっているのがわかる。全ての作業の精度が低いのがわかる。何よりも、その焦りが自分を余計に追い込んでいるのがわかる。とてもとても悔しかった。
そんな日々が二ヶ月ほど続いたある日、ハルちゃんに「どうしてそんなに頑張れるんですか」と聞かれた。そもそも、私が美容師になろうと思った理由は、勉強が嫌いで、それよりも好きなことをやろうと思ったからだ。何か強い意志があったわけではない。ハルちゃんの目はキラキラしていて、私のことを尊敬してくれていると、我ながらわかった。そんなハルちゃんの質問に「うーん、どうしてだろう」と答えてしまった。答えられない自分が、情けなかった。
その夜、やっぱり私は弱音を吐くために、兄とビデオ通話した。
「お兄ちゃん映ってるよ。あ、グンちゃんも映ってるじゃん。というよりも、グンちゃんが画面占領してて、お兄ちゃんよりもグンちゃんと話してみるみたい。あはは、グンちゃーん、キョウコだよ、元気かーい」
「おお、キョウコ、こっちも映ってるよ。あけおめ以来だな。どうよ、札幌は。旭川よりも暖かいし、雪も大変じゃないだろ。グンちゃんは、昨日も今日も、もう毎日元気だよ」
「でも、グンちゃんと話すの久しぶりかも。グンちゃん見るだけで、すっごい元気でるわ。もうね、グンちゃんに飢えてたんだわ。会いたいよー」
「正月のときも話してるよ。というか、赤いきつねと緑のたぬきが机に二つもあるのは、何なんだ、そんなに好きだったか」
「あはは、大好きだよ。小さい頃、お兄ちゃんの緑のたぬきのかき揚げを盗んで、キョウコの赤いきつねに乗せてたじゃん。この前、それを思い出して、今から一人でやろうと思ってたの。あ、グンちゃん、どっか行っちゃった、グンちゃーん、またね」
「懐かしいなぁ。キョウコが、かき揚げを食べてるの思い出した。考えてみると、俺はよく怒らなかったな。そして、かき揚げがない緑のたぬきって、なんだか想像できないな。一体、俺は何を食べてたんだ」
「あはは、それはもちろん、緑のたぬきだよ。あれ、お兄ちゃん、これ、お湯を入れてから完成するまでに、赤いきつねが五分、緑のたぬきが三分かかるよ。この謎の二分間、何なんだろう。あの時ってどうしてたんだろう」
「え、そうだったのか。知らなかった。二つも同時に食べるなんて滅多にないから」
弱音を吐く前にそんなことを話してしまったので、私の悩みが、なんだか馬鹿らしくなって、笑ってしまった。
その時、自分が笑ったり、お客様が笑ったり、美容室の人が笑ったりするのが嬉しいんだと思った。単純で当たり前なことの再発見だった。かき揚げを乗せた赤いきつねは、温かくて、余計に美味しくて、兄との会話はいつまでも続いた。
案外、六年半前の私にはわかっていたことかもしれない。でも、六年半前の私よりも、今の私のほうがちゃんとわかっている。
六年半前は、まさか、あのアニメがあんな展開になるとは思っていなかった。まさか、あの芸能人をテレビで見なくなる日が来るとは思っていなかった。まさか、地震による大規模停電が起きると思っていなかった。まさか、新しい元号の名前が令和になると思っていなかった。まさか、オリンピックのマラソンを観戦できるチャンスがくると思っていなかった。まさか、世界中がこんなことになると思っていなかった。
そう思うと、私が美容室で働き続けていることも、兄と私がずっと仲が良いのも、なんだか奇跡のように思った。
青い空に、雲が高く浮かんでいる。店長と東京で勉強会に行くことが決まった。
新しい出会いにワクワクする。ちょっと深呼吸。心も前を向いている。赤いきつねと緑のたぬきは、関東と関西、北海道で、味が違うらしい。兄に勉強会のことを報告すると、わざわざネットで調べてくれたのだ。お土産に買って帰り、食べ比べをしようと思っている。もちろん、かき揚げは盗む予定である。私はすごく幸せだ。
あたたかい人たち 松井みのり @mnr_matsui
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