第20話「置き去り」
ティタニアが静かに足音を忍ばせながら玄関ホールにまで螺旋階段を降りたところで、ユージンの訝しげな声がした。
「ティタニア様……? こんな時間にどちらに? 何か、問題がありましたか」
離れた場所から慌てて駆け寄って来た様子の可愛らしい顔を持つ彼は、ティタニアの旅装に驚いているようだ。
けれど、流石というべきか貴族令嬢に対する礼儀は決して崩さない。
他でもないユージンに見つかり本来であれば焦るだろう場面なのに、頭の中は自分でも驚くくらい、落ち着き冴えていた。
ゆっくりと向き直り、背の高い彼の水色の目を真っ直ぐに見上げた。
「ごめんなさい。父の体調が悪いみたいなの。一度帰って来るわ。またすぐに戻ってくるから」
にこっと微笑んだティタニアを見て、ユージンは出立する事情を理解しほっとした様子で頷いた。
「そうなんですか。大変ですね。お父様が早く良くなられることを、祈っています。スノウはどうしたんですか? ティタニア様が一度帰られるなら……」
首を傾げたユージンは、不思議そうだ。
確かにこれまでの事を考えれば、スノウが今ここにいないのはおかしいだろう。あんなに片時もティタニアの傍を離れたくないと、そう何度も言っていたのに。
今ではもう失ってしまったものを、振り切るようにティタニアは精一杯微笑んだ。
「スノウは、もう今寝てしまっていて。どうせすぐに帰ってくるし、今日も大変だったみたいで疲れていて可哀想だから、もう起こさなかったの」
「あいつ……すみません。貴女のところに早く帰りたがって、このところ、早く例の群れを片付けようとして、無茶な作戦もしていたから」
頭に手を当てて、すまなそうに言った。それから優しく微笑んで、ティタニアの持っていたちいさな荷物を持ってくれた。
「あいつ、ティタニア様にまた会えて、本当に心から嬉しそうでした。連絡も行き届かず、不安な思いだったと思うのに、勇気を出してプリスコットまで来てくれてありがとうございます」
「いいえ……ユージン、こちらこそ、ありがとう」
(今まで、スノウの傍に、ずっと居てくれて。苦しんでいたあの人の支えになってくれて、本当にありがとう)
二人で廊下を歩き出して、ユージンはくすっと笑うと持っていた荷物を示した。
「お安い御用ですよ。気にしないでください。ティタニア様はすぐにスノウのお嫁さんになりますし、僕にとってもすごく大事な存在なんですよ」
「ふふ。そうね。ありがとう」
ユージンは優しい彼らしく、きちんと外で待っていた馬車まで送り届けてくれて、窓から頭を下げたティタニアに微笑んで手を振ってくれた。
ガタガタと音を立てて走り出した馬車の窓から、プリスコットの街の様子が流れていく。
ここにはやはり街の役割上戦闘を得意とする獣人が多いのか、獣耳を持っている人たちが歩いていく様子が見える。
市街が途切れて、馬車はそのまま暗い森の中を進む。
まるで黒い夜の中に呑み込まれてしまうような、そんな道筋だった。
◇◆◇
夢の中で、途切れ途切れ聞こえてきた悲鳴は一気に覚醒した時には、もう、耳には届かなかった。
(寒い。雪の中?)
刺すような寒さというのだろうか。肌を切りつけるような冷たさに、震えさえもおこらない。
身動きが取れなくて、何かで縛られているのか手も足も思うように動かせない。
重い瞼を何とか開けたティタニアは、自分の視界いっぱいに予想もしていなかったその人の顔があったことに驚いた。
見下ろしているその緑色の目は、深淵の中のように奥が見通せなかった。
「アナベル……さん?」
起きたてのせいなのか、それとも他の理由なのか、うまく声が出せなかった。かすれた声は震えがあった。
(どういうこと……馬車に乗って……そう、とにかく次の街まで行こうと、夜道を急いでいたはずなのに)
以前見た時よりも、落ち着いた様子のアナベルはゆっくりと体を起こすと、さらりとしている金色の髪の毛が揺れた。彼女の後ろには大きな青い月。
「おはよう。イグレシアス伯爵令嬢さま。貴女と結婚したらスノウは伯爵位を賜るのよね。羨ましい。私も出来れば、その立場に産まれたかったわ」
ティタニアの持っている立場を持つことにより、どれだけの義務と責務を負うことになるのか。彼女はきっと知る由もないだろう。無い物ねだりをする幼児のように、その言葉には羨望しか含まれていなかった。
「どうして……何で?」
信じられない状況に呆然としたままのティタニアの顔を見て、アナベルは辺りを見回した。
彼女の動きにつられて周囲を見ると、昨日来たばかりの雪山だった。
一面の銀世界。二人が黙って動きを止めると、音が溶けているのかと思うほどの静寂。
(嘘でしょ。夜は、魔物が活性化するって、そう言っていたのに)
このプリスコットに来てからずっと、何度もそう聞いていた。
スノウ達が最近手こずっているという強い魔物の群れも、まだ駆逐されていないはずだ。
ぞっとした怖気が、ティタニアの身体を走る。
魔物が数多く住む危険な雪山。手足が縛られて動けない体。目の前には、自分を恨んでいるだろう人物。
今居る状況は、何をどう考えても絶体絶命だった。
「あのねえ。貴女は知らないと思うけど、私は生まれた時からずっと、プリスコット辺境伯夫人になる予定だったの。大昔、辺境伯が絶世の美女と呼ばれる現辺境伯夫人を口説き落として帰って来た時に、辺境伯には婚約者が居てね。その家との約束なのよ。もし娘が出来たら、息子の嫁に貰うって。その娘が私だったって訳。プリスコット辺境伯になるニクスでも……ネージュは絶対嫌だけど。スノウでも、結婚したかったんだけど、今回の追い出されたことが知れ渡ったらとてもとても……辺境伯夫人になるなんて、無理だから。辺境伯夫人になれないなら、もう何しても一緒かなって、思って」
あっけらかんとした口調でそう言うと、ティタニアの耳元に唇を寄せて囁いた。
「……ここって、死にたい人が来るんだよ。骨も何もかも残さず、消えてしまえるから」
その言葉を聞いて、目を見開いたティタニアを見て、アナベルは満足そうに喉の奥で笑った。
「しんじゃえ」
◇◆◇
しんしんと雪が降っていた。周囲の音はほとんど聞こえなかった。
アナベルが去ってからずっと、ティタニアはじっと空を見ていた。
スノウとの別れを選んだあの時から、これまでずっと現実味は乏しかった。
心が現実を理解したくないのかもしれなかった。どうしても失いたくない唯一の存在をもう既に失っていたとしても、それでも尚。
「綺麗……」
ぽつりと呟いた自分の声だけが、鼓膜を揺らした。月の光が降る白い雪を照らし、黒い空に舞っていた。
気温が低く寒すぎるせいか、末端の手足から感覚を失っていくようだった。もしかしたら、魔物に食べられてしまう前に、凍死してしまうのかもしれない。
今こうしている自分の命に、後どれくらいの猶予があるのかはわからない。
けれど、ずっとその間はあの唯一人の彼のことだけ、もう手を離してしまったスノウのことだけ、それだけを一心に考えていたかった。
最初に彼を見た時の不機嫌な顔に、ティタニアが話しかけると途端に笑み崩れる嬉しそうな顔。
どれだけ彼が愛してくれていたのか、自分だけは全部覚えていた。
(運命って、何なんだろう。こうやって私が結果的にスノウの手を離してしまうことも、全部、運命なのかな。別れすらも決められたことなら、会わなかった方が、良かったのかな)
そう思ってから、ティタニアはゆっくりと瞼を閉じた。
スノウと会わなかったら、どうなっていたんだろう。
ジュリアンと結婚して、容易に想像のつくような不幸な日々を送っていたのだろうか。
もしそうだとしたなら、例えここでもうすぐ死んでしまったとしても、選べるのならばこの道を選んでいただろう。
ほんの少しの間だったとしても、愛し愛される両思いの人が居たという事実は、きっとその甘さを知ってしまっていたのなら、諦め難かった。
命の灯が消えてしまうそのすぐ前だというのに、焦燥も絶望も湧かなかった。
ただただ、彼への憧憬だけが胸の中を占めていた。
(もし願いが叶うならば、神様。スノウが、今度こそ自分の意思で好きになれる人に、彼が心から愛することの出来る人が現れますように)
静かな暗闇のただ中に居たティタニアの耳に、低い唸り声が聞こえた。
忍び寄る死の予感に、怯えなどはもう感じなかった。
ただ、純粋な祈りだけが、一筋の光のように心の中に残った。
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