第四章 楽。そして、永遠
第30話 その地は最後の希望
もはや旅程で悩む必要はなくなった。
『楽』の心を人に分け与えるほど余らせている人間は早々いないからだ。
最後のドナー候補は、他の三つの感情に比べて極端に候補者が少ない。
現在地に近い順で片っ端から候補を当たっていく。
ただそれだけだ。
一日に、多くて二人会えればいい方。
そんな効率の悪いドナー探しを愚直に続ける。
和歌山からフェリーで徳島へ。
五日間で四国を全て巡り切った周り切った後、香川県から瀬戸中央自動車道で岡山県へ向かう。
中国地方に突入したその日、茜はパンダのぬいぐるみを高速バスの車内に忘れた。
彼女はついに「かわいい」を失ったのだ。
茜のタマイシはその時点でもう黄色がかなり薄くなっていた。
岡山、次の鳥取には該当者なしでスルー、さらに島根、広島、山口を踏破するのに一週間。
この頃には、茜はもはや外界の景色に全く反応を示さなくなった。
辛うじて最低限レベルの会話はできるものの、タマイシは黄色の輝きは完全になくなり、緑すらもどんどん色が薄くなっていく。
病状の進行は加速していた。
山口から福岡へ。
佐賀県には該当者なし。長崎から熊本へ向かう道中、歯磨きは俺がしてやるようになった。
大分、宮崎、鹿児島、ここまで8日間。
まだ適合者は見つからない。
この頃になると、茜は風呂すらまともに入る気をなくしていた。
俺が一緒に入り、彼女の髪を洗ってやるのが日課になった。
さらに食事への興味も薄くなり、俺が直接給仕してやらないと食べないことが多くなる。
茜はもはや何も喋らない。
ただ、いつもニコニコと笑っている。
茜のタマイシにはもはや緑もなく、弱いオレンジ色だけが残っていた。
それが示す感情は『楽』のはずだ。
今の茜は『楽』だろうか。
ほとんどの感情を失っているのだとしても、せめてぬるま湯に使っているように幸せだろうか。
そうであって欲しい。
そこからは、空路を使った。
目的地はもちろん、沖縄県。
茜のタイムリミットを考えたら、これがラストチャンスだ。
他の県に比べれば沖縄には『楽』の候補者が若干多く、六人もいる。
それだけで、俺にとってはこれから行く南の島が天国に思えた。
やがて、最後の希望である南の地に降り立つ。
空港に響く陽気な三線の音色も、今は俺をいらつかせるだけだった。
アポイントメントを取っている時間は変わらないのだから、急いでも意味はないのだけれど、それでも急いでいた。焦っていた。むかついていた。
何に?
先ほど、急に予定変更をねじ込んできた候補者に?
それとも、呑気にこの楽園を満喫する気全開の観光客たちに?
いや、違う。
俺だ。
茜にしてやれることがあまりにも少ない、俺の不甲斐なさが全ての負の感情の原因だ。
宿泊先は、なんちゃらベイなんて名前のついた、ちょっとシャレたお高めのホテル。
ここまで来たら、もう節約することにあまり意味はない。
早速、ドナー候補に会いに行く。
一人目。適合せず。
二人目。適合せず。
不貞腐れるように眠る。
そして、二日目。
三人目。予定変更しておきながら結局ドタキャン。
四人目。適合せず。
昼飯はソーキそば。
茜に食べさせるために子供用のお椀とフォークを持ってきてもらったら、店員さんから怪訝な顔をされた。
五人目。
依頼人が住んでいるのは、中心街からほど近い平屋だった。
琉球赤瓦の屋根の上に、二匹のシーサーが鎮座している。
築年数は割と浅めだろうか。
出入り口はスロープになっていて、監視カメラも最新式だ。
近代的な建築技法と伝統が上手く融合している家だった。
インターホンを押す。
「はい。どちら様かしら」
やや時間があって、反応が返ってきた。
落ち着いた年配の女性の声。
「すみません。『能面』と申します。レイさんはご在宅でしょうか」
「はいはい。少々お待ちくださいね」
やや時間があって、引き戸が開かれる。
「遅くなってごめんなさいね。こんな身体なもんだから」
そう言って出て来たのは、綺麗なロマンスグレーの髪をしたおばあさんだった。
いい年の重ね方をしたのだと一目で分かる、穏やかで愛嬌のある顔をしている。
上半身を覆うのは、涼しげな青い花がプリントされたかりゆしウェア。
そして、彼女が下半身を委ねているのは、木製の車椅子だった。
タマイシは、
白の面積が大きく、時たま黒い筋が走る縞模様は、彼女の人生の深さを象徴するように濃い色を蓄えている。
「いえ。それでは、いきなりで申し訳ありませんが――」
「ああ、検査ね。中に入ってちょうだい。ああ、一応言っておくと、土足で大丈夫よ」
手慣れた様子で車いすを操り、リビングに俺たちを招く。
「失礼します」
段差がなく全面バリアフリー化されている住宅は、茜の手を引いて歩かなければならない今の俺にも好都合だった。
「さんぴん茶でいいかしら?」
「いえ、それよりも先に検査を。どうかお願いします」
俺は肩掛けカバンを下ろして懇願する。
「……わかったわ。私はなにをすればいいの?」
もてなしを拒否した俺に何かを察したのか、レイさんは真剣な表情で問うてきた。
「そのまま楽にして頂いて結構です。椅子、お借りします」
近くのテーブルの椅子を引き出してレイさんの横につけ、茜を座らせる。
コネクトを取り出して、二つのタマイシを連結。
沖縄の暑さにかまけて熱を帯びたコネクトへ、チャッターを振り下ろす。
俺はコネクト付属の、コップに吸盤をくっつけたような集音機に耳を当てて、感覚を研ぎ澄ます。
茜の心が弱っている今、発生する音もかなり小さくなっている。
一秒も聞き漏らせない。
初めに聞こえたのは、二つの心臓の鼓動。
レイさんのは早く、茜のは若干落ち着いている。
ザ……。
ザザ……。
ザザザ……。
エコー検査のようなノイズ。少し波音にも似ている。
タンッ。
静かに響く『レ』のシャープ。
やがて流れ出したのは、二拍目と四拍目にアクセントを置いた独特のリズム。
ジャズミュージックを思わせる軽快でリラックスした音階が、福音を告げる。
「適合です。良かった……」
俺は目をきつく瞑る。
思わず、そう本音を漏らしてしまった。
この商売ではやってはいけないことだけれど、今は感情を押さえている余裕すら喪失していた。
こんな調子では、『能面』の二つ名は返上しなくてはいけない。
でも、構わない。この案件さえ達成できれば、後のことはどうなったとしても。
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