第27話 世界一優しい男(2)

「では始めましょう。紐はありますか?」


「はい。昔引っ越しに使ったビニール紐なら、リビングの小物入れに」


「そうですか。では、リビングに行きましょう」


 俺はひろしさんとリビングに行く。


 茜は畳の上に体を横たえてうつらうつらし始めていたので、そのままにしておいた。


 彼女の感情の空白を埋めるように睡眠時間が増えている。


 その姿が一層俺を焦らせる。


「ええっと――ありました。これです」


「ありがとうございます。では、そこに座って、目を閉じてください」


 青いビニール紐を受け取った俺は、近くのリビングテーブルとセットになった古ぼけた四脚の椅子を指して言った。


「はい」


 素直に目を閉じるひろしさん。


 俺はその手足を、素早く、しかし厳重に紐で縛り上げた。


「目を開けてください」



「えっと、これは、どういう?」


「これから、あなたを監禁して、あるチャレンジをしてもらいます。ルールは二つだけです。①あなたはいつでもギブアップしていい。②もし、あなたが不眠不休、飲まず食わずで11日間耐えることができたなら、チャレンジ成功として報酬を支払う。――あっ、ちなみに、11日間の根拠は、不眠の世界記録を元にしました」


「あの、申し訳ないんですが、おっしゃっていることが良く分かりません。いえ、ルールは理解しましたが、私がそのチャレンジをする意義というか、報酬と言われても特に欲しい物もないですし……」


 ひろしさんが困惑した顔で呟く。


「そうでしょうか? あなたが記録を達成できたら、俺が自腹で百万円ほど慈善団体に寄付します。20円で助かる命があるそうです。単純計算で、今あなたは五万人を救う権利を手にしている。逆に言えば、勝手に飲食したり、睡眠をとったりすると、それは、あなたのせいで罪もない子どもたち五万人が死ぬことを意味します」


「そ、そんな――!」


 『そんなん知るか』の一言で蹴散らせる問題に、それでもひろしさんは絶望の表情を浮かべた。


「どうしますか? 嫌なら今すぐにギブアップしても構いません」


「や、やります!」


 俺の問いに、ひろしさんは声を震わせながらも即答する。


「そうですか。では、始めましょう」


「あ、あの。その前に、一つお願いしても?」


「なんでしょう」


「私が眠りそうになったら、無理矢理叩き起こしてもらうということは可能でしょうか」


 ひろしさんが、真剣そのものの表情で呟いた。


 どうやら、本気でチャレンジをやり遂げるつもりらしい。


「いいですよ。一睡もさせません」


 俺は頷いて、ひろしさんの向かいの椅子に腰かけた。


 本気には本気で答えよう。


「ありがとうございます!」


 ひろしさんは、監禁されているというのにそうお礼を言う。


(ごめんな。茜)


 俺はこれから、何も悪くないこの人に、ひどいことをしなければいけない。


 できれば、仕事が終わるまで、茜がずっと寝ていて欲しいと思う。


 今の俺の姿を、できれば茜に見せたくないから。


 もちろん、もう茜に『ひどい』を認識できるほどの負の感情は残っていない。


 だから、俺のやることを目にしたとしても、何も感じないだろう。


 それでも、俺は嫌だった。


(もう、こういうことはしないって約束したのに)

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