第326話 ヨトゥンヘイム①

 新橋大学付属病院の地下に研究室を持つ医学博士、石井は高橋翔が去っていった事に安堵の表情を浮かべる。


「――ふぅ。ようやく行ったか……しかし、助かった。まさか、あれが上級回復薬で治せるとは……」


 石井が作成した初級回復薬。

 それを点滴しても一向に治る気配のなかったメリーの呪いによる体の不調。

 上級回復薬の投与により、メリーの呪いによる不調を消し去ることができると分かったのは僥倖だ。

 石井としても、ハリーとカイルの両名をこんな状態にする気はなかった。

 あちら側の世界の人間という情報を得たからこそ、試しにカイルをハリーと鉢合わせて見たが、まさかそれに嫉妬したメリーがハリーとカイルの両名に呪いをかけるだなんて想定外もいい所だ。


「――おい。糞爺! 俺を解放しろ! もう十分過ぎる程、研究に参加してやっただろ!」


 そう戯言を吐くカイルの首筋に、石井は注射針を押し当てる。


「いや、まだまだ……すまないが、君にはこれから先も私の研究に付き合って貰うよ」

「――な、何を!? すやぁ……」


 ゲーム世界からの帰還者を研究できる機会など、そうない。

 それに、面白い発見もあった。


 カイルから採取した血液を入れた試験管。

 その中身を注射器で吸い上げ、実験動物用に飼育しているラット(♂)に少量の血液を注入していく。

 すると、ラットの近くに半透明なラットが現れた。


『――キュ!?』


 半透明なラットに怯えた様子を見せる実験用のラットを見て、石井は薄笑いを浮かべる。


「メリー君は呪いの装備、ブラックシリーズに宿っていると聞いていたが……」


 どうやらその認識は間違いだった様だ。

 確かに、先日までモルモットが暮らしていたゲーム世界では、ブラックシリーズなる装備に呪いとしてメリー君が宿っていたのだろう。しかし、この世界ではそうではない様だ。

 事実、ゲーム世界で外す事のできなかった呪いの装備もこちらでは自由に外す事が出来ている。

 その事は、モルモットが病院のパジャマを着ていることから分かるだろう。

 では何故、呪いの装備を外したにも係わらず、モルモットにメリー君が憑いているのか……それは、モルモットの血液に『ヤンデレ少女の呪い』というおかしな名前の呪いが憑いているからに他ならない。

 つまり、現状、呪われているのはモルモットの血液で、その血液を体に注入する事ができれば、誰にでも『ヤンデレ少女の呪い』を受ける事ができる。

 しかし、問題が無い訳ではない。


『ヤンデレ少女の呪い』を受けたラット(♂)のいる箱に、一匹のラット(♀)を解き放つと、しばらくして『ヤンデレ少女の呪い』を受けたラット(♂)が苦しみ始めた。それと同時に、後から入れたラット(♀)も苦しみ始める。


「やはり、変質している様だな……」


 モルモットから聞いた『ヤンデレ少女の呪い』の効果は、女性に触る事、そして、物を自由に購入できなくなる代わりに『ヤンデレ少女の祝福』なる追撃効果を享受できるというもの。

 恐らく、血の量や呪いと過ごした時間の大小により効果が異なるのだろう。

 呪いが装備から血液に移ったのも、呪いの対象を慕うあまりに精神が歪み装備から対象の血液に呪いが移動したと考えれば説明がつく。

 非科学的ではあるが、呪いなどというオカルト的な考えを持つのは人間位のもの。

 そして、ゲームでよくある呪いの装備という概念も人間が作り出したものだ。

 研究を重ねていけば、新たな呪いを作り出す事も可能かも知れない。まあ、オカルト分野は専門外だがな……。


 雌のラットを掴むと『ヤンデレ少女の呪い』を受けた雄のラットから見えぬ様、別のケージに雌のラットを移動させる。


 幸いな事に石井の手元には、二匹のモルモットが存在する。雄のモルモットであるカイルと、雌のモルモットであるハリーの二人だ。

 ハリーに関しては、ゲーム世界からやってきた事が知られている為、長く手元に置いておく事はできない。

 石井の作成した初級回復薬モドキにより一命を取り留め、一時は話せる様になるまで回復したが、現在、『ヤンデレ少女の呪い』の影響を直に受け、昏睡状況にある。

 できるだけ早く回復させ、ハリーを引き渡すよう政府から命令が下っているが、精一杯、時間を引き伸ばすにしても一ヵ月がいい所。

 新橋大学附属病院も国立病院である以上、政府の決定には背けない。嘆かわしい事だ。


「まあ、それだけ時間を引き伸ばす事ができれば御の字か……」


 既に探索研究までは終えている。

 時間は短いが……まあ何とかなるだろう。

 ギリギリまで研究し、いざとなったら、上級回復薬を使えばいい。


「それまでの間、よろしく頼むよ」


 そう言って、意識を失ったカイルの肩を叩くと、石井は楽しそうな表情をマジックミラー越しで苦しむハリーに向けた。


 ◇◆◇


 ここは、スヴァルトアールヴヘイム。

 新橋大学附属病院で諸用を終えた俺こと高橋翔は、新しく解放された世界『ヨトゥンヘイム』に向かう為、転移門『ユグドラシル』の前で装備の確認をしていた。


「さて、ハリーの件は一旦片付いた。そろそろ、新しい世界とやらの攻略を始めるとするか……」


 ハリーには、闇の精霊・ジェイドを見張りとして付けている。

 アース・ブリッジ協会の決算書類の修正は職員とBAコンサルティングから派遣して貰った税理士に任せたし、東京都は東京都でデモ対応に追われ、事業仕分け所ではない筈だ。

 時間もあって暇もある。ならば、俺がやる事は一つだけ。

 新しい世界、巨人の住む氷と霜の世界『ヨトゥンヘイム』の攻略ただ一つだ。

 氷と霜の世界というからには、相当寒いのだろう。

 体には、ユニクロで購入した超極暖ヒートテックを着込み体中にホッカイロを張り付けてある。


 まあ、これだけ準備すれば大丈夫だろう。

 それに俺がゲーム世界で常用しているモブ・フェンリルスーツは、耐熱・耐寒性に優れた装備。暑い時は涼しく、寒い時は常温になるよう設定してある。

 通気性が悪く夏場に地獄を見るご当地キャラの着ぐるみとは訳が違うのだよ。


 ヘルヘイムでは、この機能が付いている事をすっかり忘れていたからな。

 お陰で寒い思いをしたが、思い出したからには、例え、ヨトゥンヘイムが氷と霜の世界だとしても問題ない。


「さて、そろそろ、行くとするか……」


 俺は転移門『ユグドラシル』前でメニューバーを開き、新しく解放された世界『ヨトゥンヘイム』を選択すると、転移門の前で声を上げる。


「転移。ヨトゥンヘイム」


 声を上げると、俺の身体に蒼い光が宿り、新しく解放された世界『ヨトゥンヘイム』へと転移した。


『ヨトゥンヘイム』は、巨人の住む氷と霜の世界。つまり、進〇の巨人に出てくる巨人が住む世界だ。

 氷と霜の世界というだけあって外は極寒。

 モブフェンリル・スーツが無ければ転移してすぐ凍死してもおかしくない寒さだ。


「ここがヨトゥンヘイムか……」


 転移して初めて目に飛び込んできたのは、横並びとなり氷漬けにされた巨人の数々。

 巨人といってもそこまで大きくない様だ。

 精々、三階建ての建物と同じ位、一体だけ異常に大きい個体もあるが、恐らくあれは巨人の中でも特別な個体なのだろう。

 身に付けている装備が違うし、何より風格が違う。まるで……。


「氷漬けにされて尚、生きている様だ……」


 いや、流石にそれはないか……?

 しかし、氷漬けになった巨人達の姿は、威風堂々としている。

 ゲームだと、氷漬けの像が何かをキッカケに動き出すなんてザラだし、ましてや、この世界はつい先日までゲームそのものだった。

 何だか嫌な予感がする。


 ヨトゥンヘイムには、霜の巨人という超人的な力を持つ大自然の精霊集団がいると、wikiに書いてあった。

 もし、この氷漬けにされた巨人達がwikiに書いてあった大自然の精霊集団を指すのであれば、この氷像の中身は死んでいない……それ所か動き出す恐れすらある。


 ここはやはり……。


「――今の内に破壊しておくに限るな……いや、しかし、もしこの氷像がヨトゥンヘイムに住む巨人達の守り神的存在だったり、墓場だったりしたら不味いか……」


 何かあった時、そっと元に戻せる様にアイテムストレージにでも入れておこう。

 そうと決まれば話は早い。


「――フェニックス、氷像の足元を溶かしてくれる?」


 火の上位精霊・フェニックスにそうお願いすると、フェニックスは氷像を傷付けない様、針に糸を通すかのような正確さで、接着面に熱線を通していく。


 素晴らしい。流石はエレメンタルだ。


「ありがとう。お陰で助かったよ」


 条件を満たした時、出現する敵が一番強い。ゲームのお約束だ。

 だが、しかし、この世界はゲームであってゲームでない。ゲーム世界が現実化した世界。

 なら、障害になりそうな物を予め排除しても物語の進行にまったく影響はないだろう。

 もし、影響が出そうであれば、その時になってアイテムストレージから出してやればいい。


 火の上位精霊・フェニックスにペロペロザウルスのゆで卵を渡すと、俺は一体一体、氷像をアイテムストレージに入れていく。


 数分後……。


「うん。サッパリしたな……やっぱり雪山はこうでなくっちゃ」


 ヨトゥンヘイムは、氷と霜で彩られた氷雪地帯。そこに、巨人の形をした氷像なんてあっても怖いだけだ。


「さて、町でも探すか……」


 wikiによるとヨトゥンヘイムを治めているのはスリュムという霜の巨人の王で、どこかに主要都市ウートガルズがあるらしい。

 とりあえず、この雪山を下山しないと……。

 そこまで考え足を止める。


 げ、下山……だと……?


 何が生息しているかも分からない雪山の下山。ヘルやエレメンタルが付いているので死にはしないだろうが危険が伴う。

 何より徒歩での下山は面倒臭い。


 しまったな……こんな事ならスノーモービルを買っておけば良かった。一応、車をアイテムストレージに入れてあるが、流石に障害物の多い雪山を車で滑走する訳にはいかない。走らせてすぐ滑って廃車になる未来が見える。


 さて、どうしたものか……。


「とりあえず、どっちの方向に向かえばいいかだけ確認しとくか……。フェニックス、上から町が見える方向を指し示してくれない?」


 そうお願いすると、フェニックスは宙に舞い、東に向かって火を噴いた。

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