二幕二場 蛇とカエルのエチュード
「ヒナタちゃん! キャスト表見た⁉」
中学二年冬。冬公演を終えた翌日、春公演のキャストが発表された。
稽古場には暖房が完備されている。けど使うのは最初だけ。全てのレッスンを終えた今、背中にTシャツがべっとりと張り付く。冷房が欲しいくらいだ。
皆が帰り、一人稽古場であおむけになっていると、慌ただしい足音が聞こえた。だから慌てて、その場に座る。
だらしない姿など、見せられない。だって私は神崎ヒナタだから。
何年経っても、星来は変わらない。いつもなら呆れながら注意するけど、今日ばかりは無理だった。
「うん。見たよ」
両手をぶんぶん振りながら飛び跳ねる大興奮の星来を視界に入れず、傍にあった台本にとペンを手に取り、読み込み始めた。
自分のセリフにしるしをつける。台本を貰って一番にする作業。
星来は私が淡々と読み込む台本を、捨てられた子猫のように大切そうに抱きしめていた。
「な、なんと! なんとですねぇー……星来も役を貰えたんだよ!」
「知ってる」
「え、ええええ⁉ 何で⁉」
「キャスト表見たって言ったでしょう?」
「あ、そっかぁ」
目まぐるしい展開で表情が変わる。いつの間にか、私は唇を噛みながら星来をじっと見ていた。
「あ、ヒナタちゃんはまた主役だったね! おめでとう!」
「……ありが、とう」
「んぅ……? あんまり嬉しそうじゃないね」
「うん。だって普通だから、当たり前だから。私が主役になるのは」
張り詰めた糸が垂れないように強がる。
自己暗示をかけるように、強く、強く、言葉を放つ。
私は神崎ヒナタ。真ん中に立つのが当たり前の役者、神崎ヒナタなのだから。
何度も何度も、自分にそう言い聞かせてきた。
「でもでも、嬉しいでしょ⁉」
スライドするように正座をした星来は、台本と私の間に顔を割り込ませた。
本当は、少しイライラしていた。頭突きして、もう私に関わらないでと言いたいくらいに。
昨晩からキャスト表を見るまで、頭痛が収まらなかった。二代目家政婦、入口さんに頭痛薬を貰ったけど、効き目は一過性。目が覚めると、再び何かに頭を殴られ続けるような痛みが生じた。
山頂のように空気が薄く、今日のレッスンは上手く息が出来なかった。いつもなら上手く隠しとおせるのだが、頭痛がそれを阻む。まるで死にかけのゴキブリのようだったと思う。
キャスト表に自分の名前が一番上にあるのを確認したとき、初めて深く息をつけた。
安堵という感情が全身に駆け巡り、身体の力を抜いていく。それはどんな薬より素早く、良く効いた。
おかしいよね。私を苦しめるのも舞台なのに。
「貴方ほどではないかな」
「ふっふっふー! 星来はとーーっても嬉しいよ⁉ だってヒナタちゃんと一緒の舞台に立てるんだも
ん!」
「……そう」
フィギュアスケートの選手のように台本を抱きながらくるくる回る星来には、スポットライトは当たっていない。なのに、彼女は楽しそうで、理解が出来なかった。
どうしてあの子に、役が与えられたのか。
「ヒナタちゃんはまだ残るの?」
「ええ。先生に聞きたいことがあるから」
「そっかぁ。流石主役だね! 星来も負けないように頑張るぞー!」
えいえいおーと拳を掲げる星来は稽古場を後にした。一体彼女は何をしにここに来たのか。まさか役を貰えたと報告するためだけ? そんな時間があれば、役作りに勤しむべきだ。
「あと、五分……」
台本から顔を上げ、壁にかかる時計を一瞥する。キャスト表を見てすぐ、私は先生の元へ駆けた。けれど先生はタバコ片手にまた明日と手を振った。だから食い下がった。一服後でいいから今日話を聞けと、
駄々をこねた。
その強気な態度は神崎ヒナタからかけ離れた必死さ。でもそんなことを気にしている場合ではなかったのだ。
「おーっす。待たせたなぁ」
「いいえ。私が無理を言ってしまったので」
神崎ヒナタなのに、顔がこわばる。
建前上こうは言っているが、こちらは金を払っている立場。私の腹の中は、怒りの虫がうずいていた。
十五分したら稽古場行くから待ってろ。そう言われて三十分。これが私たちに芝居を教える大人かと思うと失望する。
寝癖なのか、くせ毛なのか。どちらにしろ不潔な黒髪。よれよれの白いシャツとジーパンには年中タバコの匂いが染みついている。風貌からしてまともな大人ではないけれど、この世界にまともな大人はほぼ
いないと母は言った。先生はあくびと頭を掻きながら、不満そうに私を見下ろした。
「で、何だ話って。パチンコがせんせーを待ってんだけど」
「ミチル役、どうして星来なんですか」
鋭い視線と声が漏れる。
春公演の演目は『青い鳥』。二人兄弟のチルチルとミチルが幸せを呼ぶ青い鳥を探す旅に出る物語。
「何? もしかしてそれを聞くためだけに残ってたの?」
言葉と共に、薄い煙が吐き出される。
コイツ、たんまりと吸いやがったな。
「はい」
「言い切るねぇ。子供は素直な方がいいってよく言うけど、この世界では本音を押し殺すのも大事だぞ?」
「母に教えられました。芝居で分からないことは全力で聞けって。センセーに」
台本を片手に握りしめ、先生を見あげる。身長百十八センチ。元役者にして不潔すぎる風貌を、真剣に見つめた。
「チッ……あのアマか……」
舌打ちと同時に頬を撫でた先生はそっぽを向いて悪態をついた。
先生は母と共演経験があると言っていたが、その時何かあったのだろう。特に興味はなかった。
「お前はさ、アタッカーだけのパーティーで冒険すんのか?」
「……はい?」
腰を折り曲げ腰に手を。説得スタンスを取った先生は私に目線を合わせた。
その目は深く、黒ずんでいた。タバコのヤニでも染みついたのだろうか。
「あ? 何お前、ドラクエしねぇの?」
ドラクエ。教室の片隅で聞いたことあるような、ないような。どちらにしろ私の語彙辞典にない言葉には、首を傾げるしかなかった。
「はぁ……お前、普段何してんの?」
「役作り。あとダンスとか、ボイトレとか」
指を折る。恐らく両手で……片手で足りる。
「他は」
「走り込み、筋トレ」
「言い方が悪かった。芝居に関すること以外で、何してんの?」
「……お風呂と、食事?」
口を開いてからハッとした。湯船でするストレッチも、バランスの良い食事も、全て芝居の為だ。慌てて訂正をする前に先生は額に手を当て、深いため息をついた。
「お前……空っぽの介だな」
「何ですか、それ」
また知らない言葉だ。
「そのままの意味だよ。……何で星来をお前の相手役にしたか、だっけ?」
「はい」
星来の成長は認める。外郎売も二、三度しか噛まなくなった。舞台一本くらいはもつ体力もついた。
けれどそれは全て舞台に立つ大前提であって、なんなら足りないものの方が多い。
第一彼女は初めて舞台に立つのだ。そんな子が準主役なんて。
「先生も役者なら分かっているでしょう? 煌びやかな舞台裏の闇。喉から手が出るほど欲しいものを得られなかった役者の行動を。……それが年下だったり、自分より実力が下だと思い込んでいた相手ならば尚更だわ」
「経験者は語るってやつか?」
「……星来の実力はまだまだです。どうしても舞台に立たせたいなら、もっと端役から――」
「お前の為だよ」
「……は?」
豆鉄砲を喰らう。先生はにゅっと口角を上げ、腰を伸ばす。とても満足そうに私を見下ろしていた。
「足りないものを補い合う。それがパーティーの真骨頂。一人では辿り着けねぇんだよ、トップには」
「言っている意味が――」
「役者なら相手役のセリフの意図くらい掴めるようになれ。じゃあな。ジャーマンが俺を呼んでるぜぇ」
パチンコからジャーマン。いい加減な大人の代表格。この人にしか頼れない事実を虚しく思う。
「ちょ、待って下さい!」
呼びかけに応じず、先生はひらひらと手を振ってその場を去った。俺の出番は終わり。背中にそう書いてあった。
「私の為って……言い訳でしょ……」
舞台から降りて、私は気付いた。
私の為なんて、私を納得させるための言い訳。汚い大人がよくすることの一つ。
先生はきっと、誰よりも早く気づいていたんだ。成田星来は、成田星来こそ舞台の寵愛を受けし少女だと。
次にその光に気づいたのは、恐らく私。私はあの舞台で、気づいてしまった。
私たちの決定的な違い。それは努力値でも経験値でもなかった。
才能。生まれた瞬間に、貰った手札が違ったのだ。
電車に揺られ三十分。そこから徒歩十分。繋がれたまま手首はまるで手錠だ。そんなに私は信用ないのか。
「ここって……」
「急いで。あんたは知らないだろうけど、公民館は使用時間があるの。劇団の稽古場と違って」
取り繕うのをやめたのか、陽彩の声は皮肉っぼく、いつになく冷たく、夏を吹き飛ばしてしまいそうだった。……あれ、その方がありがたくないか?
状況を読み込めていない私には、少なからずまだ余裕があった。
長方形の紫の建物を一瞥する前に、陽彩はずかずかと建物へ踏み込んだ。私は付いていくしかない、繋がれているので。
受付で手続きを済ませると、階段を上がる。
二階の一番奥。赤い布に包まれた引き戸を見て、察した。
「……舞台」
蛍光灯が光らずとも、そこが何かは肌に触れる空気で分かった。
「公民館の講堂も、捨てたもんじゃないのよ。少なくとも、体育館の数倍はマシ」
暗幕の隙間から零れる陽の光が、埃の存在を炙り出す。
客席には椅子も座布団もない。ただのフローリング。それでも舞台がある以上、そこは客席で、先ほどのホールとは比べ物にならないほど狭い場所でも、幕とライトがある以上、そこが舞台だと分かる。
あと必要なのは役者ぐらいだ。
「流石に土足は厳禁だから。舞台上は」
隅の壁にリュックを立てかけた陽彩は、その中からひらったいバレエシューズを取り出し、私に投げた。奇しくもサイズはぴったりだ。
「……何を、するの?」
陽彩は私の言葉を無視した。靴を履き替えた彼女は、どこからともなく取り出した二本の洋剣を持ち、舞台へ飛び込んだ。
何の躊躇もなく。
舞台上に明かりが灯る。スポットライトはないけれど、彼女は舞台の真ん中に立っていた。
『一年前の春。私、成田星来は憧れのヒナタちゃんと同じ舞台に立てたんです!』
髪を結ぶ。星来と同じ、ポニーテール。
随分と明るい口調。剣を捨て、胸の前で手を組み、星を見あげるように眩しい目線を客席に向ける。
当たり前だけど、星来にそっくりだった。
だからだろうか、見えないスポットライトが私の目を眩まそうとする。
『星来は嬉しくて、嬉しくて、死んでしまいそうでした! でも、死んだらヒナタちゃんと同じ舞台に立てない。星来は今まで以上に頑張ることを決めました! 少しでも、ヒナタちゃんに近づきたいから!』
『ヒナタちゃんの卒業公演。私はヒナタちゃんの相手役に選ばれました。ヒナタちゃんの卒業は寂しいけれど、星来は笑顔で、星来に出来る全力のお芝居でヒナタちゃんを送り出すことを決めました!』
『公演当日、星来ちゃんは舞台に来ませんでした。高熱、だそうです。星来は悲しくて、悲しくて、泣い
てしまいました。もう二度と、ヒナタちゃんと同じ舞台に立てない。その日のうちに星来はお見舞いに行きました。そこで約束したんです! いつか必ず、同じ舞台に立つって! だから星来は努力するんで
す。ヒナタちゃんと、同じ舞台に立つために!』
「なのに、貴方は」
目線を落とす。髪をツインテールに結った陽彩は剣を握りしめる。そのうちの一本は、私の手の中に投げ出された。
「あんた、星来との約束を破るつもりだったんだね」
落ち着いた口調。どこか影を感じるその姿は星来ではなく、陽彩。
「……優しい嘘よ」
あの日のことはよく覚えている。忘れたくても、忘れられないことの一つ。
熱を出したのは本当だ。リハで見せつけられた星来の輝き。今の私では負ける。だから詰め込んだ。睡
眠時間を削って、削って、削って……すべての時間を、舞台に捧げた。
体調管理など頭になかった。それがこの結果だ。
布団の中で、私はホッとした。いくら詰め込んでも、あの子に勝てない。心のどこかで、気づいていたから。
あの舞台に、星来の隣で演じなくてよいことに、安堵していた。役者、失格だ。
皆が皆、役を欲している。皆が舞台に立つことを望んでいる。なのに、私は。
目が覚めると、星来が来ていた。私と共演できなかったことを嘆き、また同じ舞台に立とうと約束させられた。
ムカついた。殴ってやりたかった。役者の顔に、傷をつけたかった。
冗談じゃない。誰が、アンタなんかと。
その瞬間に、糸が切れた。拒絶されても、必死に紡いだ私と舞台を繋ぐ糸が、切れて、しまった。
舞台は私を苦しめる、星来は私を苦しめる、舞台にいる限り、星来は私に付きまとう。
だから逃げた。……そう、私は逃げた。逃げた、のよ……舞台からも、星来からも。
「いつかバレるものは優しさじゃない、逃げよ。あんたは逃げた。星来から、逃げたの!」
陽彩は舞台から飛び降りた。羽のようにふらりと舞い落ちる。その後は俊足。アサシンの瞳を宿した陽彩は剣を振るった。
私の心臓を、突き刺すために。
「なっ……!」
咄嗟の反応で持っていた剣を盾にする。殺陣の稽古を六年受けてなければ、私は死んでいた。
舞台の下、客席で。
「どうして舞台から降りた! 笹山葵!」
「っ……!」
そのひと振りは重く、深く。私を本気で貫く。
静かに燃えていた青い炎が、真っ赤に染まる。
綺麗なんてもんじゃない。形も、リズムも、音も汚い。なのに、どうして惹きつけられる。
このままじゃ呑まれる。喰われる。だから、喰え。喰われる前に喰わなきゃ。
殺される前に殺せ。
かつて宿していた役者の本能が、静かに芽吹く兆しが見えた。
「あんたは星来の憧れだ! あんたは星来を舞台に導いた! なのに逃げるのか⁉ 無責任にも程がある!」
感情むき出しの眼、汗、歯ぎしり、口調。これは演技じゃない。
演技、じゃないなら。どうやって、抵抗すればいいの……?
「星来は……アンタと一緒の舞台に立って、アンタを殺したかったんだ!」
途端。頭に一滴の迷いが垂れた。
白い絵の具。それは脳みそを、一瞬にして真白に染める。
滑り落ちそうになる剣を握るのに必死で、剣先が手薄になる。陽彩は全開で私を押し出す。床との摩擦でシューズがすり減る。アキレス腱が切れそう。
殺陣とは思えない、全力。当たり前だ。だって陽彩は、本気で、
「どうして……どうして舞台から降りた! 笹山葵!」
私を殺す気なんだから。
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