第305話 逆転の一手
「な、何だこれは……」
公表前に第三者委員会が提出してきた調査報告書。
その調査報告書は、週刊誌に書かれた内容と、何の証拠もない被害者による証言のみで構成されていた。
『溝渕エンターテイメントは、溝渕元社長が自身の性的欲求を満たす為に立ち上げた事務所』、『溝渕元社長の毒牙に掛かった被害者は、事務所開業から今に至るまで、数千人に及ぶ』などすべて憶測で書かれている。
これではまるでゴシップ誌だ。
「こんな週刊誌の書いた様な内容の調査報告書を事実と認め補償しろと、本気で言っているのか……?」
「ええ、調査報告書を受け取った私自身も内容を見て驚きました。まさか、この様な事が行われていたとは……悍ましい限りです」
この様な事が行われていたとは??
「野心……お前、まさか本気でそう言っている訳じゃないよな?」
通常、第三者委員会の調査報告書では、調査対象者からの証言を得る事ができなかった場合、事実関係を確認できない事から『推認される』という表現が使われる。にも関わらず、この調査報告書では、『事実と認定した』とはっきり書かれていた。
これは明らかにおかしい。
「そもそも、何故、第三者委員会が被害者の証言を聞いただけで実際にあった事だと事実認定できる? あり得ないだろ……」
「おや、そうですか?」
予めこういった内容の調査報告書が出てくる事を知っていたかの様な態度に視線を向けると、野心はヤレヤレと首を振る。
「……社長はまだ現実が見えていない様ですね。いいですか? 世間にとっては、この調査報告書の内容が事実なのです。お父君がその様な事をする筈ないというのも重々、承知しています。しかし、あの様に公表されてしまった以上、誰かがその責任を取らなければなりません。もし、矢崎を始めとした被害者達が嘘を付いているとして、それをどう証明するのです?」
「そ、それは……」
思考を巡らしても答えが見つからない。
拳を握り締め黙っていると、野心は諭す様に言う。
「証明できないでしょう? 社長のお気持ちもわかります。確かにこの被害者の中には、被害者を装う不届者が混じっているかも知れません。しかし、それを証明した所で意味はない。何故なら矢崎を始めとした所属タレントが性加害に遭っていた事は紛れもない事実なのですから……芸能界に蔓延る噂と相まって、そう信じ込ませるだけの信憑性があの記者会見にはありました。お父君を信じたい気持ちも分かりますが、溝渕エンターテイメントで働くタレントや社員の事を真に考えるのであれば、この調査報告書の内容がどんなに荒唐無稽なものだろうと、真実であったと公表すべきです。これを公表し、被害者達の望む補償をしてやればすべて丸く収まります。勿論、社長の引責辞任と溝渕エンターテイメントの株式譲渡、企業の解体的出直しは必須となりますが……」
「……被害者を装う犯罪者が混じっているかもしれないのに、自分は被害者であると申し立ててくる人の言葉は全て受け入れ、被害者であると認定した上で謝罪し、毎年売上高の五パーセントを矢崎が立ち上げる財団法人に寄付するという荒唐無稽な要求を受け入れろと?」
この国は法治国家。
法に照らせば、この手の賠償金は一人当たり百万円がいい所だ。
毎年売上高の五パーセントを寄付しろだなんて、賠償として有り得ない。
「……社長。お気持ちは分かります。しかし、これは社会の要請なのです。溝渕元社長は稀代の性加害者。世界中に被害者が存在し、溝渕元社長の存在や功績そのものを消し去らなければならない巨悪。分かりますか? 国民がそれを求めているのです。今更、真実なんてどうだっていい。もし第三者委員会の調査報告書を足蹴にし、溝渕元社長の性加害問題など存在しなかった……そんな発表をすれば、永遠にこの問題は終わりませんよ? 被害者にとって納得のいかない補償を提示してもそれは同じ。被害者が納得する金額に到達するまで受取拒否されて問題を長引かせるだけです。火のない所に煙は立ちません。あなたにできる事は、この調査報告書の内容を認め、すべての責任を取り事務所を去る、それ以外にないのですよ。いい加減、大人になりましょう?」
野心はこう言いたいのだろう。
親父が死んでいる以上、矢崎達の言葉が事実かどうか分からない。
だったら死人にすべての責任を擦り付け、被害者の要求をすべて飲んだ上で再出発した方がいい。
ただ、それだけでは、事務所が変わった事をアピールできない。
だから、溝渕エンターテイメントの株式すべてを他人に譲渡し、同族企業の弊害は無くなりました。これからは心機一転、新しい役員体制で頑張りますと、そういう方向に持っていきたい。
しかし、社会の要請だからといって、これが真実か確かめもせず、すべてを受け入れるのは明らかにおかしい。
「――第三者委員会の任務は、公平な第三者として徹底した調査により事実関係を解明、原因及び責任の所在を明らかにし、再発防止策を提言する事にある。公平であるはずの第三者委員会が、溝渕元社長による性加害があった前提で調査している事自体、問題だ。もう一度、一から調査をやり直すよう要請してくれ……。エビデンスなしに一方の意見だけをすべて鵜呑みにしたこの調査報告書を受け入れる事はできない」
第三者委員会の調査をやり直すよう要請すると、野心は心底呆れたという表情を浮かべ立ち上がる。
「……呆れて物も言えませんな。あなたは経営者失格です。これ以上、事務所の名声を傷付ける意味がどこにあるというのです? 加えて、所属タレントや従業員の事を何も考えていない……元社長が性加害を行っていた事を認め、第三者委員会の調査報告書に基づき被害者には法を超えた賠償を行う。それで話はお終いです。再調査は行いません。もう調査報告書の発表期日は決まっています。調査報告書に書かれた事が事実です。いい加減、大人になって下さい」
「――ちょっと待て、まだ話は終わってないぞ!」
そう呼び止めるも、野心の足は止まらない。
「――話はお終いです。調査委員会の報告は一週間後に行います。それまでの間に、自分がどうするべきなのかよくお考えになって下さい。この事務所が今、世間でどの様な認識をされているのかニュースでもよく確認しながらね……」
そう言い残し、社長室から出て行く野心。
「――くっ!」
テレビに視線を向けると、どの番組でも溝渕エンターテインメントの性加害問題を話題にしている。どいつもこいつも、性加害を受けたという被害者の言葉だけを百パーセント信用し、裏取りしようともしない。
中には、被害を受けた人は溝渕エンターテインメントにも多く存在する。その為、事務所に所属していたか否かで賠償するのはおかしい。被害者はすべて救われるべきで、在籍確認をする必要はないし、するべきではないと世論誘導に走るコメンテーターまでいる。
「くそっ……どいつもこいつも勝手な事を……!」
――プルルルルルッ
手に汗を握り、ぎりぎり歯を食い縛っていると、内線が鳴る。
鬱屈とした気分で電話に出ると、BAコンサルティングという企業から第三者委員会のセカンドオピニオンを提供したいと申し出があった旨、受付から伝えられる。
「……なに? 第三者委員会のセカンドオピニオンの申し出?」
第三者委員会のセカンドオピニオンか……考えた事もなかった。
取り次がれた電話に出ると、高橋翔を名乗る男からの電話だった。
話を聞けば、二週間で結果を出し、第三者委員会の調査費用は不要との事だが……。
「一体何が狙いだ?」
そう尋ねると、BAコンサルティングの高橋はこう言った。
『第三者委員会の任務は、公平な第三者として徹底した調査により事実関係を解明、原因及び責任の所在を明らかにし、再発防止策を提言する事にあります。調査報告書の発表期日を見ると、そろそろ受け取られた頃かなと思うのですが……その調査報告書はちゃんとしたエビデンスに基づくものでしたか? 第三者委員会立ち上げのニュースを見た時、溝渕元社長による性加害があった前提で調査すると委員長が言っていました。しかし、それでは事実関係が偏ってしまいます。到底、第三者委員会の委員長の言葉とは思えません。こんな馬鹿げた前例を社会に作らない為にも、弊社に第三者委員会立ち上げの依頼をして欲しいのです。もし弊社に任せて頂けるのであれば、調査費用は不要とさせて頂きます。ただし、その後、発生する係争には一切口を出さないで頂きたい。お願い事はただそれだけです。代わりに、すべての真実を明らかにするとお約束します。契約書に誓ってね』
「そうか……」
しかし、野心が立ち上げた第三者委員会の会見は一週間後。それまでに、報告を纏めなければならない。
「……だが、第三者委員会の報告が一週間後にある。それまでに間に合うだろうか?」
そう尋ねると、高橋は難しそうな声で言う。
『一週間後に開催される会見に合わせた報告は難しいと思います。しかし、第三者委員会の調査報告書を受け事務所が提言を受け入れるかどうか判断するのはまだ先の筈。二週間後に会見を開きましょう。そこまで待って頂ければ必ず結果を出します』
「……そうか」
野心が立ち上げた第三者委員会の会見が一週間後。そこで出た提言を元に会見を開くのはどんなに早くとも二週間はかかる。
どの道、私に後はない。
このまま何もしなければ、親父の名誉は穢されたまま事務所を追い出され一生後悔する事になる。
事務所の資産が正しく被害者の補償に使われるのであれば構わない。だが、このままいけば、そうならないであろう事は明らかだ。
「わかった。しっかりとしたエビデンスに基づく結果であれば、どんな調査報告であれ受け入れよう。公平な調査報告をよろしく頼む……」
『……はい。後ほど、契約書を郵送させて頂きます。ニュースやネット記事を見るに、内部に裏切者がいる可能性が高いですから、本件は極秘で話を進めましょう』
願ったり叶ったりだ。
事務所の百パーセント株主は私が持っている。
偏向報道ばかりするマスコミや、碌な調査もしない第三者委員会の良い様にされてなるものか。
「ああ、よろしく頼む……」
そう言うと、私は受話器を置いた。
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