泡になった王子様

桜良ぱぴこ

泡になった王子様

 私は王子様になりたかった。彼女だけを守る王子様。いつでも手を差し伸べて、求められればすぐに駆けつけ、悪い虫を追い払う。そんないつか読んだ絵本の中の存在に憧れていた。

 私の幼なじみ――もえは、すぐ隣の家に住んでいた。生まれた月も近いことから、家族ぐるみでなかよくしていた。母親たちはしょっちゅう一緒に出かけるし、父親同士も仕事帰りに飲むことがあると聞く。休みの日にはお互いの家で食事をすることもあれば、私たちがもっとちいさなころは、遠出してキャンプ場でバーベキューをする機会も多かった。そういうところが絆をより深めていたのかもしれない。

 そんな付き合いが続いているものだから、萌とは毎日のように顔をあわせていた。それが当たり前だった。いま、高校生になった私たちは、同じ学校に通っている。

 生まれたときからずっと私のそばにいる萌。何年も続く一緒の登下校は、朝、私から彼女へおはようの連絡をするところから始まる。

「萌、朝だよー」

「ん、んん……おはようルカちゃん……あと五分……」

 朝に弱い彼女へのモーニングコールは、私にとってしあわせな時間だった。七時ちょうど、いそいそと電話をかけて萌の眠たげな声を聞く。けれどこれは第一報にすぎない。あと五分、十分、と萌が何度も寝てしまうのはいつものことで、だから私はそこからきっかりと十五分後にまた電話をする。これが私たちの日常。変わらない毎日。それ以上のことは、私にはきっと贅沢すぎる望みだ。

「寝ぼすけさん、もう起きないと遅刻しちゃうぞー」

「んぅ……」

 第二報。むにゃむにゃと電話越しにでも寝てしまいそうな萌を、今度はしっかりと目を覚ますまで声をかけ続ける。

「ほーら、萌さん、ベッドから出て立ちましょう」

「まだ……五分……」

「だーめ。はい、うーんと伸びをしてー」

 んぅーっ、と受話器から萌がごそごそする音が聞こえる。衣擦れの音や萌の息づかいまでが私の脳内でこだまする。こうして萌を起こすことはなんら苦ではない。手のかかるこどもをあやすように、やさしく、いとおしく想いながら彼女の力になれることは、むしろ癒やしのようにかんじていた。

「ルカちゃん、おはよう」

 ああ、この声だ。さっきまでのだだをこねるこどもから一転して、唄うようなハイトーンボイスが砂糖菓子のように私を甘く包む。このやわらかで清爽な声を求めて、私は毎朝電話している。

「おはよ。もう大丈夫?」

「うん! 今日も無事起きられました」

 ありがとう、と礼を述べられて、とっさに「こちらこそ」なんて言いかけてしまったものだから、あわてて咳払いをしてごまかした。こちらこそ、ごちそうさまでした。

「じゃあ、支度できたら迎えに行くね」

「出る前に忘れもの確認するのよ」

 おかあさんみたい、とクスクス笑う萌に「またあとで」と告げて、コール終了のアイコンをタップしてからスマホを置く。何年も何年も続く習慣なのに、いつまで経ってもこの一瞬の別れがせつない。このあとにはすぐ会えるのだし、なんなら下校後に遊ぶことだってできるのに、また翌朝には同じきもちになる。すこしだけ胸がきゅっとして、それから、呼吸を整える。ここまでが毎朝のルーティン。私だけが知っている萌の寝起きの秘密を、誰にも奪われませんようにと祈るいつもの朝だった。


 萌はとても背が低い。一六七センチの私からぴったり二十センチ下に萌の頭がある。

 小学校の低学年あたりから私の身長は伸び続け、おねえさんたちはみんな背が高いのに中学から変わらなくなってしまった萌は、いつも私をうらやましがる。

「立ったままルカちゃんと話してると首が疲れちゃう」などと見上げる仕草はあまりにもかわいらしく、私はついからかいたくなって、わざと萌の頭に肘を置く。すると萌は決まって「もおーっ! またそうやって上から押さえつけるー!」「これ以上背が縮んだらルカちゃんのせいなんだからねっ」とむくれてみせる。そんな願ったり叶ったりなことがあるならこのままずっと続けていようかなんて思ってしまうけれど、ごめんねのかわりに頭を二回ぽんぽんとなでて、ふたりで笑う。このお約束のようなやりとりも変わらない日常だった。

 そんなかんじでずっと小柄で華奢な彼女は、幼少の折には近所の悪ガキたちから格好の餌食にされていた。こどもの容赦ない攻撃に萌は傷つき、泣いていた。そのたびに私は彼女を助け、悪ガキどもを追い払っていた。

 似たようなことがあったある日、私はそのガキ大将から「女のくせに!」と言い放たれた。

 女のくせに。

 今度は私が傷つく番だった。でも私はめげなかった。その日のうちに母に頼み、長かった髪をばっさりと切った。萌とおそろいにして伸ばしていた髪を、肩に届かないほど短くした。

 私は萌の王子様なんだ。王子様に長い髪なんていらない。私が、私だけが萌を守ることができるなら――

 翌日会った萌は目をまるくしていた。どうしたの、と問われて口を閉ざす私を見て、萌はそれ以上なにも聞くことなく「かっこいいね」と言ってくれた。急に照れくさくなった私は笑ってごまかしたけれど、にこにこしている萌が私の前に立つなり頭をなでてくれ、「うん、にあってる」などと言うものだから、私は萌にばれないよう、静かに洟をすすった。もっと強くならなくちゃ、と決意を固くした、朝の通学路でのことだった。


 八時過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。表に出るとあらためて「おはよう」と言い交わし、バス停まで歩く。私たちの高校はバス一本ですぐのところにあるので、のんびり出発しても充分に間にあう時間だった。

 春の朝はどこか眠たげな空気がただよう。横でちいさくあくびする萌に似ている気がしてふと笑みがこぼれる。

「もう起きたんじゃなかったの?」

「起きたけど眠いのは眠いのー」

 萌は胸元より長い髪を揺らしながら、もう一度ふわあと声を上げた。

 いつもと変わらない一日が始まり、充足した時間だと思った、その矢先のことだった。

「そうだ。昨日言いそびれちゃってたんだけどね」

 うららかな陽の光をめいっぱい浴びながら、無邪気に話しはじめた萌の言葉に、私は膝から崩れ落ちそうなほどの衝撃を受けた。すんでのところで堪えることができたけど、目眩で世界がまわる。

「告白、された?」

 かろうじて出せた声もかすれていて、萌に悟られないよう顔を背けることでしかごまかせなかった。

「そうなの。隣のクラスの子でね、名前はなんていったかなあ。サトウ……そう、佐藤くん」

 まんざらでもなさそうに話す彼女へのこのときの感情は、どう表現したらいいかわからない。悲しさとも、憎しみとも違う、なにか。

 私は嫉妬していた。萌にじゃない。その、佐藤とかいう男子に対してだ。

 萌のことは私が誰よりも知っている。なのになぜ、そんなぽっと出の男に萌を盗られなきゃいけないのだろう。いや、まだ盗られると決まったわけじゃない。萌がどうするかは聞いていない。それとももう心は決まっているのだろうか。

 早鐘のように脈打つ鼓動がうるさい。

「そ……それで――」

 かすれに震えの加わった私の声は萌にどう届いているのだろう。頭がうまくまわらなくて、ただしい思考もできない。それでも答えを聞きたい。いや、聞きたくない? ああもう、ぐしゃぐしゃに丸めた紙のように心がささくれ立つ。

「うん、とりあえずお友達からってことになった」

「オトモダチ?」

「そ、お友達」

 それはもう決まったようなものなのでは、とは口が裂けても言えなかった。萌の背中の後押しなんてしたくない。

 萌の王子様は私なんだ。私以上に適任な人間はいないんだ。私が、私だけが、お姫様を守ることができるはずなのに。

「ルカちゃん?」

「えっ?」

 どうやら無意識に頭を押さえていたらしい。「具合悪い?」と心配そうに上目遣いでこちらを見る彼女に、いまは視線をあわすことさえできなかった。

「大丈夫、昨日ちょっと寝不足で」

 適当なことを言い、その場はまるく収まった。無理しないでね、と言われた声だけがずっとリフレインしていた。


 学校は同じでもクラスが違うことが功を奏すなんて、いままで考えたこともなかった。いまだけは、とてもじゃないが萌の存在をかんじることでさえ息苦しくなる。

 うちのクラスに佐藤はいない。ありふれた名字なのにひとりもいないことがおかしく思えたが、となると、反対側のクラスにいるのかもしれない。

 どんなやつだろう。考えたくないのに頭のどこかではめまぐるしくいやな妄想をしてしまう。

 私はC組、萌はB組だ。隣だけれど私のクラスにいないのなら、きっとA組に違いない。どんな顔かも知らないし、確認方法だってわからないのに、私はひとまず休み時間に見に行ってみることにした。

 三限目のあと、そそくさと自分の教室を離れて敵地に向かう。さながら工作活動のようだという自覚はあった。けれどその衝動を抑えきれなかった。私にとっての「敵」なら許されるのではないかと、勝手な理屈をこねて自分を納得させた。

 ドアの隅からA組の中をぐるっと見渡してみたが、やはり情報が少なすぎてひとりで探し出すことは困難そうだった。それもそうかと無力感に襲われる。

 いまのところは引き上げよう。さすがに無理がありすぎたんだ。

 放課後、合唱部に所属する萌が戻るのを帰宅部の私が待っていると、廊下から男子たちの話し声が聞こえてきた。

「お前、あれからどうなんだよ」

「どうって」

「告って『お友達から始めましょう』なんて断りの常套句だろ?」

 刹那、私はそこにいるのが「佐藤」であることを悟った。いた。こんなタイミングで見つけることができるなんて!

 私は外の連中に気付かれないよう猫のように足音を消し、ドア付近まで移動した。どうしても「佐藤」の顔が見たかった。

 どいつが佐藤なのかはすぐにわかった。わかってしまったと言うべきだろうか。

 背が高く整った顔立ち。華奢な体躯だけど長い手足。なにより、萌のすきそうな風貌。

 また鼓動が早くなる。ああ、なんてことだろう。あれは、あれが、きっと王子様と呼ぶべき人間ではないのか。

 女の私では絶対に適わないと知る。王子様とは男がなってしかるべきだ。私がどれだけ萌を救おうとしても、男の力に敵う年齢ではなくなった。押さえ込まれたらそれで終わりだ。私は、もうとっくにそれをわかりながら、気付かないふりをしていた。

「あっ、大海おおみさん――」

 どきりとする。萌の名字だ。佐藤は事もなげに萌を呼び止めた。

「佐藤くん。どうしたの?」

「えっと……あ……一緒に、帰ろうかな、って……」

 いま、なんて?

 外野がはやし立てる中、佐藤はどぎまぎしながらも萌を誘っていた。

 やめてよ、萌。いつも一緒に帰ってるのは私じゃない。いまもこうして待ってたよ。約束なんてしてないけど、これが私たちの日常でしょう?

 萌へこの想いを伝えたかった。なのに、私の声は呪いにでもかかったかのように言葉にならない。声が、出ない。

 祈りは束の間だった。

「うん、いいよお。ちょっと待ってて、たぶん友達が教室にいるはずだから」

 ああ。萌。ついに離れていってしまうのね。

 刻限か。

 頭の片隅で思い出す絵本の最後。私は泡となってしまうんだ。本来はお姫様のほうだったはずだけれど、私も女、なんだもんね。

 王子様になれなかった私。お姫様にもなれなかった私。

 静かに、静かに、私の存在は弾けて消えた。

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泡になった王子様 桜良ぱぴこ @papiusagi

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