円熟

それにしたって前田が花びらを一枚散らした、と言うのは来夢にさらに大きな衝撃を与えていた。来夢はまだその花さえ開いていないと言うのに、かたや一枚減らしているとは。同じ年齢のはずなのに、どうしてそんなに差がつくのか。そこには大人と子供のとてもとても大きな壁があるような気がしていた。


もしかしたら中野さんも「えー、花澤くんって子供だね。私、大人っぽい人が好きなんだ」なんて言うのかもしれない。

神様、俺なんか悪いことしたかよ、何とかしてくれよ。

そういうようなことをずっと考えていると、ろくに聞いてもいないのにいつの間にか授業が終わってしまっていた。


そんなことを繰り返すうちにいつの間にかホームルームになった。担任の上杉先生が前でいつものように何か話していたが当然のように耳をすり抜けていっていた。


「イエーイ!」「よっしゃ」「やったー」「えー」

突然教室が賑やかになる。

流石に来夢の耳にも留まり、来夢は黒板の方を向いた。

どうやら席替えをするらしい。


席替えといえば学校生活での一大イベントに違いないが、今日の来夢はそんな浮かれた気分ではなかった。

回ってきたくじを引き、数字を見る。5番だ。黒板に書かれた座席表を見ると、窓際の後ろから2番目の席、今座っている席と同じだった。

まあ動かす必要もなくてちょうどよかったかな、と思う。


先生の号令で他の人たちは皆席の移動を始めた。

ドンッ、ゴトンッと机を移動させる音が教室中で響いている。


「あ、花澤くん5番?」心地よい声が鼓膜を揺らす。

「な、中野さん。そう、だよ」

「あ、そうなんだ!隣だ。よかった〜」

「えっ」よかったってどうゆう意味? 思わず口に出しそうになる。

「仲良くない人が隣ならどうしようって思ってたの」少し小さめの声で囁くようにいった。

「あ、なるほど、あれ?でも……」

僕たちってあんまり話したことないような。あんまりというか三回だけ。


一回目はクラス替え直後のオリエンテーションみたいなやつでお互い「よろしく」とだけ言い合った。

二回目は中野さんが落としたハンカチを拾って「これ、落としたよ」と言うと「ありがとう」とにっこり笑っていった。

三回目に至っては「おはよう」って声をかけられたと思って「お、おはようっ」とドギマギしながら返事したら、後ろの女子に言っていたというただの恥ずかしい勘違いだった。


それなのにどうして、と思っているとの表情を読み取ったのか、中野さんが少し申し訳なさそうに言った。

「あ、ごめんねっ、勝手に。なんか美来ちゃんがいつも花澤くんのこと話してくれるから私も仲良い気分になっちゃって、迷惑だよね」


「いやいや!全然!迷惑なわけないよ!なるほど美来と仲良いもんね!」

美来、グッジョブ!頭の中で美来に最敬礼をする。

「ほんと?よかった!」にっこりと来夢の方を見て笑う。心臓の刻むリズムが早くなり、全身を血流が駆け巡った。

「当たり前だよ、何なら美来みたいに来夢って呼んでくれてもいい!」

「ら、らいむ?」中野さんは目を少し見開いて驚いた顔をする。

「え、あ、ごめん!今のなし!」

血流が口先まで行き渡ったせいか、図々しいことを口走ってしまった。

何か取り繕おうとしたが「じゃ、来週からこの席でまた1ヶ月な〜」という上杉先生の邪魔が入り、すぐに日直の号令によってホームルームは終わりを告げた。


帰る前に何か言わないとと思いパッと中野さんの方を向くと、中野さんも来夢の方を見ていた。何か小さい声でつぶやいている。


「来夢、来夢、来夢……」

「えっ」まさかホントに呼んでくれるのか!? 

「来夢、来夢……、うーん、ごめん!やっぱり今から来夢呼びはちょっと恥ずかしいかな」

「え、あ、そっか。そうだよね……」

「その代わりに来夢くん、じゃだめかな?」

来夢くん。中野さんの可愛らしい声で発されたその言葉を反芻はんすうする。

「も、もちろん!いいに決まってる!」

「ほんと!?じゃあ来夢くんって呼ぶね」「じゃあ来夢くん、また月曜日ね。バイバイ」

そう言って手を振るとトトトっと教室の外へと出ていった。



来夢くん、また月曜日ね。バイバイ。


夜になっても来夢はベッドの上に寝転がってその情景を繰り返し思い出していた。

はぁ〜。可愛すぎる。なんていい子なんだよ。神様、最高かよ。

来夢は今日の半分以上を共に過ごした恨めしい気持ちなんかとうに綺麗に忘れ去っていた。

思い出してはニヤニヤしながらベッドの上を転がり回る。このまま隣の席で1ヶ月も過ごしたら、2人の距離はどんどん縮まっていくかもしれない。


次に会える月曜日までまだ三日もあると言うのに、遠足の前日のような気持ちでなかなか眠りにつけなかった。目をぎゅっと瞑ると心臓のドクンドクンと脈打つ音がよく聞こえていた。

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