第9話「招待状」

 ティタニアは自分の髪の色に似たミルクの入った紅茶を、じっと見た。


 砂糖を入れてスプーンで撹拌させるようにかき混ぜれば、柔らかな甘い匂いが漂った。


 朝食に出されたサクサクとしたパンは焼き立てだし、果物はティタニアの好きな水蜜桃だ。


 きっと気の良いシェフが幼い頃から知っているティタニアが喜ぶと考え、好物を仕入れてくれたのだろう。


 あんなに良い人が好条件で求愛してくれるのを断るなんて、聞く人が聞けばなんてバカなことをしたというだろう。


 だが、今までそうやって生きてきた考えを曲げて、彼に甘えてしまえば、それはもはやティタニアであるとは言えない。


 そして、もしスノウと愛し合えるなら、対等な関係が良いと思ってしまった。


 それが出来ないならば、ジュリアンとの愛のない結婚でも構わない。


 ただただ彼に寄り掛かることを選ぶのは、ティタニアの中の今まで大切にしてきた部分が許さなかった。


 自らに誇りを持ち、それを曲げないことは、愚かで、効率的な生き方とは言えないかもしれない。


 だが、それがなければティタニアは、今まで背筋を伸ばして生きられなかった。


 貴族令嬢として、父カールの娘として、そうしてティタニアという一人の女の子として。


 どうしてあの時、幸せそうに笑っていたのか、とスノウは聞いた。


 それは何故なのか。


 周囲に幸せそうだと見られたかったからだ。


 母親は幼い頃にいなくなり、急にその両腕に重荷を持った。


 社交界デビューの時には、もう自分を嫌っている婚約者といつか結婚しなければならないとわかっていた。


 そう、そんな時にも、ティタニアは幸せで笑顔で居ると、見られたかったのだ。


 それがある方向から見ると、とても無意味なことだとしても。


「ティタニア」


 父カールの呼びかけにテーブルの上のティーカップの中身をじっと見たままだったティタニアは顔を上げた。


 気遣わしく心配そうな視線を向ける彼に、いつものような笑顔を向ける。


「お父様、どうしたの」


「そろそろティタニアの誕生日だろう。今年は成人する特別な歳だからね。出来るだけ盛大にしたい。もうそろそろお友達に招待状を送っても良いんじゃないか」


 とても余裕があるとは言えない財政状況なのは、ティタニアにもわかってはいた。


 だが、貴族としての対外的な評判の問題もある。跡取りである一人娘の誕生日も祝えないのかと侮られ、あのイグレシアス家には今金銭的な余裕ないらしいと思われて、何ひとつ良いことはないからだ。


 ティタニアは近隣に住む親交のある友人たちの顔を思い浮かべ、微笑みながら頷いた。


 そんな娘を見て、カールはやっと安心したようにほっと息をつく。そして少し躊躇う様子で何かを言いかけているかのようだ。


「なあに、お父様。まだ言いたいことあるの?」


「……成人になると言えば、ティタニアとジュリアンの結婚準備についてもそろそろ考えねばならないだろう。本当に良いのかい? イグレシアス家の財政については、仕事を手伝っているお前が一番知っているだろうが、お金なら心配しなくて良いんだよ。どこかに借りて、いつか返せば良い……使ったらまた稼げば良い。そんなことは、どうとでもなるんだ。私はティタニアの気持ちが一番大事なんだよ」


 カールは、ジュリアンがあんな状態になってしまってから、何度も何度も、ティタニアに聞いていた。


 それで良いのか、後悔はないのか、と。


 だから、いつもと同じようにティタニアは返事をした。


「もちろんよ。お父様。貴族間の結婚なんて、政略婚が当たり前だもの。私の場合は、まだ年齢が近くて……容姿も良いジュリアンで、まだ良かったとも言えるわ。性格は確かに合わないけれど、結婚して長い間一緒に居れば……きっとわかってくれるはずよ」


 それは望みの少ない、希望的観測だった。


 それを言ったティタニアにも、そしてなんとも言えない顔をしているカールにもそれはわかっていた。


 貴族なのだから、政略婚は免れない。責務であり、求められている役割なのだ。


 ジュリアンの実家、ストレイチー家は力を持っている貴族だ。直接的な繋がりが持てれば「あの家と繋がりがある」という信頼性をも得ることが出来る。


 そうすれば、元は商人であったカールが孤軍奮闘して頑張っている領地経営にも希望の光が差すかもしれない。


 ティタニアは、これまで自分が最善だと選んできた自分の進むべき道を変えるつもりはなかった。


「……そうだ。プリスコットの二人にも誕生日パーティに来てもらったら良いんじゃないか? この前まで華やかな王都で暮らしていたから、こういうパーティには行き飽きているかもしれないけどね。せっかくだから誘ってみたらどうだい?」


 この前に晩餐を共にして以来、カールはスノウとユージンの二人をいたく気に入っている様子だ。


 礼儀正しくいかにも育ちの良さそうな青年達は、どんな世代からの好感度も高そうだ。


 良い考えだとにこにこしている父に、この前ティタニアとスノウとの間にあったことを言う訳にもいかない。


 それを知れば、カールはきっとスノウの事を勧めるだろう。お金のことはなんとでもなると言うだろう。


 彼と現在の婚約者であるジュリアンを比較してしまうと、雲泥の差がある。


 性質的な問題もあるだろうが、能力差もある。


 スノウは王に仕える騎士達の中でも、精鋭中の精鋭である魔騎兵であったのだ。きっと騎士学校でも優秀であったはずで、領地経営の勉強にも身の入らないジュリアンと比べるべくもない。


(お父様はスノウ様をとても気に入っている……私がお金のことを理由に、求愛を断ったことを知れば、悲しむかも知れない。これから彼らの前でどう振舞えば、一番良いんだろう)


 ティタニアは複雑な思いで、ゆっくりと笑顔で頷いた。



◇◆◇



 遊学中であるスノウとユージンが滞在している部屋は、城館の主カールの贔屓もあるだろうが、一番良い客室だ。立派な濃茶色の大きな扉の前でティタニアは深呼吸してから、二回扉を叩いた。


「……はい? ティタニア様。呼んで頂けたらこちらから、出向きましたのに。どうかなさいましたか?」


 扉の前に居たティタニアを見たユージンは、慌てて扉を開けてくれた。


 部屋の中へと招くようにして、彼は身体の向きを変える。そうして応接用に置いてあるソファに導いた。


 奥の部屋に居たスノウもやってきて、無表情のままでティタニアが座った前の一人掛けのソファに座った。


 ティタニアは持ってきた招待状をそっとテーブルの上に置きながら言った。


「仕事終わりでお疲れのところ、いきなり来てしまってごめんなさい。あの、実はお二人に私の誕生日パーティに来てほしくて」


「行く」


 ティタニアが本題を言い終わる前に、スノウはその掠れたようにも思える低い声で言った。


 間髪を入れぬ勢いに面を食らったティタニアは、ぱちぱちと目を瞬かせた。


 ユージンはそんな従兄弟の頭を拳で小突き、その隣に座ってティタニアに微笑んだ。


「本当に礼儀知らずで、申し訳ありません。もちろん喜んで参加させて頂きます。すごく楽しみにしていますね」


 ユージンはそう言って、恭しく招待状を受け取ってくれた。


 その場で開いて、日時などを確認しているようだ。スノウはそれを覗き見て、むっとした口調で言った。


「なんで、もっと早く言ってくれなかったんだ。贈り物の用意が間に合わない。ユージン、この辺りの宝石店を調べておいてくれ」


「あ、あのっ、大丈夫です。そういうのも、気にしなくて構いません。来て頂けるだけで嬉しいので」


 胸の前で手を振り、首を振ったティタニアにスノウは静かな口調で言った。


「……婚約者の居る好きな女に何か物を贈れる機会なんて、そうそうないんだ。もし要らないなら、捨ててくれ」


「スノウ様……」


 彼がくれた物に、そんなこと出来るはずがない。でも、身につけることもきっと出来ない。


 ジュリアンと結婚してしまった後で、真っ直ぐに愛を伝えてくれる彼を思い出せば、辛くなることは目に見えていた。


「お前に拒否されたくらいで諦められるなら、もうとうの昔に諦めている」


 そう切なそうに言ったスノウを見て、どうしても、その手を取って慰めてあげたいと思ってしまうのだ。


 自分の今立っている立場など、すべて、忘れて。


 ユージンが気まずそうにこほんと咳払いをして、ティタニアは慌ててスノウと見つめ合っていた視線を彼に向けた。


 片目を閉じて、悪戯っぽく微笑んだユージンは首を傾げた。


「いえ。邪魔をして、すみません。いっそこのまま透明人間になって消えたいくらいだったんですけど、流石にそういう訳にもいかなかったので……ティタニア様は、婚約者の方と参加されるんですか?」


 ジュリアンはティタニアのこういう個人的なお祝いの場には出たことはなかった。


 聡いユージンには、そういった流れも見抜かれていることを感じてティタニアは苦笑した。


「……ジュリアンは、いつもこういう時には、急用が出来るので」


 ティタニアのその言葉にスノウは眉を顰め、その答えを予想済みだったユージンはにこっと微笑んだ。


「そうか。急用ならば仕方ないですね。そういう状況であれば、主役であるティタニア様のエスコートを誰がやっても、仕方ないですよね? うちのスノウはいかがですか? 今まで一途過ぎて慣れる隙間がなかったため、少し女性の機微にうとい鈍感なところもあるかも知れませんが、問題がある程ではありません。一応辺境伯子息としての礼儀作法や、その場での振る舞いも心得ています。ティタニア様の隣に居ても、恥はかかせないと思います」


 ユージンはティタニアに対して本格的に隣に座っている従兄弟の売り込みをかけはじめたようだった。


 彼からティタニアが求愛を断ったことも、きっと聞いているのだろう。


 その言葉に戸惑いながらも、ティタニアは言葉を返す。


「いいえ。大丈夫です。関係を誤解されてしまうもの」


「……どう誤解されるんだ」


 スノウは本当に不思議そうに聞いた。


「いえ。その……私と何か関係があるのかと……今まで、プリスコット家と何の繋がりもありませんでしたし、領地運営で何か交流があった訳でもない。きっと二人の関係を変に勘繰られる可能性があります」


 貴族は腹の探り合うのが主な仕事で、こういうパーティのような社交場は水面下で火花を散らす情報戦だ。


 スノウのような、いかにも美形で目立ち家格も高い男性が、婚約済とはいえ適齢期の令嬢であるティタニアの傍に居れば誤解を生むのは必至だった。


「それの、何か問題あるのか」


「あの?」


「あの屑な婚約者よりかは、俺の方がましだと思うが。それとも、俺がエスコートすることに、何か問題でも?」


 真摯な視線と共に発せられたその言葉に、どう返事したものかと困って言葉を詰まらせたティタニアにユージンは助け船を出した。


「はーい、スノウ。そこまで。ハウス。ティタニア様は、明らかに困ってるからね。どう考えても今は引くところだからね。目立つスノウがもしお嫌なら、僕でも大丈夫ですよ。もし一緒に居るはずのパートナーが来れなくなったのなら、ご自分が主役のパーティの時のエスコート役くらい、ティタニア様が選ばれても良いんじゃないかなって、そう思っただけなので。もし必要ならば、いつでもおっしゃってください」


 そう言って微笑んだ可愛らしい顔をした美形のユージンが隣に居ても同じことだとは思うが、気を使ってそう言ってくれたのがよく分かっているティタニアは彼にほっとした笑顔で笑い返した。

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