坂道の彼方
@aqualord
坂道の彼方
五十年前には人がたくさん住んでいた町の外れに一本の道がある。
アスファルトで舗装はされているが、車が一台ようやく通れる程の道だ。この道は、川遊びをするには清らかさは十分だが、水量が少々足りない川に沿って、山の中に分け入っていく。
町の人にこの道の行方を聞けば、きっとこう答えるだろう。
「車でちょっと行けば、高岡の集落に出る。」
と。
道の脇にはコンクリートの電柱が立っていて、電線も張られている。
道と行く先を同じくしているのか、道の入り口から覗くと、道のあゆみを忠実になぞるかのように、張られた電線が入道雲を浮かべた空に伸びていくのが見える。
「この道、高岡に行く道ってうちのじいちゃんが言ってたけど、スマホの地図で見ても高岡って名前が出てこない。」
そう言って、自転車に跨がったまま連れの子供にスマホの画面を見せたのは、良く日焼けした、Tシャツ姿の似合う高学年くらいの少年だった。
「道があるのは出てるね。でも高岡って出てないね。」
少年の示したスマホを覗き込みながら答えたのは、少しだけ年上に見える、ノースリーブの鮮やかな花柄のワンピースを着た少女だった。
「夏休みの宿題の自由研究で、この道を行って本当に高岡があるのか確かめようと思うんだ。」
少年が、まぶしい太陽に目を細めながら女の子に話しかける。
「俺1人で行こうと思ったんだけど、母ちゃんが1人で行ったらダメっていうから、姉ちゃんついてきてよ。」
少女は、跨がった自転車を前後に揺らしながら思案する。
「うーん、この道なんか荒れてるし、自転車で入っていけんの?」
「じいちゃんに聞いたら、途中までは畑があって、そのあと「さぼうだむ」があるから、途中までは大丈夫。」
少女は笑う。
「途中までは、って、高岡までじゃないんでしょ?そこからどうするの?」
少年は少し考えて、声を張り上げる。
「もちろん高岡まで歩いてく!」
その答えに、いかにも嫌そうに少女は顔をしかめる。
「ええー。たっくん、この暑い中歩けるの?」
そこら中で声を張り上げている蝉にわずかに耳を傾けてから少女は、まだまだ筋肉が未発達のたっくんに無遠慮に視線を注ぐ。
「大丈夫。山でクワガタとってるから、歩くの得意だもん。」
たっくんは自転車のハンドルを叩きながら、どうだと言わんばかりに胸を張った。
「うーん。わかった。私もこの道気になってたし、じゃ行ってみよっか。」
「いやったー!!」
たっくんはいきなり自転車の方向を変えた。まさに道に乗り出そうとして、慌てて少女は止める。
「たっくん、だめ。まだ行っちゃだめだよ。準備してからいかないと。」
「ええーっ。何の準備?」
「この暑い中を行くんだし、飲み物と帽子。あと、おばちゃんに、行き先を言ってから。私も一回戻って準備するし。」
「ちぇー。」
たっくんは、道の先を未練たっぷりに見る。
「言うこと聞かないんだったら私行かない。」
少女はたっくんの痛いところを突いた。
乾いた風が吹き、森の木がさわさわと招く。
たっくんは諦めきれない、という顔をしながらも、少女の言うことに従うしかないと、自分を納得させた。
「わかった。」
「あ、お昼食べてきてね。お水も充分持ってくるんだよ。」
「んーわかった、じゃ1時に準備してここに集合。」
たっくんと少女はうなずき合うと、自転車を町に向け連れだって家に戻っていった。
午後1時の太陽はさらに強烈に降り注ぎ、舗装道路を渡る風を加熱する。
真っ青な空に浮かんだ入道雲が存在を誇示しているものの、雨を降らす気配は無い。
時間どおりに2人は戻ってきた。
少女は大きめの麦わら帽子を、たっくんはキャップをかぶっている。2人とも、いつも遊ぶときには持ってこないリュックを自転車の前籠に入れ、ペットボトルが数本籠の底に転がっている。
「たっくん、お家の人にちゃんと行く先を言ってきた?」
少女は僅かに首をかしげながら問いかける。たっくんは大きくかぶりを振り満面の笑顔で答える。
「うん。高岡に行ってくるって言ってきた。」
「お家の人はなんて?」
「気をつけて行ってきなさいって。あと夕ご飯までに帰ってきなさいって。」
少女は、たっくんが家の人に自分たち2人だけで自転車で向かう、ということまで話したか少し心配になったが、自分もついていくし、たっくんが親に借りてきたスマートフォンも持ってきているし、と考えてそれ以上確認しなかった。
少女もこの道を辿ってみたかった。
「じゃ行こうか!」
「しゅっぱーつ!」
元気よく声を合わせてこぎ出す2人。
道は上り坂だが、なだらかで舗装もされているから子ども達でも自転車で登っていける。
森の木々が太陽を遮り、木々と川の間を抜けてくるさわやかな空気が肌を撫でていく。
道の両側から身を乗り出すように生えている雑草が自転車の起こす風にあおられてさわさわと音を立てて揺れる。
黒い雨の痕を乗せたガードレールが蛇行しながら続く。
ところどころで小さい枝が道の端に落ちてはいるが、2人の行く手を阻むようなものは何もない。
古ぼけたカーブミラーに対向車が写ることも無い。
道はときに急坂になったり緩やかになったりを繰り返しながら、どんどん奥へと2人を導いてゆく。
森はたまに途切れて畑になるが、まだ通ってくる人がいるのだろう。
いろいろな野菜が行儀良く植わっている。
2人は、一生懸命ペダルを漕いで、かなりの距離を登ってきた。
入り口から30分は来ただろうか。
汗を盛大に流しながら、少女はたっくんに声を掛けた。
「はぁはぁ…ちょっと坂がゆるくなったところで一回休もう…はぁはぁ…水分補給しないと。」
たっくんがさっきから無言になっているのも気にかかる。
「うん…はぁはぁ…わかった。」
そこから50メートルばかり行ったところで、また畑が見えてきた。
道から畑に上がってゆく土の道に、涼むのに丁度よさげな木陰が出来ていた。
少女は無言でたっくんにその木陰を指さす。
たっくんも無言で頷く。
土の道が2人の辿る道に出てくるところまで2人はなんとかたどり着くと、2人の自転車は息を合わせたかのように止まった。
「はあはあ。」
「暑い~!」
少女の方はまだ暑さに悲鳴を上げられるだけの力を残していたが、たっくんは荒い息をつくので精一杯のようだった。
少女は、前屈みに膝に手をあてて息を整えているたっくんの様子を心配そうに見る。
しばらくして、たっくんが上体を起こすと、少女は2人の自転車の前かごから緑茶のペットボトルをとり、たっくんの手を引いて土の道を木陰の所まで上っていった。
座り込んだ2人はお茶をまるで吸い込むかのようむさぼり飲む。
そのまま動こうとも、話そうともせず、2人は木陰でぼんやりと畑を眺めていた。
蝉の声と風が森の葉を揺らす音だけの時間が過ぎてて、川と森で冷やされて、少し温度を下げた夏の風が2人の汗でぬれた服を乾かしてゆく。
やがて、もう一口、ペットボトルのお茶を飲んだ少女が口を開いた。
「ここはまだ高岡じゃないよね。」
たっくんはちょっと首をかしげてから答えた。
「お家のようなものもなかったし、高岡にはついてないと思うよ。さぼうだむっていうのもなかったしね。」
そういえば、たっくんはさっきもそんなことを言っていたな、と少女は聞き慣れない言葉を聞いたことを思い出した。
たっくんは無邪気に質問する。
「さぼうダムって何?」
何だろう。ダムってついてるからダムなのかな、と少女は首をかしげたが、少女の記憶にあるダムは、提体が山と山の間に渡された巨大ダムの姿だった。こんな小さな川に、あんな大きなダムが造られているのか、少女は疑問に思ったが口には出さなかった。むしろ、そんな珍しいものがこの川にあることにわくわくした。
「ダムって、あの川をせき止めるダムのことだと思うけど。大きい建物だから、そういうのがあったらきっと気がつくよ。」
「だよね。」
だよね、って言ってるけど、たっくんは本当にわかってるのかな、と少女は思ったが、見つければいいから、まあいいか、に落ち着いた。
しばらくそのまま2人はぼんやりとしていたが、たっくんが「行こうよ。」と声を掛け、また戻って自転車をこぎ始めた。
まだ坂道は続く。
森はだんだんと濃くなり、やがて、道の真ん中にも木の枝が落ちているようになった。
道ばたから伸びている草も一段と自己主張を強めている。
やがて、川を渡る小さな橋とその先に続いてゆく分かれ道が現れた。
遅れ気味のたっくんを気遣いながらゆっくりと自転車を漕いでいた少女は。分かれ道の手前で自転車を止めた。たっくんも息を切らしながら追いつき、ちょっと休もうとでも言うように自転車から降りた。
いつ架けられたのか、黒ずんだ肌をさらしているコンクリートの橋に、下を流れる川のせせらぎの音が反響していかにも涼しげだ。
赤錆の浮いた欄干に倒れ込むように背を預け、たっくんはペットボトルのお茶を貪り飲む。
「たっくん、もうこの辺で引き返さない?」
たっくんが声も出ないくらいに息を切らせているのに気付いていた少女はそう声をかけてみた。
「まだ大丈夫。さぼうダムにも着いてないのに。」
たっくんはそう言って、自転車に戻ろうとした。
少女は慌ててそれを止める。
「わかった。でももうちょっと休んでいこうよ。ここ涼しいし。」
少女も欄干に寄りかかり、お茶を飲んだ。
さらさらと流れる川は、時折きらきらの光を放ちながら水滴を跳ね上げる。
澄んだ水は、小さな魚たちが群れ泳いでいる姿を隠そうともしない。
たっくんも少女の隣で無言のまま川面を眺める。
降り注ぐ太陽の光
空に突き抜ける蝉の鳴き声
反射する川面の光
周囲を満たす川のせせらぎ
風に揺れる木々のざわめき
山に切り取られた空に浮かんでいる入道雲
2人を世界が取り込んで。
やがて。
たっくんは少女に向き直った。
「お姉ちゃん。またここに来よう。」
「うん。また来よう。」
2人は約束した。
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