深海魚はのぼる ー与描

ある冬の朝、一匹の深海魚がベッドから起きて伸びをしていると、上の方から何か白い線のようなものが寝床に差し込んでいることに気づいた。それは太陽の光だったのだが、深海魚は五千メートルもの海の底に住んでいる。陽の光を見たことなど、なかった。誘われるように光の差し込む方へと泳いでいく。

 暗い海の底で、わずかな光に照らされたうろこは瑠璃色に、目は緑青色にギラギラと輝いている。まっすぐ上を見つめて、するすると尾ひれを動かして、上へ上へと泳いでいく。寝床を守っていた火山岩も、よく友達と遊ぶ海藻の公園も通り過ぎる。公園を過ぎようとしたとき、散歩していた年寄りの魚に声をかけられた。

「おはよう。どこへ行くんだい」

「上へ、のぼるんです」

「上かい。どこまで行くんだい」

「わかりません。この、白い線が出ている元のところまで行きます」

 年老いた魚はしばし驚きで何も言えなかったが、冗談だと思ったのか大きな声で笑いだした。

「はっはっは、そうかそうか! おもしろいな君は! あっはっは」

「おもしろいんですか」

「あぁ、おもしろいよ」

 深海魚は少しむっとした。馬鹿にされているように感じた。

「本気なんです」

「うむうむ、そうだな。まぁがんばってきなさい」

 胸のひれをヒラヒラさせながら、老魚は背を向けて去っていった。まともに取り合ってくれなかってことに、深海魚はいらだった。絶対に上まで昇りきって白い線の出どころまで行ってやろうと思った。先ほどまでするすると動かしていた尾ひれは、自然と強く水を蹴るようになっていた。上へ上へと、深海魚はのぼる。

 のぼるにつれて、周りはだんだん明るくなっていく。何時間のぼったかわからないけれど、そこはもう黒い海ではなく、群青のたゆたう海だった。見たことの無い魚や、奇妙な形をした生物もいる。でも深海魚はそんなものには目もくれず、一心不乱に上へと泳ぐ。

 しかし、深海魚は深海の魚だ。海が浅くなるにつれて、身体の具合が悪くなる。めまいがして、ひれもうまく動かない。飛びそうになる意識を何とか保ちながら、時折ふらふらとよろめきながら。それでもうろこと目をギラギラと輝かせて、懸命に泳いでいる。

「おい、大丈夫か」

 一匹の魚が深海魚の方へ寄ってくる。若い、オスの魚のようだ。ふらふらと泳ぐ深海魚を見て、心配そうな声を出す。

「ちゃんと泳げていないじゃないか。これ以上上へ行くのは、やめた方がいい」

「ありがとうございます。でも、大丈夫です」

「どうして上へ泳いでいるんだ。君はもっと深い海の子だろう」

「どうしてでしょう。わかりません」

「わからない?」

「はい」

 若い魚が、理解できないといった表情で深海魚を見る。

「自分のことなのに、わからないのか」

「はい」

「わからないのに、そんなになってまでのぼるのか」

「はい」

 大きなため息。口から、ごぽっと泡が出て、深海魚の顔に当たった。ちょっと臭いな、と深海魚は思った。

「幼いからまだ難しいのかもしれないが、そんなことをしたって何にもならないんだぞ。無駄なんだ」

 深海魚は答えなかった。よろめきながらも、上を見つめて尾ひれを動かす。

「家に帰って、勉強するなり家のお手伝いをするなりした方がいいに決まっている。今からでも遅くないから戻りなさい」

「ありがとうございます。でも、行かせてください」

「いいや、だめだ。君が戻るまでついていくからな」

 深海魚はまたしてもむっとした。なんで赤の他人ならぬ赤の他魚に対してここまでお節介を焼くのか、やりたいと言っているのだからやらせてくれればいいものを、どうしてそうさせてくれないのかわからなかった。かといって、強くひれを動かしてスピードを出し、振り切ってしまうほどの気力も体力もない。通せんぼされようとも、するりと抜けてしまえばいいだけの話だ。しばらくこのままで上へ泳ぐことにした。

 あたりはもうかなり明るくなっていた。海の色も群青から浅葱色へと変わっていた。光の線は、もう線ではなく、大きなうねりとなって深海魚を包み込んでいる。しかし深海魚の視界はうまくその光をとらえられていない。ぼやけていたり歪んでいたりして、周りの様子がよくわからない。それでも、深海魚はのぼる。上へと泳ぐ。

 隣を泳いでいた若い魚も浅い海の魚ではないからだんだんと気持ちが悪くなり、ついに元の深さへと戻り始めた。のぼる深海魚を後ろ目に、「無駄なことを」と吐き捨てて戻っていった。

 霞む視界の中に、波が揺れているのが見えた。波も水面も、もちろん見たことはない。しかし、水面に浮かぶ白い陽を見て、きっとここが目的地なんだと思った。何時間か何十時間か、取り合ってもらえず、無駄だと言われた旅も終わりに近づいていることに、薄々勘づいていた。

 ふと、視界が真っ暗になった。先ほどまでおぼろげに見えていた水面も浅葱色も、小さな魚もプランクトンも見えない。身体もうまく動かない。泳いでいるのか流されているのかも定かではない。どういうことだろうか。僕は死んでしまったのか。それともすべて夢だったのか。たどり着くことなく、ここで終わってしまうのか。それはなんともやるせない。もどかしい。もう少しなのだから、あと少しなのだから、続けさせてほしい。深海魚は、そんなことを暗闇の中で考えた。緑青色の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。しかし、深海魚自身はそのことに気づいていなかった。

「大丈夫、生きているよ」

 誰かの声がかけられた。落ち着いていて、澄んだ声。

「……き」

「うん、無理して声を出す必要はない。ちゃんとわかっているから」

 わかっている、とは、どういうことなのだろう。

「考えていることがわかるのさ。だから大丈夫」

 どうして考えていることがわかるのか、そして声の主は何者なのか、気になった。が、それには答えてくれなかった。

「水面を目指しているんだね」

 水面?

「さっき、ゆらゆらと揺れていたり、白い大きな丸が見えていたりしただろう。君はそこに向かってはるばるのぼってきたんだろう?」

 そうだ。なるほど、あそこが水面なのか。

「そうそう」

 でも、たどり着けずに終わってしまうのかな。今はもう何も見えないし、上がどちらなのかもわからない。身体も動かないんだ。

 やっぱり無駄だったのか。ここまで来て、何も成し遂げられなくて。思うままに一心不乱にのぼってきたけど、何にもならなかったじゃないか。あの魚が言っていたように、引き返して家に帰るべきだったんだ。本当に情けない、情けない。

「無駄なことで、いいじゃないか」

 澄んだ声が響く。

「無駄なことをすることの何が悪いのかな。逆に、何が必要か最初から全部わかっているなんて、無理なんじゃないかな」

 ふふっ、と、その声は微笑む。

「失敗したとしても成功したとしても、無駄なことなんて何もない。少なくとも、僕たち生き物に関しては、そう思うな」

 でも、と深海魚は思う。沈み込む。

 でも、もう動けないし何も見えないんだ。どうしようもないんだ。君の言葉は嬉しいけど、旅はここで終わりなんだ。

「そんなことないよ。大丈夫、僕にまかせて」

 すると、何も感じなかった身体が無数の泡に包まれたような感覚に襲われた。全身を這いまわり、ぶつかっては弾ける泡の感触。その気持ち悪さに暗闇の中でぎゅっと目をつむる。

黒い、無の世界では目をつむっているかも開いているかもわからないのだが、泡が身体のそばで弾けるたびに自分の身体が戻ってきていくようだった。おかげで、自分が目をつむっていることがわかった。

 しばらくたって、泡の感触はなくなった。

「目を、開けてみて」

 澄んだ声が響く。恐る恐る目を開けると、そこは先ほどまでいた浅葱色の海だった。先ほどまでと異なるのは、視界はもはや霞んでおらず、はっきりと見える。水面に浮かぶ光のうねりも、初めて明瞭にとらえることが出来た。

 後ろから声がする。

「おかえりなさい」

 振り返ると、そこには小柄な竜のような形をした、黄土色の生き物が揺蕩っていた。

「助けてくれたのか」

「まぁね。だって、頑張っていたでしょう」

 少し気恥しい思いがして、緑青色の目をそらした。

「ありがとう、助かったよ」

「どういたしまして。さぁ、もう少しで水面だから。行ってらっしゃい」

 竜に頷き、背を向けてまたのぼり始めた。身体に力が溢れている。もう水面は目と鼻の先だった。乱反射した光がうろこと目を照らす。瑠璃色と緑青色は健在だった。

 長いようで、それでいてあっという間でもあった。ここまで来られて、よかったな。あの竜には感謝しきれないな。結局、あの竜は何者だったのだろうか。また深海に戻るときに、改めて話せるといいな。

 そう考えながら登っていると、ついに水面にたどり着いた。緊張と期待と、少しばかりの恐怖にぞくぞくっとした感覚に包まれる。一つ、ごぽっと泡を出して、水面へと顔を突っ込んだ。

 まず見えたのは、白だった。水面のさらに上に、大きな白い丸が浮かんでいる。あまりに眩しすぎて直視できないが、少なくともそれはとてもじゃないけどたどり着けそうもない場所に浮いているようだった。その周りには同じように白い泡のような綿のようなものが浮いていたが、こちらは眩しくはない。白に少し灰がかったような色をしている。

 そして、あたりはさざ波が立つばかりで何もなかった。海の中にあったようなきらめきはそこにはなく、漠とした空間が広がっていた。

 見渡す限りの、灰色の世界。水面の向こう側に、色はなかった。

 深海魚は何も言わず海に潜る。光の無い方へ、下へ沈む。

「あぁ」

 誰に言うともなく、独り言ちる。目をつむり、力の入らなくなった身体を横にして、泡を吐き出しながら沈んでいく。

「やっぱり、やめておくべきだったなぁ」

 光はもう、差し込まない。

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