アカイロ -かおりの赤-
@yoli
かおり
片手に夕食の買い物を詰め込んだエコバッグと大きなトートバッグ。
エコバッグの持ち手は腕の内側に食い込み、布に当たっていない部分までもが赤くなってきている。そして財布や保険証等の束だけでなく、1才をようやく過ぎた娘のおむつやおもちゃ、着替え用の服などが詰まってはち切れそうなトートバッグ。肩に食い込んで動かないまま、服の上からは見えなくても、じんじん熱くなりながら赤みを拡げているのが容易に想像できる程、痛くてたまらない。けれど、もう片方の腕でだっこをしている娘のあかりはずっとご機嫌に歌を歌い続け、腕と肩の痛みを紛らわせてくれる。
自宅マンションの入り口までもう10メートル程のところまで来て、ふと、見慣れないものが目に入ってきた。
赤い箱。
50センチ程の高さがある赤い箱。近づくにつれ存在感を増してくるその箱は横幅も奥行きも同じく約50センチといったところ。ほぼ正方形の赤い箱、それが、マンション入り口の自動ドア前から少し左に逸れた隅、飾り程度に植えられた小柄な木の前におかれている。暗い木陰、隅に置いてあるというのはその存在感を小さく見せようという心理があるだろうに、その箱の色と大きさは全くもってその意図にあっていない。先ず外面一体に赤色というのが、否が応にもその存在感を誇張している。
誰がこんな所に置いたのだろう。
つい数週間前にもマンションの周辺清掃に使われた箒が外に放置されていたばかりだ。その時にも誰がそこに置いたのかとマンション内でひと悶着あったばかり。誰が置きっ放しにしていたとしても、箒の一つくらい、見つけた人間が片付けておけばそれでいいじゃないか、誰にだって忘れることはあるんだし。かおりはそう思ったが、子供もおらず昼間に暇をもて余す主婦も多いこのマンションでは、そんなひとつの小さな小さな『いつもと違う何か』さえも、大きくしたがる、噂話の的を探したくて仕方がない。
誰かが引っ越しの最中に置き忘れたのだろう。
そう思う事にして、かおりは自動ドアを通り抜けた。
いつもと同じように過ぎていく慌ただしい時間。
食事の準備中からお腹が空いたと騒ぐ娘と何とかお風呂を済ませ、次の戦いはあかりの食事。溢しながら遊びながら食べるあかりの食べ残し、彼女の小さな手でかおりの口へと押し込まれたものと共に、自分の夕食は租借もそぞろに飲み込んで終わらせる。そしてようやくあかりを寝かしつけたところへ、夫が帰宅。疲れたと不平不満たっぷりな顔しかしない夫に夕食を用意し、三十分後にはダイニングテーブルの上に放置されたままの空の食器類を片付ける。いつもと何一つ変わらない。
しかし、ようやくすべての家事を終えてソファに座った瞬間、あの箱の事を思い出した。マンションの入り口にあった、赤い箱。
「ねぇ、マンションの入り口にまだ箱あった?」
横でテレビに夢中になっている夫に聞いてみる。
「箱?何それ、そんなのあったっけ?」
そっか、もうなくなってるんだ。きっと誰かが気づいて持ち帰ったのね。目立つ箱だから見ればすぐに自分のだって判るだろうし。
「お風呂のお湯、抜いた?」
「抜いてない。」
先程お風呂から出たばかりの夫が気も漫ろに答える。あかりに口もとへ押し付けられた離乳食が落ちて胸元に入った跡が、拭った後もどうにも気持ちが悪い。
「私もう一度お風呂入ってくる。あかり目が覚めちゃったら宜しくね。」
「おぅ。。。」
聞いているのかいないのか分からない生返事。いつもの事だ。あかりが起きても結局夫に寝かしつける事はできないだろう。ささっと入ってこよう。そう思いながらもつい、湯船に浸かると気持ち良くてうとうとしてしまった。
宿題を誰がやるか、賭けていた。
ゲームをして負けた者がその日の宿題4人分を終わらせる。国語の漢字ドリル4ページを4人分、算数のドリル6ページを4人分。内容は同じだから一人分をやって残り3人分は写せばいいだけなのだが、それでも結構な量がある。そして私はゲームに負けた。納得がいかなかった。何故ならリーダー格のあつこがズルをしている事があからさまに判ったからだ。それでも、威張る側と虐げられる側の構造というのは簡単に変わらない。ゲームで誰が宿題をやるか決めよう、彼女の発案を聞いた瞬間、やるのは私だと既に知っていた。
「こっちが遊ぶ部屋で、こっちが勉強部屋ね!」
部屋も別々にされる。勉強部屋には私一人、4つの赤いランドセル。いつもの事だと諦めつつ、先ずは自分のランドセルから取り出した漢字ドリルを広げる。同じ漢字を5回書いていく。1ページに10個の漢字、それが4ページあるだけでも憂鬱なのに、それがまだ3人分ある。その上算数ドリルまで。途方もなく大量に感じる。終わって門限までに帰れるのだろうか。周りからは勿論の事、親に友達がいないと思われるのが絶対嫌だからと無理矢理『家来』で居続ける小さな自分、そんな自分を惨めに思い悲しくなりながらも、そこから抜け出せる術も知らない。そんな子供だった私。
自分の漢字ドリル4ページをようやくやり終えて、他の女子たちのランドセルに手を伸ばす。同じ漢字の練習を繰り返す、そしてまた、繰り返す。4番目に手を伸ばしたランドセルはあつこのものだった。ランドセルの蓋を開け、中から漢字と算数のドリルを取り出す。同時に隣の遊び部屋からはより一層大きく楽しげな女子達の笑い声が響いてきた。惨めだ、私、ひどく、惨め。
泣きそうになったその時、連なりに置かれた赤いランドセルの小さな山の向こうで、何かが動いた。恐る恐る覗き込んでみると、茶色く小さな蛙がいた。背中がぶつぶつしていて気持ち悪い。これがもし大きなものだったら、かおりはすぐさま悲鳴を上げて部屋の反対側の隅へと飛び逃げていただろう。理科の教科書に載っている写真にすら耐えられず、授業中にページを捲った瞬間悲鳴を上げて先生に怒られ、クラス中から笑われ、暫くその教科書の写真を目の前に当て付けられるという虐めを受けたくらいだ。けれどこの大きさなら、まだ平気。小さいから大丈夫、そして今日は何故だか不思議なくらい、怖くない。
その小さな蛙を見つめる。部屋の向こうからは楽しげな笑い声。あつこが命名した『遊び部屋』の反対側にある窓の向こうからは、セミの声が煩く休みなく響いてくる。かおりは蛙から視線を外さないまま、そばに置いていた自分のランドセルの蓋を注意深くそっと開けた。外側に付いているポケットのうち、小さい方のポケットにはビニール袋に入れた飴が幾つか入っている。袋を取り出し、中の飴を畳の上に広げて出した。空になったビニール袋に右手をいれる。そして静かにランドセルの山のこちら側から身を乗り出し、右手に嵌めたビニール袋で一気に蛙を覆った。ビニール袋づたいに蛙がびっくりして暴れているのが分かる。叫びだしたいほど気持ち悪い。ぞっと体中に鳥肌がたつ。けれどその気持ち悪さより、惨めさの方がずっと強く激しく、かおりを締め付けていた。ビニール袋から蛙を逃がさないように右手を丸めて小さな空間に閉じ込める。逃げようと暴れている蛙の不規則な動きがより一層、掌に伝わってくる。ビニール袋の壁など無いも同然だ。小さな右手の中、ビニール袋の中、真っ暗闇で足掻く蛙。かおりの心臓もバクバクと足掻き出す。大丈夫、大丈夫、笑い声は、楽しそうな喋り声はまだ全く収まる気配が無い。かおりはすぐにあつこのランドセルへと左手を伸ばす。ドリルを出して半開きのままのランドセル。二つあるチャックが付いたポケットのひとつ、大きな方を開けてみると箸箱が入っていた。左手を入れてみると、斜めに収まったその箸箱以外、何も入っていない。左手を抜き、丸めて閉じたままの右手をそのポケットの奥へと突っ込んだ。そして狭いポケットの中で無理矢理その手を開いた。隙間を最小限にすべくチャックの引手を少しずつ動かしながら、右手を引き出す。勿論ビニール袋も離さないように指同志で押さえつけながら、引き出す。そして何とか蛙だけをポケットの中に閉じ込めた。念の為ビニール袋を広げて確認するが、何も付いていない。ポケットの外側に手のひらを当ててみる。小さな、振動があった。中で蛙が跳ねてポケットの天井にぶつかる振動。かおりは自分の手が直接蛙に触れなかった事に大きく安堵した。そしてまだ右手に持ったままのビニール袋の外側を内側へとひっくり返し、小さく縛って丸め、ゴミ箱に捨てた。畳の上に残った飴は、バラバラのまま、もう一度自分のランドセルの小さなポケットへと流し込んだ。
翌朝、教室で見たあつこの目はパンパンに腫れていた。そして彼女は私の顔を見るなり、怒り狂った顔で突進してきた。
「かおりちゃん!私のランドセルに蛙入れたでしょう!」
一斉に教室内が静まりかえり、すべての視線が私たちへと注がれる。
「え、何、蛙って。私知らないよ。」
「嘘ばっか!だって昨日私の宿題かおりちゃんがやったでしょ。ランドセル開けたでしょう。」
私は顔色ひとつ変えず、不思議そうな顔をして答えた。
「蛙なんて私知らないよ。第一、私が蛙とか凄く怖いのあつこちゃんだって知ってるでしょう。私あんなの絶対触れない。気持ち悪い。」
私は自分の掌より大きな蛙を思い浮かべて、心の底からぞっとし目を閉じて身震いをした。
あつこはどうにも納得いかない顔をして私を睨み付けている。けれど私を苛める為に教科書の蛙の写真を私の顔面に押し付けていた彼女には、否が応でも犯人は私ではないと理解出来たようだ。仁王立ちしたままのあつこ、教室へ入ってきた瞬間ただならぬ雰囲気をすぐさま感じ取った先生、私たちは放課後に呼び出された。
ゲームに負かされて私が3人の女子の宿題をやった事、あつこのランドセルに蛙が入っていた事、箸箱を出そうとしたあつこの母親の目の前に突然蛙が現れ、その手に飛び付いた事、驚きであつこの母親が腰を抜かした事、そんな『あつこのいたずら』に怒り狂った母親が彼女を激しく叱りつけた事。
そして私は宿題をやらされた被害者と認められ、蛙騒動の濡れ衣をかけられた被害者だともお墨付きをもらった。教科書の写真にさえ悲鳴をあげる私に、蛙を触る事など到底出来る筈が無い。
その日からあつこは一切、私と口をきかなくなった。けれど私はそれをもう不安な事だとか、自分は友達がいない情けない人間だとか、思わなくなった。彼女やその取り巻きに無視される事が清々しいとさえ、感じるようになった。同時に、赤いランドセルは私の完全勝利、そして共犯者の象徴になった。
そんな小さくも完璧な私の勝利を思い出させてくれた、赤い箱。かおりは温くなった湯舟の中で、小さく微笑んだ。
アカイロ -かおりの赤- @yoli
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます