彼らの望む青春

塚葉アオ

春の夜の夢

[1]

 ・1



 窓の向こう側では、生徒たちが部活動に励んでいた。気付けば騒がしい日々が過ぎ、新入生の多くがおそらく自分のやりたいことを決めて、或いは入学式よりももっと前に決めて、健康的な姿であのようにその身を置いている。上級生の中には彼らを見てふと思い出す。自分たちが新入生だった頃に、似た体験をしている。新しい環境に戸惑い、それから発見をする。目の前に溢れる出来事に一生懸命向き合う。上手くか、どこか下手に。


 高校生となり、何が変わったのかと思うと、尾崎おざき雅也まさやは人よりも答えを導き出すのに時間がかかった。学校が変わった。それは簡単なものだ。長いように思えた一年が終わり、中学から高校へとなった。しかしそんなものは解答として、満足できるものではないだろう。彼は真面目に考えてしまう。もっと何よりも「変わったもの」があるだろうと。ずいぶんと大人に見えていたものが、いつの間にか自分も見られる側であって、その何千何万といる高校生の一員となったのだ。そう感じる人は自分だけではないはず。


 どんな高校生を望む。どう過ごしていこうか。他の人と、自分はどう違うのか。どう過ごそうと考えているのか。俺はこれから、どう過ごしていくのか。可もなく不可もなし。


 生徒が横切っていく。部活だろう。とくべつ暇ではないのなら、とうに帰宅していてもいい時間帯である。


「何をしているの?」


 聞き覚えのある声だった。教師ではなく、女子生徒。学年は同じだが、同じ教室ではない。でも入学してから、ほかの同級生と比べて明らかにその声は印象に残っている。


 尾崎は振り返った。彼は想像していた通りの人物が廊下に立っていたことを確かめると、途中だった考えをやめる。また今度でいいだろうと思った。けっして急ぐ必要はない。


 三谷万里がそこにはいた。彼女はその大きな目を開いて、見上げている。腕を前に出して、鞄を両手で持っていた。それから「何をしているの」と調子を変えて、ふたたび問いかける。


「ちょっとな」


 帰りだろうか。尾崎は両手の先にある鞄に目をやる。


「もしかして、部活かな? でも、するつもりはないって言ってなかったっけ」


「部活じゃない。去年の夏ぐらいから、そんな予定はないからな」


 外では、聞き取れない音でいっぱいだ。止むことを知らない。やむことはない。(聞いて、見て)彼はどうしても、やってみようという気持ちまでにはならなかった。


 廊下を誰かが走っている。階段辺り、男だろう。音的に、女子生徒ではなかった。


「部活じゃないとすると」三谷はそう言って、鞄から片手を離した。「わかった。呼び出しだ。今日提出する宿題をやってこなかったんだ」


 尾崎は驚くしかなかった。あからさまな反応はしないで、「よくわかったな。宿題って」とだけ言う。


「うわあ、不良だ。一歩だ。たしかで確実な一歩だ」


「なんだそれ?」尾崎は笑いはしなかった。「てか、宿題をやってこなかったんじゃない。忘れただけだ」


「忘れた?」


「だから、さっき済ませてきた。昨日、家でやってきたのに、同じことを書かないといけなかった。明日提出でも、良さそうなんだがな」


 明日でもいいかと尋ねた。彼は尋ねてはみた。だが、受け入れてはもらえなかった。今頃、家、その自分の部屋の机の上にあるであろう「物」は、どういう気持ちでいるのだろう。


「ご苦労様だね」


 三谷は表情に僅かながら微笑を浮かべる。それはいかにも人の不幸を笑っているわけではない。どちらかというと、「大変だったね」や「小さな失敗だよ」と告げているようだった。


 嬉しそうに言うよな。大変だった。尾崎はつい先ほど教室に残って、自分の机で結果どうにもならないであろう「課題」に、頭を抱えていたことを思い出した。ひとまず、一つ目は終わった。


 彼は三谷とは高校になって知り合った。入学式の日ではなく、もう少しのどかな春を感じたあとの風が少し強かった日のことだ。空気はまだいくらか肌寒い。人や花、土や鉄のような、絵具とか、様々なにおいが身勝手さを弱めて落ち着きだした頃のこと。


 べつにこれといってたいした出会いではない。劇的でもなく漫画のようなものでもなく、とても一般的な、ごく自然なものだった。考えによっては、なぜ相手は親切に声をかけてくれたのだろうかと考える人も(もしかしたら)いるかもしれない。彼が学校に慣れず化学実験室の場所を探していると、三谷がそこで声をかけてくれた。


 学年が同じなようだ。名前もそのとき聞いた。


 それからというもの、登校時や下校時、校内で彼女と話す機会が何度かある。尾崎が彼女(三谷)に対し、他の生徒と比べて記憶に残るのも分かるだろう。それっきりの会話として終わらなかったのが、現在こうして続いている。


 成績が優秀。運動はともかく、勉学についてはきっとそうだろう。得意科目はあえて言えば理系ではなく文系か? 尾崎が彼女に抱いていた印象はそうだった。同学年と言っても彼女のテストを受けているところも、テストの結果も、授業中の様子も、なんでもいいが見たことはない。それらしい会話をしたとして、その辺りの内容でさえ聞いたこともない。しかし、(ふとした時にうすく現れる)三谷の振る舞いは彼にそのように思わせた。静かに、教師が用意した黒板の数式をノートに書き写している場面が浮かぶ。几帳面で、丁寧で、字の乱れは少ない。後になって見返した時に、読めない――驚くことがない。もし唐突に名前を当てられても、彼女はすらすらと曖昧さのない態度で「正しく」答えてしまうに決まっている。


 どういうわけか、教師の誇り顔が目に浮かぶ。ああ、なんでだ?


 忘れ物なんてしないのだろう。尾崎は相手の顔、特にその瞳を見て思った。輝きを失わない。忘れ物を、その目は許さない。


 性格は比較的明るいほう。友達も多いのだろう。人と人とのあいだに溶け込む能力が高いというか。適応能力がなんとかって。


 自分と似た感じで(音楽室を探している、など)、他クラスだろうと関係なく、気兼ねなく声をかけていそうだった。


 教室で、友人といえよう『数人で集まって』楽しく話し、昼食に関しても集まって食べている姿が想像できる。そのとき下品な笑い方はしない。


 彼女はとても優れた高校生のように見えるかもしれない。だが、これは尾崎から見た「三谷万里」のさして参考にもならない人物像である。彼は何も知らない。季節は、夏にもなっていないのだ。だから――本当は違う個所もあるだろう。思っているよりあるはずだ――尾崎から見た『彼女』というのが、けっして優等生というほどではなく、「自分よりも勉強ができそう」というとてもふんわりとした、吹く風に軽々と飛ばされてしまいそうなそれほどのものだった。一言でいうなら、高く買っている。


「職員室に行ってきたんだよね? さっき出して来て、終わった」


「ああ」


「じゃあ、これから帰るところ?」


「いや」尾崎は少し間を置いた。「すぐには帰らない」


 三谷は相手の顔をじっと見つめる。「まだ、何か残ってるの?」


「同じクラスのやつに、頼まれてしまって。それをこれから終わらせてくる」


 もう一つの課題。尾崎は元気な女子生徒を一人ほど頭に浮かべてから、軽くため息を吐きそうになる。思いとどまった。みっともないような気がした。


「同じクラスの奴」


 三谷はそう繰り返すと、黙ってしまう。唇を閉じて考える姿は、なにかの本の表紙のようだった。喧しくない、というのか。女子高生の自然な日常の姿、だけどそう滅多に見られるものではない。そんな。


 何をそこまで考えているんだ? 三谷は『それ』を知って、どうするつもりなのだろう。


「わかった。成瀬なるせさんだ。同じクラスの成瀬つぐみさん。違う?」


「よくわかったな」


 なぜ、わかる? 尾崎は口にはしなかった。それはまるで授業中、教師に「指名するな」と願って、睨んでか又は顔を背けて、結局自分の名を呼ばれるような気分だった。ああ、わからんぞ。名前を呼ばないでくれ。こっちを見るな。どうして教師というのは分からん時に限って、あのようにいい感じに狙ってくるんだ。


「もし一緒に帰ろうというつもりなら、先に帰ってていいぞ。すぐ終わる気がしない」


「ああ、それはだいじょうぶ。一緒に帰るつもりはないから」


「あ? そうか」彼は考える。「これから部活か? 部活なにするか、決まったのか?」


「いいや。そうじゃないけど。わたしも、尾崎くんみたいに、これから用事があるってだけ」


 委員会とかだったりしないよな。部活じゃないとして、じゃあ学校にいる理由といったら。


「それで、成瀬さんのことだけど」


 話が逸れたと思ったのに。続けるのか。彼は思うと、すぐに諦めた。ここで努力したところで、彼女にはそこに関心があるのだろう。でなければ、『名前』が出てくるはずがない。


「成瀬のこと、知ってるんだな」と尾崎は言う。


「成瀬さんと仲がいいらしいね」三谷は微笑んだ。「『南坂高校の有名人』は、さすがに言い過ぎかもしれないけど、それでも知ってる人は知ってると思うよ」


「そこまで有名なのか。まだ、入学したばかりだろ。何したんだ?」


「どこの学校でも、目立つ子ってだいたいそういうものじゃない? まあでも、ちょっと不思議な感じの子らしいね。教室とか、誰ともあまり話さないのに、尾崎くんには嬉しそうに話すとか。数学の授業中とかさ。そういうの、人から聞いたよ」


「誰だ? そんな適当なこと言ってるのは」


 三谷は何も言わなかった。言うつもりはないようだ。嬉しそうに待っている。


「何か、そう『コツ?』みたいなのとか、あるの?」彼女は続ける。


「なんだよ『コツ』って」


「さあ?」


「『さあ?』ってなあ」


 明らかに揶揄われている。尾崎は三谷の態度を見て、さらに観察する。彼女は噂好きの誰かから聞いて、直接本人に聞こうと考えた。おそらく。昼食時にでも、女子から聞いたとかそういった。


 さて、成瀬とは始め何を話したか。思い出せない。「あれ」ではないことは確かだ。


「ただ、『話した』」


「話した」三谷はやや強めに言う。「それだけ?」


「それだけだ」


 三谷はしばらく黙った。小さく頷くと、少しだけ立ち位置を変えて最後に首を傾ける。よって髪の毛が揺れた。そして、「へえ、そうなんだ」と口にする。


 なんだ、その言い方は。それと、三谷はいったい何に興味を持っている?


 他の生徒の話し声が遠くのほうから聞こえる。先ほど、階段辺りで音を立てていた男子生徒はもういない。勢いのまま校舎を出ていった。


 少しの間、三谷は窓の外を眺める。


「あの『南坂高校の亡霊』を探しているんでしょ? 成瀬さん。尾崎くんもそうなの?」


「俺は探してはいない」彼はそう言って目を逸らしてから、視線を戻す。「というか、意外というか。三谷も亡霊のこと知ってるんだな」


「それはね、言ってしまえばこの学校の名物みたいなものだもん。わたしだって、そのぐらい知ってるよ。たぶん知らない子のほうが、珍しいぐらいなんじゃないかな? 高校を決める時期ぐらいとか、その話題で、みんなで盛り上がりそうだし」


 南坂高校の学生たちは「おかしな話」をする。世の中にはドラマとか、アニメとか、漫画とか、ゲーム、部活動、他にも沢山あるだろう、それだけで彼らは収まらなかった。


「もしかしてこれから一緒に、二人で探そうとか考えていたりして」


 三谷は面白がっている。しかし、彼女は亡霊に興味があるのではない。


 人の心を読み取れる超能力者か何かなのか。勘が鋭い。勉強ができるってのは怖いものだな。尾崎は思った。「俺は、探すつもりはない」


「あっ、これも聞いた話で」と三谷は微笑んでから、言う。「毎年ではないらしいんだけど、成瀬さんと、似たことを言っている生徒がいるっての聞いた。だから、成瀬さんだけが『変』とか、そういうことは無いと思うよ。誤解のないように言っておく。誤解があるならね。わたしも彼女が『変な人』とか思ったりはしていない。面白い人、だとは思うけどね。それで一つ思ったんだけど、成瀬さんとさ、その『見つけた』としてどうするの?」


「知らん。本人に聞け」


「包丁を持ってるんでしょ? 危ないよ?」


 校内で、包丁を振り回す亡霊。それは危ないだろう。もし本当にいるのだとしたら、さっさと警察を呼ぶべきだ。電話一つで、間違いなく亡霊と呼ばれる何かを捕まえてくれる。


「もしその時は、尾崎くんが守ってあげなきゃね」


「俺が?」


「成瀬さんは女の子なんだから。傍にいる尾崎くんが守ってあげなきゃ、駄目でしょ」


「自分から首を突っ込んでるんだが。リードのない犬みたいに。それに三谷まで、『ただの噂』が本当だと思ってるのか」


「『それでも』、だよ。わたしなら、もしその時になったら守ってほしいと思うから。誰だって襲われたくはない。そうじゃないかな」


「俺も襲われたくはない」


 三谷は聞いて笑ってみせる。いくぶん抑えた笑い方だった。肩が動いている。揶揄い、なのではなく。純粋に愉快なようす。


「そうか。そうだったね」と彼女は言う。


 尾崎は時間を気にした。視界に時計はない。帰りたいという気持ちが強くなった。


「三谷」と彼は名を呼ぶ。


「なに?」


「成瀬についてだが、それにも誤解、いや間違い――ではなく、訂正がある」


「えっ?」


 三谷は口を小さく開けた。彼女にしては、見たことのない間の抜けた表情をしている。


「成瀬は誰かと話さないわけじゃない。他の奴らとも話してはいる。ただ、その先が無い、続かないってだけで。どこか人見知りなところがあるんだと思う。落差がある、と言えばいいのか? ただ歩いている。が、近くはないというか」


「なにそれ」三谷は表情をすっと変えた。彼女らしい顔に戻る。「なるほどって思ったけど、最後のほう意味が分からない。ちょっと変なこと言ってる」


 尾崎はもっと誤りなく正確に伝えるには、言葉が思い当たらなかった。余計な部分を切ってしまえば、それだけでも問題はなかっただろう。彼には難しく、気にし過ぎていた。


「亡霊探し」と彼女は小声になる。「いやいやでやっているようにも見えたけど、もしかして存外よかった? 成瀬さんのこと気になるって言う男子もいるみたいだし――」


「俺はわがまま」彼は首を横に振った。「どうでもいいことに付き合わされているだけだ。それ以外のなんでもない」


「『自分から』付き合っている。そういう訳じゃなくて?」


 彼は間を置く。「そうだな。そうかもな。勢いに乗った。断る気になれなかった」


 はっきりと断ってしまえばよかった。そうすれば、帰ることはできたかもしれない。だが、何をいまさら言うのか。しなかったのだ。


「やっぱり」


「やっぱりって、なんだ?」彼はそこに別の意味があるように思えた。


「なんでもない。楽しそうでね。へえ、よかった、よかった」


「お前も交じるか? 今日は無理でも、大いに喜ぶと思うぞ」


「断っておきます。わたしはわたしで忙しいんでね」


「はいよ。そうですか」

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