第8話「ごめんなさい。」

 持つ者の貴族令嬢として義務のひとつである救済院の慰問の帰り道。


 ティタニアは、馬車の中から窓の外を見て考え事をしていた。


 青々とした緑だ。もうそろそろ、赤く色付いていくのだろうか。


 ノーサム地方は気難しい妖精が住む、大きな森が広がっている。この地方での主要産業は林業や農業だ。


 有能な領主である父カールは作物の生産量を増やすために専門家を招いて土壌を改良したり、色々と努力を重ねているようだ。


 だが、努力の結果が出るのは、年単位で先の話だ。


 先のイグレシアス伯爵であり、大商人と言われた祖父のジェームス・イグレシアスが遺した遺産は、莫大なものであった。


 だが、領地を襲った数年に及ぶ飢饉で、領民を飢えから救うために、現領主カールは私財を投げ打った。


 おかげで餓死する者はいなかったが、危機を凌いだとしても、あまり豊かとは言えないノーサム地方の経営は思わしくなかった。


(もし、なんて思っては、いけない。過去は変わらないし、戻れないもの)


 そうティタニアに教えてくれたのは、幼い頃から母がいなくて貴族令嬢として生きていく上での、すべてのことを教えてくれた家庭教師ロザリアだ。


 元々は貴族の未亡人であったが、そのままどこかの後妻に入ることを良しとせずに、自分の意思でたった一人生きるための職業婦人として家庭教師を選んだ誇り高い人だ。


 カールがこの人ならと見込んで、王都でも人気ある彼女に頼み込んで、ティタニアにつけてくれた。


 母がいなくなった後、泣いてばかりいたティタニアに、生きていくための考え方や、貴族としての礼儀作法を授け、何も出来ない子どもから貴族令嬢と呼ばれるまでに、育ててくれたのはロザリアだ。


(……彼女は、今どこで何をしているのかしら)


 あの人は言っていた。


「いつも笑顔でいなさい。貴族の一人である貴女は良くも悪くも常に注目されることになる。その時どんな状況にあったとしても、あの人は可哀想な不幸な人と思われて良いことは何ひとつないわ。貴女は周囲に心配をかけて、自分勝手な態度で気を使われて、それで満足を感じる人なのかしら。揺るがない自分を持ち、誇り高く生きるのは、頼るべきものが少ない貴方にとって、きっと大事なことよ」


 名前も知らない誰かに哀れまれたくなど、絶対になかった。


 だから、自分を嫌うジュリアンの隣に居ても笑っていたのだ。


 なによりも、自分のために。



 馬車に揺られて物想いに耽っていたティタニアの耳に、いきなり騒がしくなってきた周囲の音が飛び込んできた。


(……馬の蹄の音?)


 馬車の後方から、いくつもの荒々しい音が聞こえてきた。


 何人もの男性の怒鳴るような声がして、馬車が急停車した。


 前方で手綱を握っているはずの御者が悲鳴を上げたのが聞こえた。


 数瞬後、いきなり馬車の扉を開けられ、ティタニアは腕を捕まれて、引きずり出されそうになった。


「……おい、早く出ろよ。こっちはさっさと終わらせたいんだ」


 それを言った男の冷酷な顔をティタニアは動揺することなく、静かに見返した。


 ドレスの中にある「万が一のために持たされているナイフ」をぎゅっと握りしめた。


 これを使うのならば、縛られていない今早い方が良い。


(お父様、ごめんなさい。でも、誘拐されるくらいならここで……)


 覚悟を決めようとしたその時、やはりまたいくつもの悲鳴が響き渡る。


 続けて聞こえる恐ろしい獣の唸り声。


 ティタニアの腕を掴んでいた男はチッと舌打ちをすると、素早く身を翻して森の方へ単身逃げて行った。


 今ある状況を把握するのが早い。きっと優秀な裏稼業の人間なのだろう。


 妙な事に感心したティタニアは、扉を閉めてほっと息をついた。


 わざわざ窓から外を確認しなくても、なんとなく状況はわかっていた。


 獣人であるスノウとユージンの二人が救いに来てくれたのだ。


 その予想通り、扉が遠慮がちに静かに開いた。


「……ティタニア……? 大丈夫か?」


 馬車の扉から大きな体を折って覗き込み、眉を顰めているのはスノウだ。


 彼は上半身裸なのは、きっと獣化してここまで来てくれたのだろう。


「スノウ様。ありがとうございます」


 頭を下げたティタニアの肩に手を当てて、中途半端な体勢になっていた彼女を席へと座らせると、スノウは自分も前の席に腰掛けた。


 安心させるように静かに微笑み、膝の上で手を組んだ。


「……襲ってきた連中も、事情を聞くために生かして連れて帰るから、ユージンがもう少しで騎士団の連中を連れて来る。俺が君だけを乗せて連れて帰っても良いんだけど、辺りは暗くなってきたし、これ以上怖い思いはさせたくないから」


 スノウは、馬車の窓の外を見た。


 彼が乗せて帰ってくれるというのは、あの真っ白な豹の背中に乗るという事だろうか。


 それは読書の好きなティタニアにとって、かなり魅力的な申し出ではあった。まるで、冒険譚の主人公のようではないか。


 けれど、普通の貴族令嬢はそんなことを異性に対し言ったりしない。


 そのことをきちんとわかっているティタニアは、思っていることをおくびにも出さずにしんとした馬車の空気の中、スノウの真剣な顔を見ていた。


「……昨日、お茶会の時、最初に俺たちに何か言いかけていただろう。なんか、下品な笑い声に邪魔されて聞けなかった。あれってなんだったんだ?」


 少し不貞腐れたような表情で、彼は言った。


 もしかすると、あれから、その事をずっと気にしてくれていたのだろうか。あんな、ほんの大したことのない事を。


 その事実にティタニアは笑顔になり、スノウにあの時、聞きたかったことを聞いた。


「あの、私たち、どこかで会ったことある? ……勘違いだったらごめんなさい。でも、スノウ様は私のことを知っているように思えたから」


 スノウは、ゆっくりと首を横に振った。


 彼ははあっと下を向いて大きなため息をついた後に、もう一度ティタニアの顔を真っ直ぐに見た。


「俺が、ティタニアを一方的に見つけただけ。一目惚れみたいなものなんだ。だから、俺の事をティタニアが知らないのは当たり前だ」


「……いつの事?」


 何度か必要あって王都での夜会に出てはいるものの、ティタニアが出席したものに有名なプリスコットの三兄弟は居なかったはずだ。


 どんなに大きな会場だとしても、その中で一際、彼や彼の兄弟は目立つだろうと思った。


「三年前のティタニアの社交界デビューの時に……お前はあの塵の隣にいた」


「そう……」


 それならば、仕方ない。


 社交界デビューの時は、とにかく緊張していたし、周囲を窺うなんて到底無理だった。自分なりにだいぶ無理をしていたから、良く覚えていた。


「どうして、あの時の笑顔じゃないんだ。どうして、今幸せそうじゃない? 俺はお前のためだと思って、すごく我慢したのに」


「……えっと、ごめんなさい?」


 その血を吐くような声音で発せられた疑問に、ティタニアは思わず謝ってしまった。


 幸せそうに見えないから、こちらが謝るというのも、おかしな話だが。


 それを聞いて、スノウはふっと笑い、そして、真剣な顔でティタニアに言った。


「ティタニア。俺はお前が好きだ。ティタニアを悩ませているものは、俺が全部なんとかすると誓う。時間はかかるかもしれないが、必ずそうする。だから、どうか俺のものになってくれないか。守りたいんだ。そう出来る権利が欲しい」


 スノウの視線はまっすぐで、今まで見た人となりを考えても、嘘を言っているようには見えなかった。


「……貴方のような素敵な人にそう言って貰えて本当に嬉しい。ありがとう。でも、ごめんなさい」


「どうして、ティタニア。あんな、あんな仕打ちをされてもまだ、義理立てする必要なんて……」


 スノウは全く理解できないと言った様子で、顔を歪め眉を寄せた。


 そんな顔をしていても、彼は魅力的な容貌をしている。本当に、神様は不公平だ。


「そうね、でもダメなの。ごめんなさい。義理立てしているわけではないわ。私がこのまま婚約者のジュリアンと結婚しないと、本来なら出さなくて良いたくさんのお金がかかってしまうの」


「そんなの! 俺が、俺が絶対になんとかする。一時的に親に借りてでも、なんとかして。だから」


「……ごめんなさい。そうやってあなたにも、貴方の親御さんにも、迷惑をかけたくないの。私が嫌なの」


 泣きたくはなかった。


 でも気を抜いたら、目から涙が溢れ落ちそうだった。


 ティタニアは目の前の彼にだけは、みっともないところを欠片も見せたくはなかった。


「なんで……なんで、そんなこと言うんだよ。俺は、お前の、ティタニアのためならなんでも……なんでもするのに」


 スノウは肩を落として、本当に辛そうに言った。


 この彼を拒絶の言葉で傷つけるのは、ティタニアも辛かった。


 今すぐ、手を取って肩を抱いて慰めてあげたかった。けれど、それは叶わぬことだ。


 彼の言葉に応えられないティタニアには今こう言うしかなかった。


「スノウ様には、きっと私がただ意地をはっていると思われるかもしれない。けれど、そういう矜恃がないと、今まで生きてこられなかった。それが、私なの。ただただ、今好きだと言ってくれる貴方に甘えて、自分だけでは処理出来ない面倒なことをすべてを押し付けて、誰かに助けて貰いたい訳ではないの」


 こんなことを、彼に言いたくなかった。


 けれど、ティタニアには、真剣に告白をしてくれた彼にきちんと説明して、どうしても言わなければいけないことだ。


「だから、ごめんなさい」

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