第239話 後悔先に立たず

 ここは新橋警察署の署長室。

 警察署長、伍代昭は歯を食い縛り机を叩いて激昂していた。


「――武藤……あの大馬鹿者がぁぁぁぁ!」


 留置場で勾留中の武藤健治とその息子、正義。

 前代未聞の不祥事を犯した挙句、その二人がいつの間にか留置場からいなくなってしまったのだから怒るのも当然だ。

 逃走を許してしまった事も問題だが、逃走中、区民に危害を加えてしまったとしたら警察にとって致命的な責任問題となってしまう。


「――留置場の担当官は何をやっていたっ! 武藤の奴はどこに消えたんだっ!」

「わ、わかりません。監視カメラを見ても忽然と消えた様にしか見えず……」


 ――バンッ!


 伍代は手のひらを机に叩き付けると、言い訳をした警察官を睨み付ける。


「――そんな訳がないだろう。人が忽然と消えてなるものか! 馬鹿にするのもいい加減にしろっ!」

「――で、ですが……」

「言い訳はいいっ! 手の空いている捜査員全員を捜査に向かわせろっ! 新橋警察署の威信にかけて武藤の大馬鹿者を捕らえるんだっ!」

「は、はいっ!」


 慌てた表情を浮かべながら署長室を出て行く警察官を睨みながら、伍代は呟く様に言う。


「――くそっ……このままでは……」


 既に誤認逮捕が発覚し、監察(警察内の不祥事監督部署)が動く事態となっている。ゆくゆくは警視正に昇進し、参事官に就く筈だったのに……。

 誤認逮捕に武藤が起こした不祥事。そして、その被疑者逃走。杜撰な捜査も相まって、実質的な左遷人事である『警務部付』の内示が出るのではないかと噂されている。


「――何故……何故、私が部下の責任を取らなければならぬのだ……武藤め……武藤の奴めぇぇぇぇ!」


 すべては伍代の言葉にイラッとした高橋翔に原因があるのだが、その事を知らない伍代はこの世界にはいない武藤に対し、怒りのボルテージを上げていく。


 そんな警察署長、伍代昭の姿を見て少し溜飲を下げた高橋翔は影の中で薄笑いを浮かべた。


「……トップの役割は責任を取る事にあるんだから、ちゃんと責任取って左遷されてよね」


 俺は心の狭い人間なので『真相解明の為に必要な逮捕だった』と、言われた事を忘れない。

 誤認逮捕をさも必要な捜査だったとアピールする様な警察署長は不要だ。

 警察には被疑者を逮捕する力が与えられている。それは人一人の人生を簡単にぶっ壊せる強大な権力だ。

 謝罪するならまだしも全肯定は駄目だろ。

 誤認逮捕を是とする思考の持ち主は警察署の署長として不適格だと思う。


 まあ、これならそう遠くない内、どこかに飛ばされる事は間違いないだろう。

 責任を取って左遷される警察署長の異動先に興味はあるが、今はそれより大事な事がある。


 そのまま、取調室に影を繋げて貰うと、そこには武藤正義君の想い人、美生の姿があった。

 意外な事に、他の取調室を覗いても村井元事務次官の姿が見えない。


 一体どうしたのだろうか?

 てっきり、村井元事務次官もここに来ているものと思っていたのだが……。

 まあ、それは後で確認するか。今は……。


「――ちょっと、何で私が逮捕されなきゃいけないのよ! 悪いのは、武藤君でしょ!」

「……ですから、これは逮捕ではありません。任意の事情聴取で……」

「そんな事を言って、同じ事じゃない! 任意とか言って何時間も拘束した挙句、私の事を留置場送りにするつもりでしょ!? わかってるんだから、警察の考えなんて私、わかってるんだからね!」


 あらら……。


 共謀して川島を刺し、俺に罪を擦りつけた分際で、私関係ありませんアピールするとは、中々、ふざけた事を言う。

 とはいえ、嘘と被害妄想で塗り固められた女から供述を取るのは大変だろう。


「……ジェイド、嘘が付けないよう、あの女の口を軽くしてやって」


 闇の精霊・ジェイドに頼み、百パーセント善意で取調べの後押しをしてやると、美生は途端に思いもよらない事を話し始める。


「――そんなに私を悪者扱いしたいのっ!? そりゃあ、確かに、私も川島とかいう糞オヤジを一刺ししたかもしれないわ。でもね。村井さんに助言を受け、警察官である武藤君のご両親管轄のここで刺したのっ! 本来であれば問題にすらならなかった事よ。それなのに、なんで私達が悪い事になっているのよっ!? おかしいじゃない! 悪いのは全部、川島とかいう糞オヤジよっ! 元はと言えば、あの糞オヤジが余計な事をして勤め先の一般社団法人を潰したのが悪いんじゃない! これは正当防衛よ!」


 もはや言っている事が滅茶苦茶だ。

 支離滅裂の一言に尽きる。

 嘘が付けないよう口を軽くしただけで、自白に近い供述が取れてしまった。

 取調べをしている警察官も唖然とした表情を浮かべている。


「――それになんで村井さんの事は逮捕しないのっ!? あの人が私達に助言したのよ!? それさえなければ、私達だって川島なんて糞オヤジの事を刺したりなんかしなかったわっ! ……わかった。さては、元事務次官だから逮捕しなかったんでしょ? 村井さんが元事務次官だから逮捕しないんだわ! ふざけんじゃないわよ! 私達だけ警察に捕まるなんて納得できない! あの人よ。あの人が私達を嗾けたんだわ。証拠だって持ってる。私達を逮捕するつもりなら村井さんも逮捕しなさいよ! 仕事しろ、警察!」


 そして、遂に話が村井にまで飛び火。

 ここまでくると、哀れだな。

 殺人未遂に終わったとはいえ、これは立派な教唆に当たる。

 当然、軽い法定刑が適用される筈がない。


 一方、もう一人の実行犯。須東徹の取調べは信じられない位、早く、簡単に終わった。捕まってすぐ自白した為だ。

 犯行動機は単純で、田中美生の気を引きたかった。

 ただ、それだけの理由で川島の奴を刺殺しようとしたらしい。

 犯行に村井元事務次官がかかわっている事を供述し、今、留置場でマンガを読んでいる。気が狂っているとしか思えない。


 まあ、須東の事は置いておこう。

 問題は村井元事務次官だ。


 美生の取調べを担当していた警察官が捲らばせをすると、数人の警察官が走って外へ出て行った。

 おそらく、村井元事務次官の事を迎えにいったのだろう。


「折角だから、リアルタイムで見るとするか……」


 人の不幸は蜜の味。

 さあ楽しい、楽しい検挙タイムの始まりだ。

 今、村井元事務次官は、妻である村井枝子に対し、醜い弁解をしている真っ最中。

 既に不倫していた事はバレており、奥さん優勢の様だ。


「いい大人が子供ほど歳の離れた娘に手を出すなんて……はしたない。もう終わりにしましょう。もう信じられないわ」

「ち、ちょっと、待ちなさい。これは誤解だ。誤解なんだ。私が小娘など相手する筈がな――――」

「それじゃあ、これはなによっ!」


 村井元事務次官の家の前に影精霊の力を借り様子を覗くと村井元事務次官の奥さんが村井元事務次官に浮気現場を捕らえた写真をばら撒いている姿が見える。


「こ、これは……これをどこで……」


 床にばら撒かれた写真を手に取り呆然とした表情を浮かべる村井元事務次官。

 俺が手を貸す必要はなかった様だ。

 奥さん有責で別れようとしていた村井元事務次官に取って想定外だったのだろう。

 この用意周到さを見るに、どうやらかなり前から離婚を考えていた様である。


 いや……違うな。これはアレだ。

 非営利型一般社団法人ふらっとわーくの従業員に住民監査請求を起こされ、国税庁に非営利型の化けの皮が剥がされ、営利型一般社団法人と判断されてしまった為、追徴課税を支払わなければならなくなり、そのお金を捻出する為に村井元事務次官を脅しているのか……。


 考えてみれば、村井元事務次官は、非営利型一般社団法人やNPO法人の『設立呼びかけ人』……。

 非営利型一般社団法人ふらっとわーくの代表理事である村井枝子と違い、追徴課税的な意味合いの被害を受けた訳ではない。

 かといって、村井元事務次官が肩代わりする訳でもない為、強制的に毟りに走ったのだろう。逞ましい人だ。


 しかし、村井元事務次官も簡単には諦めない。


「ば、馬鹿馬鹿しい。こんなのは証拠にならんぞ。それに私と別れてどうするつもりだ。不倫では大した慰謝料を取れないぞ」


 そう。通常であれば、高くて三百万円前後がいい所だ。しかし、それは裁判で争った場合の話。自ら多額の金を慰謝料名目で支払うのであれば、話は違ってくる。


「――普通ならそうでしょうね。でも、あなたは元事務次官じゃない……ただでさえ、ネット上を賑わせているのに、ここで不倫が発覚したとなれば、どうなる事か……私だけじゃなくあなたも終わるんじゃなくて? でも安心して、あなたが六億円用立ててくれたら忘れてあげるから」

「――うぐっ、枝子……お前ぇぇぇぇ!?」


 落ちる時は一緒に落ちましょうと、そういう事か。怖いな。

 非営利一般社団法人と偽っていた事による追徴課税は少なくとも七年分。それに委託料の返還請求もある。

 ホームページに掲載されていた活動報告書を見る限り、億単位の追徴となる筈だ。

 事務次官にまで昇格した官僚の生涯年収は約六億円。

 天下り先でのプラスアルファ分を加味すると累計八億円位か?

 村井元事務次官の様に一般社団法人の代表呼びかけ人ともなれば十億円は固いかも知れない。

 まあ、これまでの生活費や教育資金、一般社団法人やNPO法人の立ち上げ等にお金を割いている筈なので、残っていても五、六億円といった所か……。

 不倫の対価に六億円を要求されるとか、考えてみれば凄いな。


「――ぐっ、わかった……六億円支払えばいいんだろ。だから、その写真はすべて処分してくれ!」


 おお、不倫の対価に六億円をポンと渡すとは、流石は元事務次官。

 多分、今を乗り切ればどうとでもなると考えているのだろう。

 しかし、考えが甘い。


「あら? まだ午後三時を回っていないわよ。今すぐ私の口座に振り込んで頂戴。そうしたらこの写真も捨てて上げるし、離婚だってして上げる。写真を処分して欲しくないの? さっさと、振り込みなさいよ」


 一般社団法人ふらっとわーくの代表理事、村井枝子はあんたの妻だぞ?

 長年連れ添ってきたんだ。お前と一緒で狡猾に決まっているじゃないか。


 村井元事務次官は苦々しい表情を浮かべると、パソコンを操作し、インターネットバンキング経由で村井枝子の口座に六億円を振り込んだ。


「――これでいいか……」


 忌々し気にそう言うと、村井枝子は勝ち誇った表情を浮かべる。


「ええ、後ほど離婚届を郵送するわ。写真はこちらで処分しておくから安心して……それじゃあ、さようなら――」


 村井枝子が邸宅から出ていくのを見送ると、村井元事務次官は悔し気な表情を浮かべテーブルを叩いた。


「う、うぐぐぐぐっ――私の六億円が……私の六億円がぁぁぁぁ!?」


 あまりの悔しさに地団太を踏んでいると、突然、邸宅内に『ピンポーン』というチャイムが鳴り響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る