終幕 タイムトリック

 夕刻五時。学校裏の干潟の前で。久しぶりに受けた彼女からの連絡は淡泊で、らしかった。思えば彼女から待ち合わせ場所や時間を指定されたのは初めてだ。


 腐敗臭が鼻を刺激する。よくこんな学校、通えるなぁ。他人事のような思考。当然だ。


 自分のことは、自分が一番よくわかる。


 もう、私がここに居る理由は無い。


「陽彩」


 熱風に沿い、私を呼ぶ声。振り返ると、制服を着た葵ちゃんがいた。


「おはよう、葵ちゃん」


「おはよう、陽彩」


 夕方なのに、おはよう。すっかり違和感を抱えるようになった挨拶に苦笑する。葵ちゃんはすんなりと吐き出したのに。


「で、どうしたの? 私をこんな場所に呼び出すなんて」


「舞台に、戻ることにした」


 二週間の音信普通を経て、投げられた言葉は随分と早急だった。


 もっとこう、あるじゃないか。世間話を前置きにするとか。


 相変わらず、不器用だなぁ。真っすぐだなぁ。流れた潮風が目に染みるよぉ。


「へぇ。演劇部にでも入るの?」


 この学校、演劇部あったっけ。興味がないから、覚えていない。


「編入試験、受けてきた」


「どこの?」


「光琳音楽学園舞台表現科」


 昨年五十年の歴史を迎えた演劇学校だ。


 人学年四十名を最高値として、一人入れば、一人抜ける。絶対的実力主義を掲げる最高峰の演劇学校。


「手ごたえは?」


「ある訳ないじゃん。ここ一年体育でしか身体動かしてなかったし、話し相手は家政

婦さんくらいだった。……多分、落ちてる」


「そう」


「そしたら、また受ける。光琳は毎月編入試験やってるから。その間は演劇部かな。なかったら、作る。舞台は一人じゃ作れないけど、芝居は一人でも出来るから」


 そこにはもう、成田陽彩が出会った当初の笹山葵はいなかった。


 凛とした瞳はガラスに制御されていない。真っすぐな瞳は静かだけど、しかと燃えていた。


「そっか、そっか……舞台に、戻ってくれるんだね……」


 くそぉ。潮風が強い。目が痛くて、痛くて……泣いちゃうじゃ、ないか。


「……ごめん」


「何で謝るの?」


「舞台を、諦めてごめん。……苦しんでいるのは、私だけだと思ってた。でも、違った。……星来も、同じだった」


「…………」


「だから貴方は、今の私に会いに来たんだね」


 ずっと、超えたかった。大好きな貴方と並んで、抜かして、そんな未来に向かって、前だけ向いて走り続けた。


 なのに、見失った。気付けば貴方はいなくなっていた。胸に宿った星は、音を立てて墜落していった。


 あの日落ちた、流れ星のように。


「ごめん、せい――」


「私は陽彩、星来は妹。貴方は一体、何を言っているの?」


 舞台は続く、幕が下りるまで。


 だから私は、演じ切らなくてはならない。悟られても、見破られても、私は陽彩。それが役者の性なのだ。


「だからこれは、妹からの伝言」


 貴方は舞台に戻った。つまり、私はもうここにいれない。


 貴方が舞台に立つ未来に、私は存在しないのだから。


「別の舞台(みらい)で、待ってる」


 伝言と括弧づけた私の本音は、夕風とともに消えていった。


「陽彩! ありがとう! 私……貴方と出会えて、本当によかった!」


 それは、こっちのセリフだよ。


 その言葉がこの世界に息吹くことはなかった。


 叶うならば、もう一度だけ……一緒の舞台に立ちたかったなぁ。








 過去が変われば、未来は変わる。だからタイムスリップは慎重にこなさなくてはならない。


 存在しない未来は音を立てることなく、瞬きの間に消えていくのだから。


 そんな話を、過去に読んだ。


 もう陽彩と会うことはない、絶対に。


 網膜がうずく。哀しいけど、後悔はなかった。


 だってこれは、彼女が望んだこと。そして、私が望んだこと。


 私は、自分の意思で再び舞台へ上がる。


「ファントム様になる、星来と共演する、星来をぶっ潰す……ははっ。やること、いっぱいだなぁ」


 ここから先に台本はない。演出家もいない。共演者だって予測不能。


 それでも私は、


『未来には、絶望しかないかもしれない。それでも、この出遭いは運命だから。僕は信じる。いつか君と、交わる未来(ぶたい)を』


 夕日は落ちる。星の夜が訪れ、太陽の朝が来る。旅人は、彼らを導に道を行く。


 さぁ、出発の時。星にも、太陽にも負けない私が始まる。

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