第12話「初めてのキス」
「……キスは、初めて?」
その質問に顔を赤くしてこくんと一度頷くと、それを跪いて見上げるスノウは顔を綻ばせて、嬉しそうに笑った。
「俺もだ」
「嘘」
ティタニアは彼の言葉が信じられなくて、思わず目を見開いた。スノウはいかにも彼女の反応は心外だと言わんばかりに、眉を寄せた。
ひどく整った顔をした彼が、子どもっぽい表情をしたのでその落差が大きくて、ティタニアは思わず吹き出して笑ってしまった。
「嘘じゃない。どうしてそう思う?」
「だって……その、なんていうか、慣れてそう? だから」
「は? 俺が? なんで……見た目?」
躊躇いつつも、もう一度頷いたティタニアにスノウは子どものようなむっとした表情になり、急に立ち上がって、驚いた顔をした目の前の彼女をベッドに押し倒しながらギュッと力を込めて抱きしめた。
温かな熱を持った大きな体と彼自身の放つ例えようもない良い匂いに包まれて、今まで生きてきて感じたこともない安心感に酔ってしまった。
本当に頭の中が彼の持つ熱にとかされたかと思うくらい、ティタニアは目の彼のことしか何も考えられなくなってしまった。
「柔らかい……良いにおいがする……」
スノウは鼻の先がくっつきそうな程の間近でその青灰色の目を切なげに細めると、優しく笑う。
彼のそんな表情を見るたびに、ティタニアの胸は甘く締め付けられた。
決して嫌な感覚ではなかった。
そわそわとした今にもこの場を逃げ出したくもなるような、複雑で簡単には説明できない切なく焦げつくような思い。
「……獣人って、番を決めたらもうその人だけしか、愛さないのは知ってる?」
「知らない。そうなの?」
そうだとしたら、もしかしたら。
今、彼はもう、これから先もティタニアだけしか愛さないと、そう言っているのだろうか。
「俺はね。愛するなら絶対一人だけにするって子どもの頃から、決めていた。最終的に番を決めるまでは、そういう束の間の関係を楽しむ奴も居るけれど、俺は一生をかけて愛せるような、そういう人をずっと探していたんだ。もし見つけられなければ、もうずっと一人で構わないと思っていた。ティタニアを初めて見た時に、周囲の雑音も近くにいるはずの人も、もう何もかも全て消えた。君一人しか見えなくなった。だから、この人だと、その時にわかったんだ。君こそ、俺の運命だと」
胸に迫るようなスノウの愛の言葉は、このところ落ち込んでいたはずのティタニアの心を簡単に掬い上げた。
「そう言って貰えて、すごく嬉しい。ありがとう。スノウ」
はにかんで言ったティタニアの言葉に、うん、と短く頷いた彼は、何度か触れるだけのキスを唇を落として、ぺろっと舌で舐めた。
少しざらっとした表面は彼が獣人という種族であることを思い出させた。
目を閉じて懸命になぜか口元を舐めている彼の頭にある可愛らしい丸い耳が気になって、そっと触れた。ビクッとして彼が体を震わせて、綺麗な青灰色の目をパッと開いたことに驚いて手を離した。
「っ……ティタニア、そこに触れることの意味は、知らない……か。獣人のことあまり知らないみたいだもんな」
間近で真剣な眼差しにじっと見つめられてティタニアは居た堪れなくなってしまった。
「ごめんなさいっ……なんか、かわいいなって思ったら触ってしまって……ごめんなさい」
その行為の意味はわからないけれど、やってはいけないことをしてしまったのではないかと、ティタニアはしょんぼりとした。それを見てスノウはクッと喉を鳴らす。
「……良いんだ。耳と尻尾は獣人にとっては性感帯……なんだ。だから、もし、今度触る時は気をつけた方が良いよ。理性がぶち切れて襲っちゃうかもしれないから」
そう悪戯っぽく微笑むと、きつく抱きしめていた背中の右手を移動させて、ティタニアの胸に触れた。
「あ、あの。スノウ……するの?」
そうしようとしてそうしている訳ではないが、どうしても声が震えた。
きっともう彼のことがたまらないくらい好き。でもまだ、すべての覚悟は決まっているとは言えなかった。
「……結婚、まではダメだよな? やばい。理性がちぎれそう……でも、ちゃんと、わかってるよ。ティタニアのお父さんに結婚の許しもまだ貰ってないし……今日は最後までは、しない」
上半身を起こしながら、スノウは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「……ごめんね?」
貴族令嬢という身分は、気軽にこういうことも出来ない。
万が一、してしまった後に、何かの事情でスノウ以外の人に嫁がねばならなくなったらもう取り返しがつかないからだ。
領地を持つ爵位を受け継がねばならない責任のあるティタニアには、それだけは守らねばならないことだった。
「……あの、番ってどうやって決めるの? もう、私ってスノウの番なの?」
「そうだよ。俺が心から求愛して、ティタニアが応えてくれたら、それでもう番になるんだよ……人と違って獣人は一度番を決めたらもう浮気もしないし、一人だけを一生大事にするんだ。それに、番である前にティタニアは俺にとっては、すごく特別な存在なんだ」
「……どういうこと?」
「……明日ちゃんと説明するから、今日は寝よう。ね? 色々あって、疲れたよな」
その言葉に頷いたティタニアの髪に何度かキスを繰り返すと、彼はぎゅっと抱きしめた。
(温かくて気持ち良い。人肌ってこんなに安心するんだ……)
ほうっと息をついてからティタニアは目を閉じてうとうとと微睡んだ。はじめての経験に疲れたけれど、男性の腕の中で包まれて眠るなんてはじめてのことだし、眠ろうとすればするほど頭のどこかが覚醒しているのを感じた。
たっぷりとした十分な時間を置いてから、背中から抱きしめて規則正しい呼吸をし出したティタニアはもう寝てしまったと踏んだのか、スノウは深い息をついた。
「……あー……したい」
掠れた甘い誘惑の囁きには、負けないように努力した。
◇◆◇
「おはよう」
目を開いた途端、にこっと間近で笑顔を見せる信じられないくらい端正な顔を見て、ティタニアは慌てて後ろへと体を動かそうとした。
そしてそんな彼にぎゅっと抱きしめられていることに気がついて、顔を赤くした。
「……おはよう。スノウ。離してくれる?」
恥ずかしさのあまり小さな声で言ったティタニアに、スノウは首を傾げた。
「どうして。まだ起きなくて良い。ユージンは絶対に呼びに来たりしないから、安心しても大丈夫」
額を擦り付けてくすっと笑った無邪気な顔に、今まであまり表情を動かすことなかった彼の事を不思議に思った。今までずっと不機嫌そうにその端正な顔を顰めることが多かったのだ。
「スノウ。笑ってくれるようになったね。今までずっと不機嫌そうにしていたから嬉しい」
はにかんでそう言ったティタニアの顔をじっと見てから、少し照れくさそうに自分の顎を触ると目を細めて愛おしそうに微笑んだ。
「……獣人にはね、運命の番っていうものがあるんだ。俺の運命の番はティタニアだから、お前と一緒に居ると嬉しくてたまらなくて、顔がみっともないことになりそうだった。だから傍にいる時は特に気を張って引き締めていたからかも」
「運命の、番?」
ティタニアは、あまり獣人については、詳しいとは言い難い。
ノーサム地方にはあまり獣人は住んでいないし、獣人はやはり本能だろうか、自らの種族で群れたがる習性があり、王都周辺に住んでいるのもあまり見かけたことがないからだ。
「……そう。一目惚れと、この前言ったけど、それにとても近しいものだ。運命の番に出会える獣人はそう多くない。俺の父は自分の運命の番である母を嫁にしたけれど、それは稀な例なんだ。見た瞬間に本能で、わかるんだ。体をつらぬくような激しい直感とも言える。ティタニアは俺にとって、唯一無二の存在であると、そうわかるんだ」
「それで……運命?」
ぱちぱちと目を瞬かせながら、ティタニアは戸惑う声を出した。
確かに彼はあの嵐の夜に、ティタニアのことを俺の運命と呼んだ。彼ら獣人特有のそういった直感で、ティタニアを好きになったということだろうか。
「……社交界デビューのあの日、俺は兄の代理のエスコート役をどうしてもと頼まれて、あの場に居たんだ。そうして、運命の番であるティタニアを見つけた。でも、お前はあの時、あの屑の隣で楽しそう笑っていた。今、思い返せば、必死でそう見えるように努力していたんだな。だから、俺は自分は邪魔者なんだと思った。獣の本能でわかったことだ。幸せそうな二人に、それは俺の番だから寄越せなんて、どんな顔をして言える?」
「運命の番って、どんな風にわかるの?」
「……それを言葉にして説明するのは、本当に難しい。見た瞬間に、俺の心は激しい渇きを感じた。これから先、生きて行くためには、あの笑っている可愛い女の子が必要なんだと、わかっていた。けれど、隣の男に微笑んでいるティタニアを見て、俺の思いは、お前自身を傷つけると思った……だから、我慢した。何年も、ティタニアはこの場所に居ると分かりながら、ただひたすらお前のところに行くことを我慢したんだ」
辛そうに声を震わせたスノウに、ティタニアは堪らなくなって彼の頭を抱きしめた。
応えるようにスノウも抱き返して、ひとしきりお互いの熱を分け合った。これからは、もう彼は何にも我慢することはないとわかって欲しかった。
「なのになんで、ノーサムに来てくれたの?」
ティタニアはそれを不思議に思った。
会うことをずっと我慢していたというなら、それにも何か理由があるはずだ。
「……ティタニアは成人間近で、そろそろ結婚することはわかっていた。だからその前の一年だけでも、ほんの少しだけでも傍に居て、姿を見られるならと、そう思ってここにきた……今となれば、もっと早く来れば良かった……あの時、お前は本当に幸せそうだった。もし、少しでも辛そうにしていたなら、すぐ攫ったのに」
泣きそうな顔をした彼の顔を見てティタニアはふふっと微笑んだ。
「いいえ。これで良かったのよ」
「ティタニア?」
「あんな、社交界デビューの夜会で攫われるなんて、それこそ末代まで語り継がれる伝説になっちゃう。それに、スノウの目に映る最初の私は幸せそうな笑顔で良かった。少しでも可愛く見られたいもの」
冗談ぽく笑ったティタニアをスノウはまた力を込めて抱きしめた。
変えられない過去を悔やむ彼の心を少しでも軽くしてあげたかった。そして、それは嘘のない本心でもあった。彼の目に映る時は、その時の一番の自分で居たい。
運命の人である前に、彼は初めて本当に好きになった人で、誰よりも大事にしてあげたかった。
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