第20話 回想 世界は彼女の手の中に(1)

 俺が茜と恋人になった瞬間の話だ。


 部活終わりの帰り道。


 晩秋の由比ヶ浜でのことだった。


 この海は断然に、シーズンオフの秋か冬がいい。


 由比ヶ浜が出てくるのは諸々の創作物だと大抵夏なのだが、夏の由比ヶ浜ははっきり言って異常である。


 どう異常かといえば、海の家というにはあまりにも立派すぎるフォトジェニックな食べ物屋のブースが並び立って砂浜の面積を減らし、波音に耳を澄ます気のないパリピ共がアゲアゲな音楽を大音量でぶっ放してアルコールを乱用し、盗難・痴漢・ナンパして時にはカップル成立なオスとメスにはつきもののあれやこれやの揉め事で、警察と警備員の方々は大忙しになる。


 特に最近は、逗子の方の海岸が諸々の規制を厳しくしたこともあって、マナーの悪い輩がこっちに流れ込んできてるのも頂けない。


 そりゃ観光で飯食ってる奴らはいいかもしれないが、穏やかに暮らしたい地元住民にとっては、ただでさえ多い観光客がマシマシになって交通渋滞がさらに悪化するし、元気の有り余ったパワフルな――ぶっちゃけクソうるせえのが増えて治安も景観もアレになる。


 要するに、夏の由比ヶ浜は陽キャとパリピの物になるので、俺のような陰キャはお呼びじゃなくなるという訳だ。


 春もいいのだが、その頃には夏に向けてブルドーザーさんたちが砂浜を整地し始めるので、由比ヶ浜の美しさを楽しみたいなら、やっぱり秋と冬という結論になる。


「純、今、『ようやくうるさいのがいなくなった』って思ってる?」


 俺が撤去されたブースにわずかに残った建築資材――鉄製の足場を清々しい気持ちで見遣っていた所を、目敏く見つけた茜が呟く。


 『久世くん』から『純』に変わったのがいつかは、よく覚えていない。


 ただ、出会ってから三ヶ月の間に、不思議とこいつと一緒にいる時間が増えた。


「おいおい、口が悪いな。俺がそんなことを思うはずないじゃないか。夏に足を運んでくださる観光客の皆様の消費によって鎌倉の経済は成り立っています」


 俺は公共広告機構的な口調で呟いた。


「嘘つきー。いつも純がここら辺通る時に舌打ちしてたの、私、知ってるんだからね」


 茜がそう言って、手にした絵本――『100万回生きた猫』で肩を小突いてくる。


「まあ、こうして静かに本が読めるのはいいな」


 俺は砂浜に腰を下ろして、文庫本の『銀河鉄道の夜』を開く。


「やっぱり意外だよね。純、文芸部って顔じゃないし。眼鏡してないもん」


 隣に腰かけた茜が呟く。


「なんだその偏見は。――まあ、ぶっちゃけ部活としてサボりやすいからな」


 我が校の文芸部は、年に一度の学園祭で出す同人誌に寄稿しさえすれば、後は好き勝手やっても何も文句を言われない。その自由度が気に入っていた。


「そんなこと言ってー、純の書いた文章を読めば、ちゃんと部活に取り組んでるってわかるよ。ワイルドなイケメンが実は児童文学が好きって、かなり萌えるよ。ギャップ萌え。もっと、純のそういうかわいいとこ広めていこ? そしたらもっとクラスにも馴染めるよ」


「余計なお世話だ。つーか、似合わないってことで言えば、茜も相当だろうが。いくつも掛け持ちしてた運動部はどうした」


 茜の外見は、運動系か文科系かで言ったら確実に前者だ。


「んー、全部休止中。『できること』と『周りがやって私にやって欲しいこと』と『やりたいこと』って、それぞれ違うんだなあって、最近気が付いたの。私は今まで最初の二つばっかり気にしてやってきちゃったから、今はやりたいことを探してるって感じ」


「贅沢な悩みなことで――あと、微妙に文芸部を選んだ回答にはなってなくないか?」


 俺はあまり運動が得意ではない。


 様々な可能性がある茜が少し羨ましい。


「鈍感。それは純がいるからに決まってるでしょ」


 茜は、『100万回生きた猫』で顔を隠して呟く。


 しかし、彼女のオパールが、由比ヶ浜名物の桜貝みたいにピンク色に染まっているので、どんな感情を抱いているかは明白だった。


「……」


 俺には咄嗟に返す言葉が見つからない。


 出会った時から、こいつはいつも俺の心に不意打ちをかましてくる。


「……ねえ、純。私たちの関係性って何?」


 茜はそう追撃を放ち、俺の前に移動する。


 そして、その場で体育座りして、こちらの顔をじっと見つめてきた。


 彼女が胸に抱いた絵本の表紙の猫の顔も、俺に回答を催促しているように思える。


「それを明確に言葉にする必要があるのか?」


 茜といる時間に、心地よさを感じていることは間違いなかった。


 俺は茜に好意を持っている。


 それは自覚している。


 だけど、その感情が恋なのかと問われると。正直わからない。


 俺には、同年代でここまで親しくなった人間がいままでいなかった。


 この心地よさは、親友に対して抱くものなのではないか。


 仮に異性に対する気持ちだとしても、それは、俺が美少女の茜に動物的に発情しているだけのことであって、『恋』という美しい言葉で表現して良い感情ではないのではないか。


 そんな考えが、頭の中をグルグル巡っている。


「まだ、純、私に隠してることがいっぱいあるよね。それは何となくわかるの。でも、今、純が隠している領域は、今のままの関係性じゃ踏み込んじゃいけない場所な気がする。だから、私はさらに一歩前に進みたい」


「茜。吊り橋効果って知ってるか?」


 あの時はサバミのことに夢中だったけれど、今から思えば茜との出会いは中々にドラマチックだったと思う。


 そして、ちょうど、茜がくだらないことでハブられて心が弱っていた時期でもあった。


 偶然が生み出す情動と、茜のピンチにたまたま近づいてきた羽虫が俺だっただけなのではないか。だとすれば、そういう俺にとって都合のいい状況を利用して、茜を手に入れるのは卑怯な気がした。


「もしそうだとすれば、随分と長く続く吊り橋効果だね。私、自分で言うのもなんだけど、惚れっぽい方じゃないよ。何人に告白されてきたと思ってるの?」


 茜は不満げに眉をひそめて言う。


「……なんでも、高校生のカップルが結婚まで至る確率は1割未満らしいぞ。そして、その1割の内、かなりのカップルが出来ちゃった婚らしい」


「嫌なことを言うなあ。高校生らしくもっとパッションに身を任せなよ!」


「その結果、俺みたいな人間が産まれる」


 俺は、譲二に引き取られるまでは児童養護施設にいた。


 そんなありがちな不幸は、隠すまでもなく茜にすでに告げている。


「……なんで純は児童文学が大好きなのに、児童の純粋な心を忘れちゃってるのかなあ?」


 茜が小首を傾げる。


「そう言うが、名作の児童文学には、大体、人生の残酷な部分がちゃんと描かれているだろ。で、そこから子供向けのキラキラした部分を引いたのが現実だ」


「そうなの。じゃあ、純にとって、世界も、夏の由比ヶ浜みたいにクソ? 舌打ちしたくなっちゃう?」


「ああ――いや。由比ヶ浜は、夏以外は好きだ。だから、人生はそれ未満だな。いわば、『常夏の地獄』って感じか?」


 俺は水平線のその奥をみようと目を細める。


 すぐに断念して近景に視線を映せば、夕陽の光線が貝殻の破片に反射して、雲母のみたいに輝いていた。


「うーん。とにかく、純の人生には辛いことがいっぱいみたいだね。じゃあ、もし、今、私が純の世界観を、ネガティブからポジティブに変えられたら――『世界も悪くないじゃん』って思えるくらいにできたら、私と付き合って。恋人同士になろう」


「いいだろう。やれるものならやってみろ」


 俺は茜を挑発するように言った。


 絶対、無理だと思ってた。


 俺が十六年以上かけて積み上げてきた価値観を、こんなわずかばかりの時間でぶち壊すなんて。

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