第11話「海辺の街」
幼い頃から長い期間ティタニアを悩ませながら続いたジュリアンとの婚約の解消の事務手続きは、肩透かしとも思えるくらい本当に呆気なかった。
双方の家の間で何通貨書類が交わされ、粛々と貴族院への提出の日取りなども決まり、いつも通り父の仕事を手伝う忙しい日々過ごしている内に、ティタニアの婚約者はいなくなっていた。
「ティタニア? 聞いているかい?」
父カールの心配そうな声に、ティタニアははっとして顔を上げた。
昼食を共に取っていた三人は、なんとも複雑そうな表情でこちらを見ている。
スノウとユージンが今日仕事が休みだったので、このところずっと浮かない顔をしたティタニアに久しぶりに彼らと明るいテラスで昼食を取ろうと言い出したのはカールだ。
「……最近、仕事に根を詰めすぎじゃないかね。手伝ってくれるのは嬉しいが、今はとり急いだ案件もないし、旅行でもして来たらどうだい?」
このところ何も考えたくなくて、ティタニアは夜遅くまで書類に向かっていた。
曖昧に笑ったティタニアの隣で、ユージンが明るい声でその提案に乗った。
「それは良い考えですね。海の近くの港町ネブラアートに行くのはどうですか。あそこならここから程よく近場ですし、食べものも美味しいし、僕達もここに来る前に滞在していたことがあるので、ある程度の土地勘もあります。それにティタニア様さえ良ければ、道案内代わりの護衛として僕たちも連れて行ってもらえれば嬉しいんですけど」
「それは良い! ティタニア、ちょうど良いじゃないか。行ってきなさい!」
カールはまるでこの展開を打ち合わせていたかのように、芝居掛かった動きで手を打って言った。
けれど、それを指摘してわざわざ逆らう気持ちにも、なれない。ティタニアはぎこちない笑顔で頷くと、ようやくほっと安心したような空気が流れた。
カールとユージンが二人で日程や旅行先のネブラアートまでの行程を打ち合わせしている間も、スノウは難しい顔をしたまま、結局何も言わなかった。
「とりあえず一週間ほど行ってみて、気に入ったら滞在期間を伸ばしたら良いんじゃないか? ティタニアは私が忙しいのもあってこのノーサムに篭り切りになっていたし、他には社交期に王都にしか行ったことがないだろう。お二人に任せたら安心だから、ぜひ楽しんできなさい」
カールは今まで娘のティタニアにかなりの無理をさせていたという負い目もあるのだろう。
すっかり落ち込んでしまったティタニアを見て、かなり心配そうだ。
報告はしていないのでジュリアンがティタニアの部屋に何の許しもなく侵入し、書類を持ち出そうとした事は知らないはずだ。
だが、祖父が大金を使ってでも整えた婚約を、真面目なティタニアが自分の持つ鉱山の権利を手放してでも、解消して欲しいと言うからにはよっぽどのことだとは察しているのだ。
「そうですね。海の近くは雰囲気も開放的ですし、気分が変わって良いかもしれませんね」
そういった采配がぬかりないユージンは頷き、行くと決まれば天気の変わらない内の早い方が良いと提案し、それにカールは諸手を挙げて賛成した。
慌ただしくも明朝、出発することになった。
部屋に戻りミアたちが慣れた手つきで旅行準備をしてくれている間も、ティタニアの気分は上がらないままだった。
別に、ジュリアンとの婚約解消がショックだった訳ではない。
むしろあの彼と分かり合えないままに一生過ごさなくて良いと思うと、正直に言ってしまうと嬉しかった。お互いにとって良いことだとも思う。
婚約解消が整い、一番の懸念事項は次の婚約者だ。
けれど、この国での貴族令嬢は普通十五でデビューを済ませると、それから開かれる夜会への参加を重ね求婚者達を吟味し、その中から家にとって一番好ましいと思える人物と婚約をする。
十八で成人し、結婚準備に入り二十までに結婚式をあげるのが一連の通例の流れだ。
ティタニアは求婚者を募ろうにも、三年間も無意味な時を過ごしていたことになる。
ジュリアンと婚約しそれを解消したということは、決して消せない過去だ。
出会いを求めて夜会に出れば、必ず色眼鏡で見られてしまうだろう。
世の中には噂に惑わされるようなそういう人たちだけではないことはわかってはいるが、どれだけの数の出会いを繰り返せば、そういった人に巡り会えるのかも、わからない。
もちろん、この前に好きだと言ってくれたスノウを期待している気持ちもある。
だが、自分からあんな風に拒絶してしまった手前、どんな風に彼との関係をはじめれば良いかは、ティタニアにはわからなかった。
◇◆◇
薄暗い朝早い時間に出発し、スノウとユージンのいつもの掛け合いに笑いながら、馬車に揺られて昼過ぎにはもう既に目的地の港町へと入っていた。
晴れた日に見たその街ネブラアートは、それぞれの家にある色とりどりの鮮やかな屋根の色が特徴的だ。
潮の香りがして、抜ける風も水分を多く含んでいるのか、どこか重たい気もした。
先に降車したスノウの手を借りて、馬車を降りたティタニアは、その時自分の視界に飛び込んできたものが、どうしても信じられなくて、まさかと目を見張った。
あれは、何年も前に出て行った母に良く似た人だ。
彼女は面差しのよく似たちいさな子どもと一緒に居て、笑顔だった。
「ティタニア?」
中途半端な姿勢で固まったティタニアの手を握ったままのスノウは、不思議そうな顔をしている。歩いていた彼らは、瞬く間にどこかに行ってしまった。
(嘘でしょう。まさか、こんなところで)
スノウの問いかけに首を横に振って、ティタニアは笑った。
「……ごめんなさい。ちょっとだけ馬車の揺れに酔ってしまったみたい」
その言葉を聞いて二人は顔を見合わせると、とにかく滞在を予定していた宿屋に部屋を取ろうと慌てて動き出した。
手続きを済ませ、部屋へと案内された。
いかにも上流階級の女性客向けの可愛らしい調度で整えられたその部屋は、通常の状態なら飛び上がって喜んで良いほどの高揚感を与えてくれただろう。
けれど、静かに美しいレースが垂らされた天蓋付きのベッドに腰掛けたティタニアは、沈む心に追い討ちをかけるような、さっきの出来事を思い出していた。
(きっとあれはお母様……だったんだよね、とても他人の空似とは思えないくらいあの人は、すごく似ていた。私たちをいきなり捨てて、つらい思いをさせて。失敗して、結局幸せにならなかったら良いのにって……きっとどこかで思っていたんだ。お母さまにだって、誰にだって、幸せになる権利はあるはずなのに。なんて……ひどいことを思ってしまったの)
「ティタニア。気分はどうだ?」
気がつけば、スノウが遠慮がちに扉を開けて顔を出している。
育ちの良い彼がノックをしなかったとは考えられないから、部屋の中にいるはずのティタニアからの応答がなくて心配になって様子を伺っているようだ。
そして、黙ったままぽろぽろと涙をこぼしているティタニアを見て、慌てて近くへとやって来た。
「どうしたんだ? 何があった? ……俺に話せることなら、話して欲しい」
座ったまま俯いてしまったティタニアの前に跪き、彼は優しくそう言った。
嗚咽を漏らして涙を流しているのを焦らすことなく、大きな手で背中を撫でた。
長い時間をかけてようやく波立っていた心を落ち着かせると、スノウの青灰色の目を見つめた。
その中にある光は憐れみでも同情でもない、勘違いや見間違いでないとしたなら、ただただ愛しいとそう叫んでいるかのようだった。
「……私の事、バカみたいだと思う? あんなこと言って大見得を切って、貴方の気持ちを拒んだのに、あのジュリアンのことをどうしても、我慢出来なかった。あんな人とこの先も一緒に居るくらいなら、もうどうなんでも良い。家のことも領民のこともどうなっても良いと、思ってしまったの。貴族の娘として失格だわ」
しゃくりをあげながらもうまく発音できなくてつっかえながら、ティタニアは言った。
「この俺が、そういう意味でティタニアをバカにすることは、絶対にない……それに、あれは明らかに盗みで犯罪だ。婚約者だからといって、絶対に我慢すべきことではないだろう。あんな奴のために、今までティタニアがどれだけ我慢したかを思うと、本当につらい。失格だなんて思わなくて良い。事情を知れば誰だって理解してくれるだろう。お前には何の非もないよ」
「それでも……! それでも、きっと私は我慢すべきだった。彼と結婚すれば、ストレイチー家との繋がりが得られるもの。私たちのような爵位を与えられたばかりの新興貴族にとって、それは喉から手が出る程欲しいものなの。きっとお父さまだって、口には出さないけれど、がっかりしているはずだわ」
珍しく声を荒げて、目の前のスノウに言い募るティタニアだって、わかっていた。
この前の事に何の責任もなく、ただ泣いている自分を気遣ってくれるだけの彼に、こんな言葉に出来ない気持ちをぶつけても仕方ないことは、ちゃんとわかっていた。
けれど、目の前に居るスノウだけが、彼だけが、こんな自分のことを受け止めてくれるということにも、いつしか気がついていた。
「いや? 俺から見ると、そんなことは絶対にないと思う。イグレシアス伯爵は、娘のティタニアの気持ちを大事にしてくれる良いお父さんだと思うよ。けど、ティタニアは苦労しているお父さんのために、ずっと一人で耐えてきたんだな……俺は、何年も自分のことだけで、精一杯になっていた。今では、それを本当に後悔している。お前が誰かのものになったとしても、傍にいて支えてあげるべきだった。つらい時に居てあげたかった……それが出来なかった。本当にごめん」
「スノウ様……」
「今までのつらかったことは、これからやってくる幸せを感じるためのものだと、そう思えば良い。誰もが常に幸せであれば自分がいま幸せであると、認識することは難しい。そうして、なんでもない幸せが、どれだけ得難いものなのかも。ティタニアは、絶対にこれから愛されて幸せになるよ。他でもない俺にね」
スノウはティタニアの手を取り、騎士が愛を希うように、手の甲に唇を寄せた。
「あいつが根から腐った屑なのは、あれを知っている皆が知っていたよ。ティタニアも、それはわかっていたことだろう……今までつらかったよな。でも、これからは傍に居るから。すぐには決断出来ないかもしれないけど、俺とのことを考えて欲しい」
ゆっくりと頷くと何も言わずに、大きな体で包むように抱きしめてくれた。
「さっきね……」
スノウの大きな肩に頭を乗せて話出すと、彼は黙ったまま頭の上にキスをして、ティタニアの言葉を待った。
「お母さまに……似た人を見たの。すごく幸せそうだった。私、私たちを捨てたあの人が、どこかでつらい思いをしていれば良いと思っていた。そういうことを望んでいた自分がすごく、嫌で……」
それを聞いた彼は、喉を鳴らして笑った。
むっとしたティタニアが彼の方を向くと、スノウも間近で顔を向けて、優しく笑った。
「ティタニアは、本当に真面目なんだな。そんなことは誰でも、普通に思うだろう。聖人君子でもあるまいし、自分につらい思いをさせた人間がいつか嫌な思いをすれば良いと思うことは、思い詰めるほどにいけないことなのか? ……それに、傍目から幸せそうに見えたからと言って、その人が本当に幸せかは、聞いてみないとわからないよ」
寂しげにそう言ったスノウはどこか苦しそうだ。
ティタニアが、自分が幸せだとそう周囲に見栄を張りたかったその日、彼はティタニアが幸せなら自分は身を引こう、とそう決意したはずなのだ。
そのことを気がつくと胸がギュッとして、ティタニアは気がついたら、こう言っていた。
「スノウ……お願い、慰めて」
彼は額同士を擦り付けると、ちゅっとした音をさせて唇にキスをした。
「喜んで」
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