月並みの幸せ

リウクス

何でもないこと

 18時半。下校途中。

 空気が沈痛な焦燥を孕む季節。

 

 突然雨に降られ、公園の東屋で空が晴れるのを待っていた私は、ふと明日までに提出しなければならない進路希望調査票のことを思い出していた。粗雑に鞄の外ポケットから取り出したそれは薄く残った消し跡が擦れて汚れていた。


 私は迷っている。まだ微かに夢見がちな幼さを携えたこの心は保守的ではいられないから、何かもっと特別でいられる道がないものかと右往左往しているのだ。私は自分の潜在的な可能性を捨て去ってしまうには、学業においても、部活動においても、優れた功績を残しすぎている。所謂才色兼備で高嶺の花。おまけに生徒会長で教師からも慕われている。文化祭のミスコンでは優勝も果たした。


 私の高校はそれなりに名のある進学校だから、指定校推薦で幾らか偏差値の高い大学を選ぶこともできるし、私が立候補した枠を奪いにかかるような厚かましい同級生など当然いるはずもない。

 私には欲するものを自由に選択できる権利が与えられているのだ。しかし、だからこそ私からしてみればどれも平々凡々で、価値のあるものだとは思えない。低いところにぶら下がった果実に魅力は感じない。私は優れているからこそ高望みすることをやめられたりはしないのだ。


 しかし家族も、教師も、友人も、周囲の人間はいつも口を揃えてこんなことを言う。「絶対公務員になれるよ」「将来安泰だね」と。あまりにも価値観が世俗的で、私はいつも愛想笑いを浮かべながら閉口してしまう。無論、統計的には安定した職と収入を手に入れることが幸せへの近道であるのが証明されていることは承知の上である。貧困や苦難が人を不幸にするなんてことは誰にとっても自明のことだ。

 私はただ変化の乏しい生活の中で死にたくないのだ。例え茨の道を進むことになったとしても、痛みは生を実感させてくれるから。棘が刺さるのは前に進んでいる証拠だとわかるから。立ち止まって遠く先に霞む光を眺めることなんて私にはできない。


 突拍子もないことかもしれないが、アイドルやミュージシャン、役者になってみたい、広く捉えれば芸能界に入ってみたい、そんな地に足つかない願望が燻っていることもある。あそこでは知識があればあるだけ活躍の機会やコネクションは増えていく。顔が良ければそれだけ表舞台に立つ機会は与えられる。おまけに、トップに君臨すれば次の競争相手は世界である。終わりがない。努力と経験、人脈次第でどこまでも成長することができる。いずれ肉体的な死が待っていようとも、私が諦めない限り、それまでに精神が死ぬことはないのだ。

 きっと歴史に名を残すこともできる。人は覚えられている限りその魂が消失することはないから、実質不死だと言っても過言ではない。


 とにかく私は一度きりの人生を無駄にしたくないのだろう。私は選ばれた人間。そう信じていたい。世界を変える人がいるならば、それはきっと私だと。そう思っていたい。

 しかし、時々想像してしまう。私じゃない誰かを憧憬の眼差しで見つめる自分の姿を。スポットライトの外で拍手する月並みな笑顔を。唯一無二であるはずの私が雑踏に揉まれる哀れな未来を。そしてそのたびに、腹の中で蝶を飼っているような不快感がする。


 涙雨はまだ止まない。冷たい風が吹いて頬を刺す。凍えた手の甲を優しく撫でると、無機質なマネキンに触れている気がして、私はそれがなんだか酷く恐ろしいことのように思えてならなかった。

 細かな雨粒が疎らに濡らした顔が少し不愉快だ。辺りを見回すと景色はすっかり闇に溶け込んでいた。どこへ向かうでもなく放たれた私の長い長いため息は自らの意志に対する不信感を自覚するには十分なものだった。


 もしかすると、私の自信は虚勢にすぎないのかもしれない。確かに優秀ではあるけれど、それは狭いコミュニティにおける話であり、私と対等かそれ以上の人間なんてどの学校にも一人はいるのではないかという気がしてくる。私が目指す世界とやらを実際の基準にしてみると、私がどれだけちっぽけな存在であるかなど容易に想像がつく。日本だけでも社長という役職に就く人間が何百万人もいる。芸能人だっていまや一般人との境目が曖昧になってきている。どう考えても実は特別になる方法なんてないのではないかという結論に至ってしまう。


 私はどうしたら生き続けることができるのだろう。どうしたらもっと価値のある人間になれる。どうしたら唯一無二の存在になれる。分からない。半径2mよりも先の景色が何も見えなかった。本当はもうとっくに死んでいるのではないだろうかと思った。


 雨音が止んで静寂が訪れる。心臓の鼓動は聞こえない。ただそこにあるのは鬱屈とした虚無そのものだった。


 私は再び進路希望調査票を眺める。

 もう書いてしまおうか。そう思った。


 しかし、私が筆記用具を取り出そうと鞄を弄っていると、背後から微かに柔らかな光の気配を感じた。振り返ってみると、それは雲の隙間から僅かに覗く薄明な月光で、その誠実なスポットライトは真っ直ぐに私の足元を照らしていた。


 ——あ


 その中に身体を挿し込んでみると、控えめな輝きの中で至極単純な答えが頭をよぎった。


 何も複雑に考える必要はなかったのだ。


◇◇◇


 翌日、朝のホームルームが終わると私は先生に進路希望調査票を提出しに行った。先生はそれを受け取ると特筆すべきリアクションもなくさっさと持っていってしまった。それも当たり前のことだ。私はただ第一志望に無難な大学の名前を書いただけなのだから。

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