一幕二場 共演者に愛を、狂冤者に憎しみを

 ひいふうみ……引き出しの中で指を折る。


 夏休みまで一週間。寝て起きて、食べて、勉強して、大して興味のないテレビをと流し、瞼が重くなれば寝る。


 きっと夏休みはその繰り返し。電柱に止まって泣き喚くセミの方が、よほど有意義な一日を過ごすだろう。


 絵日記という宿題がなくてよかった。私の日常は特筆がなさすぎる。


 チャイムが鳴る三分前。教室はいつになく騒がしかった。


 期末テストから解放されたせいだろう、もうすぐ長期休みが来るせいだろう。


 煩わしいなぁ、羨ましいなぁ。


 耳を塞ぐように、窓辺に目を向ける。そこには朝練を終えた弓道部がバタバタと校舎に向かい、走って

いた。


 教室が静まったのは、それからちょうど四分後。


「おはようございまーす」


 前方のドアが開くと同時に響く、間延びした気だるげな挨拶。


 あくびを挟みながら教壇へ向かう担任は、きっと今日も遅刻ギリギリだったのだろう。前髪の一束が、

上を向いている。


「いんちょー、ごうれー」


 白髪交じりの黒髪に、デブ。顎に生えた髭を掻きながら、出席簿を睨むその姿は不潔極まりなく、視界

にすら入れたくない。


 現代において、太っていて許される生き物はパンダだけだ。


「きりーつ、れーい」


 そんなマイナスな印象を抱くのは私だけじゃないのだろう。生真面目で定評のある委員長まで嫌々と号令をかけ、鼻をつまむ。


 そして私も含めたクラスメイトも以下同文。うへぇ。


 加齢臭か、汗か。担任が現れると、一瞬にして干潟にも負けず劣らない異臭が漂う。


「ホームルームの前にぃーてんこーせーをしょーかいするぞぉー」


 歩き方に合わせたのか、スローテンポの話し方。森のくまさんの方が早く喋れるだろう。そんな空想を描く。


 ああ。担任の前世は熊か。ならばあの臭さも納得がいく。


 私以外のクラスは再び騒めく。この時期に転校、キリが悪すぎる。


「入ってこぉい」


 セリフも、スポットライトもないのに、皆が開かれた扉に注目する。


 そんな中でも私は担任を見ていた。一通りの仕事を終えたと安堵したのか、大きなあくびを掻いてい

る。


 ……うん、可愛くねぇ。


「失礼します」


「おお。入れ、入れぇ」


 あくびを掻いた手で空を仰ぐ。あれだけ視界に入れたくないと言ったくせに。人の気とは簡単に変わるものだ。


「都立咲が丘高校から転校しました、成田陽彩です。よろしくお願いします」


 甘いけど、落ち着いている。和菓子のような声。


 鳥肌が立つ。いやな予感が全身を駆り立て、脳がエマージェンシーを告げている。


 向きたくないけど、向かなければならない。セリフを吐いた、あの子の方を。


「すげ、ピンクだ」


「地毛?」


「な訳ないでしょ。……多分」


「まほーしょうじょだ。まほー、まほー」


 ガヤが入る。脇役が私を囃し立てる。早く見ろと、あの子に注目しろと。

 

 目線を左へ。視界から外れていく汚物に安堵を抱きながらも、心拍数は早まる。


 瞳に映るのはあの時出逢った、たった一人の観客だった。


 彼女、成田さ……陽彩と目が合うことはなかった。


 私など眼中にないのか、ほんのり口角を上げてクラスを見渡す。誰かを、探しているみたいだった。


「席はここなぁ。じゃあホームルームはじめっぞぉー」


 担任は一番前の廊下側の席をバンバン叩き、着席を促す。


 鼻が利かないのか、陽彩は嫌な顔一つせず、会釈を挟み席に着く。その姿に幾分かの男子が見惚れたのは言うまでもない。


 日本舞踊のように、所作の一つ一つが丁寧。頭のピンクさえなければ、京都在住のお嬢様に見えなくもない。


 対角線上に座る彼女の背すじは真っすぐ。天井から糸が垂れてるんじゃないかと確認してしまう程。


「なりた、ひいろ……」


 呟かれた言葉は誰に届くことなく、空気と化して消えた。


 成田陽彩。その名に駆り立てられ、スマホを取り出す。担任はまだ、ぶーぶー鳴いているけど知らん。

どうせ大した話はしていないだろう。


 なりた、成田。ほし、星……そこまで打つと、人差し指は痙攣した。これ以上は駄目だと、防衛本能が働いたのだろう。


 検索欄に浮かぶ『成田星』が、私を静観する。いくじなしと、扇動する。


「……バッカ、みたい」


 机に肘をつき、顎を乗せる。スマホから逸らした視線は窓の外へ向く。


 黙々と空を漂う雲。一見自由に見えるけど、きっと彼らにも何か理由があり空に浮かぶのだ。


 数だけでは雲の圧勝。なのにどうして、太陽はあんなにも強い存在感があるのだろう。


 セミの声。熱さで揺れる窓。額を垂れる汗。丁度担任がクーラーをつけた。ごー、ごー。この機械音も、いつの間にか夏の風物詩の仲間入りを果たした。


 転校生は、新学期の風物詩だろうか。見てもないのに、陽彩のことが浮かぶのは。


 その答えに、気づかぬふりをした。





「学校、案内してくれる?」


 こんなセリフを言う人間は限られている。転校生、もしくは記憶力の乏しい子、交通事故に遭い、学校の全てを忘れた子。


 言わずもがな、私の机の前に立つのは前者である。


 両腕を後ろに回す。小首を傾げ、にっこりと効果音が出そうな全力笑顔。ノーヒントでは、作り笑いか判断出来ない。


「何で私なの?」


 荒波をたてぬよう、柔和な声と朗笑を整える。ああ、表情筋が悲鳴を上げている。


 本音をまいていいのならば、今すぐ消えろと怒号を上げたい。


「駄目かしら?」


「まさか。気になるのは理由よ。どうして一度も話したことのない私を指名したのかなって。他にもいるでしょう? オトモダチ」


 本音を和らげ、事実を告げる。それはきっと、陽彩も同じ。


 昼休みになっても、転校生がクラスメイト達に囃し立てられることはなかった。


 理由はその髪色にある。そうとしか思えない。


 前述の通り、この学校はそれなりに頭がよく、中学校で真面目生徒だったものが集いやすい。


 故に彼らは身をもって知っている。こーいうのに関わると、ロクなことが起こらないと。


 しかし好奇心からか、数名の生徒は彼女に話しかけた。意外にも良好な関係を築けているように見えた。


 ……一応言っておくが、注視していたわけではない。たまたま、ほんとーにたまたま。トイレに行くとき目に入ってしまっただけだ。


 察するに彼らから提案を受けていただろう。校内の案内を。


「決まってるじゃん。仲良くなりたいから、葵ちゃんと」


『葵ちゃん』。悪寒が走った。


 顔に折り線でもあるのか。丁寧に織り込まれた笑顔に面を喰らう。


「……なん、で」


 無意識下で漏れたワントーン低い声。しまった、と自覚したときにはもう遅い。今更口を押えても、言葉は出ている。


 教室の雑踏が丁度良く心地いい。今の私はどんな顔をしているだろう。今すぐトイレに駆け込んで、確

認したい。


「うーん……いるかな、理由」


 唇に人差し指を当て、小首を傾げる。演技とはまた違う、妙な違和感。私はまだ、彼女が何者か、何を

したいのか定められていない。


 けど一つだけ分かる。この子は私に良い影響を与える存在ではない。

 

 だって貴方は、あの子によく似ている。


 あの子と同じ、名字を持っている。


「……いいよ。案内するよ」


 開きかけた弁当に蓋をして、席を立つ。彼女は口元で両手を重ね、小さく「やった」と呟いた。ぶりっ子にしては出来過ぎている気もする。


 妙にうるさいモブたちの戯言を素通りし、教室を出る。その右隣りにはぴょこぴょこ跳ねる陽彩がいる。


 お願いだから、私の隣を歩くな。じんわりと滲む手汗に蓋をするように、目いっぱい拳を握る。


 陽彩とあの子とは違う。そう分かっていても、心臓はうるさいまま。


 あの目を見ると、思い出す。


 期待とか、友愛とか、私に対するプラスの感情を映したあの目は、嫌なことばかり思い出す。






「ここが視聴覚室。たまに授業で使うから覚えといて」


 重い鉄の戸の前で一時停止し、指を指す。簡素な説明を提示するも、陽彩はうんともすんとも言わない。さっきからこの繰り返しだ。仕方なく次へ足を運ぶと、何も言わずに横に並ぶ。


 相変わらず、いや、先程よりも思考が全く読めなくなっている。


 彼女の頭はかなり特徴的で、やはりすれ違う生徒たちの目がこちらに集中する。けれど気にしているのは私だけらしい。陽彩の瞳は常に真っすぐで、何かを気にするような素振りはなかった。


「ここ、第一音楽室」


 階段を昇り、四階の一番奥の戸を指す。こげ茶色の木の扉。均一についた小さな穴にはどんな効能があるのか。


「音楽室……」


 校内案内開始から十分。彼女が初めて発した言葉だった。


「音楽、とってるの?」


「違うけど」


「吹奏楽部希望?」


「違うけど」


「合唱部」


「違うけど」


 小さな穴の集合に向け、話しかける。返事はどれも非情。気を遣って損をした。ロボットの相手をしている気分だ。


「……次行くよ」


「入ってもいいかしら?」


 彼女の人差し指が幾分の穴を指す。陽彩もまた、私を見ていなかった。


「吹奏楽部が使っていると思う」


 それなりの強豪である吹奏楽部は自主練と称したほぼ強制の昼練を欠かさいことで有名だ。今も微かに、ラッパの音が聞こえる。


「そう、残念。じゃあどこか開いている教室はない?」


「何で?」


「話がしたいから。誰もいない場所じゃないと、話せない話」


 非情とはまた違う、冷たい声。微かに残った薄暗い感情をぶつけられ、全身に冷水を被った気分だ。


 音楽室を指定したのは、それなりの防音が施されているから。


 きっと、そうだろう。


 一応、私に気を遣っているのか……いやまさか。


 本当に私に気を遣っているのならば、その話はしないはずだ。


「それは、仲良くなるための話かな? それとも――」


「さぁ。私の言葉をどうとるかは、貴方の自由だもの」


 物語を動かす脇役のようなセリフに瞬きを挟む。

 

 重要だけど、主役には及ばない。そのセリフを言ったと同時に役目が終わる、しがない役。


 主役ならば、彼女に躍らされるべきだ。


 急須の隅に置き去りにされた残りカスのような本能が、悲しく働いた。


「そう。じゃあ、案内はここで終了ね」


「え……?」


 でも、私は主役じゃないので。大人しく幕を引きましょう。


 気付かないフリを演じる。本能にそっと、蓋をする。


 集合体恐怖症を戦慄させる穴に背を向ける。教室に戻る背が、追われることはなかった。


 一瞬だけ視界に入った陽彩は豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。予想外だったのだろう。私が乗らなかったのが。言っておくぞ、それが人生だ。


 人生はアドリブの繰り返し。時に悲劇を、喜劇を、感激を、予測できぬ最高速度の戯曲を神に与え続ける。それが命の運命(さだめ)。


 彼女は私を追わないアドリブを選択した。その選択が悲劇となるか、感激となるか。全ては神すらも予測できない速度で通り過ぎる。当たり前のように、私も予測できないスピードで。


「もう、舞台には立たないの?」


 嫌な声がした。私を惑わす嫌な声は、謹聴せずとも聞こえてきた。


 足を止めるつもりはなかった。動揺を見せびらかすのは観客の前だけでいい。共演者を前にして、することではない。


 額を通り越し、背中から汗が噴き出る。廊下にクーラーは付いてない。つまり、そういうことなんだよ。


「どうして、舞台から逃げたの?」


「逃げてないっ!」


 子供みたく、幼稚な反発。こんなに大きな声を出したのは、一年ぶりだ。


 一年。そうか、まだ一年なのか。


 時間の流れがバカみたいに遅くて、気づかなかった。そうか、そうか。一年か。


「……長かった、なぁ」


 その一年は今まで生きたどの一年よりも長かった。


 この一年で何をしましたか? そんな質問をされたら、この一年で流し見したテレビ番組の名を永遠と言い続ける他はない。


「神崎ヒナタ、貴方は何故――」


「陽彩、貴方(・・)に(・)は(・)関係ないでしょう?」


 一呼吸おいて、振り返る。陽彩は真っすぐ私を見ていた。


 やめてよ。私はそんな目で見られていい人間じゃない。だから、


 これ以上踏み込むな。威圧を込めて、嗤笑する。それ以降の陽彩の反応は知らない。私は走り出してしまったから。


 私は陽彩から逃げた。……今、聞いたでしょう? 私は逃げたことを認められる子なの。


 だから、舞台からは逃げてない。逃げてない、から。


 じわじわ溢れる汗はワイシャツと背中を張り付ける。教室に戻ると、涼しげな風が私を迎え入れた。

そこでやっと、息をつけた。



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