第26話 世界一優しい男(1)
串本町のさらにその南東、紀伊大島が男の住所だった。
そこに行くには、コミュニティバスくらいしか公共交通手段がないため、やむを得ず観光タクシーを雇う。
紀伊大島はまさに秘境と言っていいところだった。
武骨な岩々が並ぶ雄大で荒涼とした景色。
海の青は、絵具を直接垂らしたかのように濃い。
タクシー運転手が気を効かせてあれこれ説明してくれたが、あまり耳に入ってこない。
隣の茜は、アドベンチャーワールドで買った手のひらサイズのパンダのぬいぐるみを、飽きもせずにニコニコ眺めている。
どうか適合してくれ。
ただそれだけをひらすらに祈っていた。
バス停を目印に降ろしてもらい、男の家へ。
それは、瓦葺きの二階建ての平屋だった。
どうやら、かなりの築年数が経ってそうだ。
ひろしさんには関西なまりがなかったから、多分、地元の人間ではない。となれば借家だろう。
インターホンを鳴らす。
出てこない。
ちょっと間を置いて、また押す。
反応がない。
さらにしばらく待ってから、もう一度押した。
「すみません! すみません! すみません! お待たせしました!」
玄関から裸足のまま、中年男が飛び出してきた。
髪はボサボサで、シャツとパンツだけというみっともない状態だ。
その体躯は、流木のように痩せている。
そのタマイシは、濃い紫色のアメジスト。
深い悲しみの色を湛えていた。
「堤ひろしさんで間違いないですね?」
100%の確信を持ちながらも、一応確認する。
「はい! 私が堤ひろしです! すみません! 昨日夜遅くまで悩んでいる方の相談に乗っていたもので、寝過ごしていました!」
ひろしさんは土下座しかねない勢いで深々と頭を下げた。
彼のタマイシは、情動に合わせて全く色が変化せず、ほとんどその用を成していなかった。
紫。ただひたすらに紫。焦燥と不安が、常に彼の心を支配しているらしい。
「時間通りなので問題ありませんよ。俺たちが少し早く来すぎただけです。あ、申し遅れました。『能面』です。では、早速、適合テストをさせて頂きたいのですが――」
「はい! お見苦しい家ですがどうぞお入りください!」
ひろしさんに導かれ、家の中に入る。
猛暑だというのに、エアコンもつけていない。
畳の客間で、俺はいつも通りの作業に取り掛かった。
コネクトを双方のタマイシに取り付けて、深呼吸を一つ。
渾身のチャッターを振るう。
ウォォーン。ウォォーン。ウォォーンと、海鳴りとも不協和音とも取れるような微妙な音色。
失敗が頭をよぎった刹那――演歌っぽい哀愁を含んだ音がゆっくりと流れ出した。
「適合です」
俺はチャッターを強く握りしめ、噛みしめるように呟いた。
これで、三つ目。
「本当ですか!? ああ、それはよかった。これで私はそちらのお嬢さんの役に立てるんですね!」
「はい。では、早速、報酬のお話をさせてください」
「ええ! その、大変お恥ずかしい話なのですが、『能面』さんには、私の偽善者の心を何とかして頂きたいのです」
「偽善者の心?」
「はい。その、正確な表現かはわかりませんが、私は、なんにでも、同情してしまうのです。街の募金箱、毛の禿げた鳩、斬り倒された切り株、疲れた目をした通勤者、目に入る、あらゆるものに」
「慈愛に満ちていることは、悪い事ではないかと思いますが」
「加減ができないんです。前の職でも、子どもがいるのに残業しなくてはいけない同僚と、新婚なのに忙しそうな後輩を手伝っていたら、倒れて入院してしまって」
「それは、優しいあなたに周りが仕事を押し付けたいただけなんじゃ……」
「いえ。めっそうもないです! 私が勝手に同情して、自分で残業を買って出たんです。それなのに、ふがいなく身体を壊して、結局会社を辞めて迷惑をかけてしまいました。私はどうしようもない屑です」
ひろしさんは首をブンブンと横に振った。
「……えっと、ひろしさんがどのようなスキルをお持ちかはわかりませんが、周りに気を遣ってしまうなら、一人でできる仕事を選べば良いのでは?」
「はい。だから、今はこうした僻地で、なるべく人とも会わず、独りでこなせる仕事をやっています」
「それでも、問題は解決しなかった?」
「そうなんです。同情が、追いかけてくるのです。テレビのニュースは目を覆いたくなるような悲惨なものばかり。その合間には、慈善団体のCMが流れてきます。ネットの世界も悲しみと怒りと苦しみを訴えるメッセージで溢れてる。もちろん、寄付を募る広告も出てきます。私にできることは、全てやっているつもりです。寄付もしますし、環境団体の署名活動にも協力してますし、『死にたい』と訴える人たちの相談にも乗っています。それでもキリがありません」
ひろしさんは幽霊を怖がるような目つきで、頭を抱えて震える。
あれか。
この人は、『アフリカの子どもたちの方が苦しんでる』論法を受け入れるタイプの善人だ。
「そんな自分を変えたい?」
「はい。このままでは、やっていけないとわかっているのです。だから、私の偽善者っぷりを、無駄な同情を、なんとかして欲しいのです」
「わかりました。ひろしさんの悩みを解決する方法はありますよ」
俺は即答した。
「本当ですか!?」
ひろしさんが顔を上げ、希望に目を輝かせる。
本当に一瞬だけ、憂鬱そうなアメジストが、淡いライラック色に変じた。
「はい。ただし、先に申し上げておきますが、今から俺がやろうとしている方法は、ベストではないと思います。時間をかけてあなたと交流を深めれば、もっと、良い解決策があるのかもしれない。でも、俺には時間がないから、悠長にあなたにとってベストの選択肢を検討はできない。それでもいいですか?」
「構いません。この苦しみから解き放たれるなら」
「肉体的にも、精神的にも、かなりきつい解決策になります。ひょっとしたら、命の危険性もあるかもしれません。それでもよろしいですか?」
念を押すように確認する。
「は、はい。この生き地獄がずっと続くのなら、死んだ方がマシですから」
一瞬怯みながらも、ひろしさんは頷いた。
俺は卑怯だ。
気遣うフリをして――この人が断らないと分かっていて言った。
本当の偽善者は、俺みたいな奴だ。
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