第2話「嵐の予感」

 さざなみのような葉擦れの音が響いた。


 どこからともなく届く雨の匂いと強い風の気配を感じ、ティタニアは自室の窓の外を見て、段々と灰色に曇ってきた空を認めると眉を寄せた。


 ティタニアの父、イグレシアス伯爵カール・イグレシアスがユンカナン国王より統治を任されたノーサム地方には、この時期、激しい嵐が良く来る。


 傍若無人に鳴り響く雷の音や、滝のように流れるひどい雨に降り込められる感覚が好きではないティタニアは、天候だけはどうにもし難いとわかってはいても、我慢できずにため息をついてしまう。


 新緑の森に周囲を包まれた美しい城館に住むことには、何の不満はない。


 けれど避けることは出来ない暗雲がやって来ると、嫌な過去の出来事を思い出し、本能的な不快感が出てしまうせいか、どうにも眠りが浅くなり気分良く過ごせない。


 嵐の予感には、どうしても憂鬱になってしまう。


 イグレシアス伯爵が居城とするこの城館の近くには、いくつもの巨木がある。


 大昔、この地方を治めていた領主を、大変気難しいと言われている森の妖精が珍しく祝福したことがあるからだと伝えられている。


 そんな伝説のような噂も、まことしやかに囁かれるくらい、その一本一本が森の主だと言われても不思議ではない巨木群だ。


 ティタニアはその中の大きな木のひとつに、まるで猫のような軽やかな動きで枝と枝を渡っていくふたつの白い影を見つけ、気心の知れた侍女のミアに興奮した声をかけた。


「……ミア! 白い、白い大きな猫が居るわ。二匹もよ!」


 ミアはティタニアの侍女になって長く、主従関係ではある。


 けれど、母と幼い頃に生き別れたティタニアにとっては、最も距離の近い同性と言っても良い。


 黙々と先ほど飲んでいたお茶の片付けをしていた彼女は、子供のようにはしゃいで外を指差しているティタニアの隣まで来ると、窓の外を見てくすっと笑った。


「お嬢様。あれはきっと、プリスコット辺境伯のご令息とその従兄弟様ですわ。先日王都に出仕した旦那様を捕まえて、イグレシアス家の持つ私設騎士団に遊学させて欲しいと直談判をして頼み込んで来たらしいですよ」


 その言葉を聞いて、ティタニアはいぶかしげな顔になってしまう。


 プリスコット辺境伯といえば、このイグレシアス伯爵家よりかなり格上の家格を持ち、建国時から続く貴族でその歴史も長い。


 国防への献身的な貢献を讃えられ、王家より様々な特権や権限を許されている高位貴族だ。


 しかも、獣人という特殊な種族で、強靭な身体と桁外れの戦闘力を持つ彼らには異名があった。


「どうして……番犬。いいえ。プリスコット辺境伯のご子息が、こんな田舎に遊学するの?」


 この国の最北辺境を、何故かその雪山で湧きやすい高位の魔物達から守るプリスコット辺境伯は『番犬』と呼ばれていた。


 それはユンカナン国の王家に建国時より仕え、様々な脅威からこの国を守る三人の獣人辺境伯を、三匹の犬となぞらえ、そう呼ばれているからだ。


 けれど、誇り高い豹の獣人一族である彼らにとって、それはあまり好ましい名誉な二つ名であるとは言い難い。


 だから、当の本人である彼らに聞こえていないとは分かってはいても、ティタニアは慌てて言い直した。


「……さあ、どうしてでしょうね。ご令息とはいえ、プリスコット家の三男坊らしいですし、責任のないおぼっちゃまの気まぐれでしょうか」


 ミアはそう淡々と言って、窓から離れて片付けへと戻る。


 ティタニアはそんなミアの素っ気ない態度に口を尖らせたが、確かにその疑問を解決するには、彼らに直接聞いてみるしかないだろう。


 あまり口数の多い方ではないミアは、噂に基づく予想のような意味のない会話を延々と続けることは好まないのだ。


「……あんなに真っ白な服を着て、汚れが目立たないのかしら。すぐに汚れちゃうわ」


 じゃれ合うように巨木の上の方に上がっていくその姿は、あまりに素早い。


 先ほどは大きな猫のようにも見えたが、実は白い服を着た二人の男性だということはすぐに知れた。


 彼らは遠目から見ても体格が良い。背が高く、そして手足が長い。


「彼らの住む北の方は、雪が降り積もる白銀の世界ですからね。きっと服が白い方が、目立たないんですよ」


 ミアの言葉に、なるほどとティタニアは納得した。


 一面真っ白の世界ならきっと白い服の方が、その景色の中に溶け込むことも出来る。魔物との戦闘を生業とする騎士なら、それは一番に大事なことではないだろうか。


 正々堂々とした決闘など、先方は望むはずもないのだから。


(そうか。彼らは本来雪が降る地方にいるから、あの色なんだ。雪の白に擬態することが出来るから、騎士服も白いのね)


 プリスコット辺境伯は普通の金毛の豹ではなく、白金の毛皮を持つ雪豹の獣人だったということを思い出したティタニアは、やっと腰を落ち着けたのか、かなりの高さの枝に無防備に座っている二人の青年を見た。


「でも、ここでは飛び抜けるほど目立つわね。緑と茶の世界に白は、とても眩しいわ……きっと、変わった人なのね」


 イグレシアス家は世界に名だたる大商人だった祖父ジェームス・イグレシアスが、図らずも国へと大きく貢献した功績を認められ、元々は長く王直轄地となっていた領地ノーサム地方と爵位を与えられたばかりだ。


 その歴史はとても浅く、今はとある理由から人目を引くような財産を持っているとは言い難い。いわゆる絵に描いたような、文字通りの成り上がりだ。


 最先端のものが集まる王都で、高位貴族の子息としての最高の教育を受けているだろう彼らが学ぶべきものなど、ここには何もないように思うのだが。


 唯一の例外が世界を相手にしていた商人であった祖父ジェームスの個人資産から直接愛する孫娘のティタニアへと、いずれ所有権が移る金緑石の鉱山だ。


 だが、どんな条件の良い貴族令嬢との縁談でも望める王家の信頼厚いプリスコット家のご子息がわざわざこんな田舎まで出向いて手に入れたいと望むようなものでもないだろう。


「気になります?」


 午後のお茶の時間で使われたテーブルを綺麗に片付けて終わると、ミアは意味ありげに微笑んだ。


 色恋事で心ときめかせる年頃の令嬢であるはずのティタニアが異性に興味を惹かれるということは、彼女の知る限り、今まで一度もなかったからだ。


 主従とはいえ付き合いも長く気安い仲だし、揶揄いたくもなったのだろう。


「そうね……プリスコット辺境伯の三兄弟といえば、王都での噂は美男揃いで有名だったものね。気にならないと言えば嘘になるけど、でも」


 箱入りでもう既に婚約者の居るティタニアも、社交期にはこの国の貴族としてどうしても出席せねばならない舞踏会などのため、王都に赴く時もある。


 そういう場で、今代の『番犬』の息子たち三兄弟の噂は良く聞いた。


 なんでも彼らの父親が必死で口説き落としたという絶世の美女と呼ばれた貴族令嬢が、その三兄弟の母親なので顔貌が美しいのは単なる遺伝で何もおかしなことではない。


 美麗な容姿を持ち将来有望な彼らが、若い令嬢達の噂の的になるのも。


 時折しなる巨木の枝の上に、不安定な何気ない格好で居る二人が気になって、ティタニアは彼らをじっと見つめてしまった。


 段々と強くなってきた風に枝を揺らされて、彼らが落ちてしまわないか心配になった。


 けれど、あの高さまで到達するほどの身体能力を持っているのだから、そうなったとしてもきっとどうにかなるのだろうか。


「……ティタニア様。貴女はお若いんですから、たまには魅力的な異性に心揺らされるくらい……良いんじゃないですか。何も不貞を働く訳でもありませんし、ほんとに真面目すぎますよ」


 ミアは言い難そうに言った。彼女はいつもティタニアを心配してくれる。


 それは真面目すぎて不器用な妹を、見るような気持ちなのだろうと思った。


「大丈夫よ。私は……幼い頃からの婚約者が居る、売約済みの貴族令嬢。ちゃんと、自分の立場はわかっているわ」


 もしかしたら婚約者の居る未婚の貴族令嬢なんて、既婚の貴婦人より手を出したら面倒くさい相手であることには間違いない。


 貴族令嬢として嫁ぐためには、結婚初夜まで純潔の証を守らなければならない立場がゆえに、一夜の戯れの相手にもなり得ないのだ。


 少し興味があるからと言って、軽い気持ちで手を出せる存在ではなかった。


 そして、ティタニアは現イグレシアス伯爵カールのただ一人の娘であり、彼自身も一人息子であったため主筋の直系の継承権を持つ者は彼女しかいない。


 そのため、ティタニアと結婚するということは、次期イグレシアス伯爵になるということだ。


 何もないこの緑深き森の中で、けして豊かでなく多いとは言えない領民達の生活を守り背負わなければならない。


 貴族の令嬢として生まれたからには家のための政略結婚は義務であり、それこそが存在価値ですらある。


 自分が今、庶民には決して出来ない裕福な生活が出来ているのは、領民達から集められた税のおかげなのだ。


 自由恋愛が難しいことなど、聡明なティタニアは幼い頃から早々に理解をしていた。


 けれど、本の中で語られるような、燃えるような恋をしてみたいと憧れることは、止められない。


 どんな人だって、心の中だけは大空を飛ぶ鳥のように、自由だ。


「ティタニア様」


 ティタニアはもう、ミアがいつものすべてを諦めたような物言いを咎めるような呼びかけには、答えなかった。


 いや、答えられなかった。巨木の高い木の枝に座っている一人と目が合ったような、なぜかそんな気がしたからだ。


 こちらは窓を覗き込み一方的に外を見ているのに対して、木の上に居る彼は室内にいる人間を認識することは難しいだろう。


 そう思った。そう思ったのに、どうしても、目が離せなくなったのだ。


 こんなに距離があるのに視線が合っていると思うなんて、きっと勘違いだとわかっているのに。


 嵐の訪れを告げる遠雷が、聞こえた。

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