大旱の雲霓を望むとて

 奥茶室での本多忠勝との遭遇から一日を挟んで、

「また後ほど」と言い残して去った例の彼からの連絡が来た。

 実を言うと、本当にその彼からであるという確信がない。


 廊下で、顔見知りでもない女中からすれ違い様に「薄雲の間にてお待ちです」とささやかれただけなのである。

 とはいえ、わざわざ人目を忍ぶような呼び出しの心当たりはそれしかない。


 薄雲の間は曲輪の三階にある座敷だ。階段からは一見死角になった部屋ではあるが、そもそも関係者以外の出入りは怪しまれそうなものなのに、平気なんだろうか。……平気なんだろう。松平方に取り込まれている人物が野分以外にもまだいるようだし、手引きさせるくらいは可能なのだろう。

 

 三階までの階段、あるいは指定の部屋までの廊下で、口うるさい上司や耳ざとい同僚に見つかったら面倒だな、と思っていたのに、まったく杞憂に終わった。

 元からさほど人通りの多くない区画のせいなのか、それとも何か私の知らない行事で皆出払ってでもいるのか、階段を上りきった先の廊下にはさっぱりひと気がなかった。




 薄雲の間は、座敷の襖の下方すべてに銀色の霞が描き込まれている。部屋にはその他の装飾的絵画は一切なく、欄間の埋め込み彫刻まで雲一筋である。


 その座敷には既に男がひとり待っていた。奥茶室での一件で、本多忠勝を制して連れ帰ってくれた彼だ。名前がまだわからない。

 その彼が入室してきた私に黙礼し、手振りで座るよう促してくる。

 神妙な顔つきになんとなく察するところがあって、勝手に発言することが憚られたので私も黙っていた。

 

 下手しもてにそっと腰を据えて待つ。

 しばらくして、遠慮会釈なくスパッと鋭い音で襖が開かれた。

 入ってきたのは松平元康。――このゲームにおいて、姫の攻略対象である徳川家康だ。

 

 自分の配下と間諜に使っている女中がそろって平伏して迎えたのを、彼は軽い調子で「面を上げてくれ」と言いつけて、上座に胡坐をかいて座った。

 

 許されたので顔を上げる。失礼にならない程度にとは思いながらもまじまじと相手の顔を見てしまう。


 ……ついに攻略対象そのものと対面してしまった。

 野分が彼の間諜として動いていたという事実の確定も含めて、まざまざと実感が湧いてくる。

 


 覚えているキャラデザそのままだ。

 本来の戦国時代の武士ならありえない今風な黒髪短髪、発色強めのカラコンばりに金色の両目。猛禽のような目なのに、眉は弓なりで優しげに見え、すっきりとした頬と薄い唇に柔和な微笑を浮かべている。

 穏やかで謹厳実直の地味な人という役を演じている、という印象だ。

 

「堅苦しい挨拶は省くとしよう。ともあれ、長く無沙汰をして悪かったね、。その後どうだろうか。初花姫のお戻りで淡海の方もまだ心穏やかでないように思うが」


「ご推察の通り御方様は先の一件にご心痛あそばしておられ、お体の具合にも障りあるご様子です。またお館様より御方様へ直々のご命令があり、私には初花姫様付きへ転任の内示がございました」


 相手の言葉を額面通りに受け取って時候の挨拶も何もなしで答えてしまったが、松平元康は気に留めなかった。

 君主の側室の近辺は彼が出入りするのには不自然な場所だから、話は手短に済ませたいということなのだろう。


「そうか。姫様のところへ潜り込ます手を探していたところだ。よい按配だったな。他には?」


「差し当たりは以上となります」


「ご苦労。ところで、しまきは此方と面識があっただろうか?俺の下についている若い衆の大概は君を知っているだろうが、君の方では誰が誰やらというところだろう」


 松平元康が、そばに控えている例の彼について水を向けた。大変ありがたい。

 見たことあるなというだけで、実際には野分も詳しくは知らない子だったとは。朧げな感触のままノーヒントで接する羽目になるところだった。


「この者は、当家の陪臣ばいしん榊原さかきばらの小平太という。姫の座所への出入りとなると平八ではがさつだから、以後はこの小平太に君との連絡役を任すことにした。覚えておいてくれ」


 平八とは本多忠勝のことだ。確かにちょっと荒っぽい感じの子である。

 今まで野分が働いていた棟は今川館のはずれにあるので場所さえ選べば人目を憚って会うことは難しくなかっただろう。それに今川家臣下のたいていが集まる本丸付近に彼がいても何らおかしなところはない。が、今川公の肝煎りの姫君が住まう曲輪に来ると悪目立ちすること必至だったろう。


「承知いたしました。榊原様、以後よしなに」


 膝の向きを変え、紹介された榊原小平太に座礼する。


「ようやくしまき殿に名を知って頂けて恐悦至極。よろしくお願い申し上げる」


 しれっと口説くようなことを言って、相手も頭を下げた。妙に余裕のある子だ。本多くんとはちょっとベクトル違いにただ者ではなさそうな感じがある。

 というか松平元康の言い方からして、そして本多平八並びに榊原小平太の態度からして、もしかして野分は案外年下の男の子から憧れのお姉さん的ポジションでモテているのでは。


「さて、長居は無用。俺は邸に戻る」


 景気よく膝を打ったかと思うと、松平元康は本当にさっさと帰っていこうとしている。

 すり足で先に立った榊原くんが襖をそっと開け、廊下の左右に人がいないことを確認し、主人の道を空けた。


「ではね、しまき。姫様付きになったらもっとこまめに話を聞かせてくれ」


 肩越しに振り返りざま、美形の微笑みが放たれる。ほのかに腹の黒さをにおわすような、でも今のところは茶目っ気がまさっているような、皮肉っぽくも色香のある、それは美しい横顔だった。


 その顔への直視を避け、座礼で応える。


 正直、ぐっと胸にくるものがあった。おそろしい。顔の良さへのときめきだけではない、何か別の現象が体に起きたとしか思えない。

 それくらい唐突に、そして顕著に、この人に好感を覚えてしまった。おそるべしメインキャラクター。


 軽く会釈をして去っていった、例の榊原小平太くんもかなりハイレベルに整った顔をしているのに、なぜなのだろう。言ってはなんだが、彼はやっぱりふつうの人なのだ。


 ひとり部屋に残されて、とたん脱力する。

 この短いやりとりでなんだかどっと疲れてしまった。



 ゲームにおけるメインキャラクターたちにはシステムの加護のような、何か特別なものが備わっているのかもしれない。

 秀でた主人としての求心力、他者を惹きつける不思議な魅力、支配的なまでの威光────表現は種々あれど、ともかくそういう類の圧倒的な何か。一介のモブキャラでは抗しきれないほど、惹きつけられてしまう何かがある。

 それとも、人の上に立つ人の資質とは斯くあるべし、なのだろうか。いわゆるカリスマ性。設定とかシステムとか関係なく、ただただカリスマ、ということもありうるのかもしれない。


 天下に覇を唱えんとするああいう男たちが皆、彼女を欲して手を伸ばすのだ。

 魅力という点において世に冠絶する美姫、初花姫。

 …………本人とまともに話してもいないのに、姫の強烈な輝きと、その主人公補正を感じずにはいられない。


 

 正直言って、漠然と、主人公のシナリオクリアさえ見届ければなんとかなるような気でいた。

 実際どうなのだろう。


 暴力的なまでの存在感を放つメインキャラ、サブキャラとしてすら見たことのない人たち。

 確かなバックグラウンドを持った野分というこの人物に、明らかなイレギュラーとして入り込んだ私。


 何もかも私の知っているソシャゲとは乖離した話だ。

 でもゲームの仕様上の限界点のようなものはそこかしこに存在するし、 やっぱりそういう世界ではあるのだろう。

 ここはソシャゲのβ版的なアレで、私はもしかしてVR的な体験を受けてでもいるんだろうか。心当たりは全然ないけど。


 夢なら醒めるだろうか。この世界で死んだらどうなるんだろうか。


 考えている内に、松平の主従の足音が完全に遠ざかっていった。


 ……戻らなくては。

 だるい体を押し立てて、私はまたひと気のない三階の廊下へ出ていった。

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