第14話 回想 猫の死体とメッセージボトル(1)
俺が茜と出会ったのは、高校一年の八月。
報道特番が組まれるくらいの大型台風が、本州を直撃した日のことだった。
当然、七里ヶ浜の海も大荒れ。しかし、大波目当てのサーファーも裸足で逃げ出すようなその悪天候が、俺の目的にとっては好都合だったのだ。
堤防を背にした俺は、猫の死体を抱えていた。
雑種のキジトラで、エメラルド色をした、美しい瞳を持ったメスだった。
名前は、サバミ。サバっぽい毛色をしていた。
正確な年齢はわからないが、三歳くらい。
野良猫なら普通だが、飼い猫としては短すぎる一生だった。
日頃は嫌になるくらい元気な癖に、拾った時の状況が状況だったのか、虚弱体質なところがあり、たまに思い出したように大病をする厄介な奴だった。こいつのせいで、何度学校を休むはめになったか分からない。ただでさえ、『仕事』のせいで休みがちな俺を散々困らせてくれたが、それ以上にかわいい奴だった。
初めての『安心』という感情を与えてくれたのが譲二なら、初めての『楽しい』を教えてくれたのはこいつだった。
でも、もう死んだ。
死んだ奴は生き返らないから、送ってやらなければならない。
サバミの胴体には麻製のロープが結び付けてある。
こいつを砲丸投げの要領でぶん回して、遠心力で海に投げ入れるつもりだった。
いつもなら、他の人間が回りにいっぱいいて、下手したら通報されかねないが、今日ならいける。
(じゃあな)
俺は、サバミの額に、俺の額をくっつけて、最期の挨拶をした。
意を決して堤防から背を放し、砂浜に飛び出した――その瞬間。
ジャキ。
ジャキ。
ジャキ。
暴風に紛れ、俺以外の誰かが砂を踏みしめる音が聞こえた。
傘が無意味なほどの豪雨は、靄みたいに白く俺の視界を覆う。
それでも目をこらして見れば、ぼんやりとレインコートが見えた。
体つきや雰囲気からしておそらく若い女だが、顔まではわからない。
(チッ)
俺は舌打ちして、女から距離を取った。
サバミを隠すように抱きしめて、女に背を向けて、堤防と向かい合う。
行くなら早く行ってくれ。
だが、俺の願いに反して、女の足音は途中で止まってしまった。
「はっ!」
女が短く息を吐き出す。
「フッ。はっ!」
また吐き出す。
「おっかしいなあ! 何回やっても戻ってきちゃう!」
幾度も同じ呼吸を繰り返してから、女は焦ったような声で叫んだ。
一向にいなくならない。
業を煮やした俺は、仕方なくサバミを砂浜に置き、ロープを入れてきたビニール袋を被せて、とばされないように流木で端を押さえる。
それから、何気ない風を装って、女に近づいて行った。
「何やってるのか知らないが、手伝うぞ」
普段なら、俺とて初対面の相手に敬語を使う程度の常識は持ち合わせているのだが、その時はいらいらしていたので、ついため口になった。
さっき吐いたセリフも、当然、ただの善意からの申し出ではなかった。この女には、さっさと用事を終わらせてもらって、静かににサバミを送らせて欲しかった。
「あっ。えっと、君は、久世くん! びしょ濡れだけど大丈夫?」
女は一瞬、傘もレインコートも着ずに、全身びしょ濡れの俺に驚いてぎょっとしたような表情を浮かべたが、やがてそれは心配の色に変わる。
レインコート越しでも分かる、彼女のタマイシの輝きが、淡くゆらめいた。
(空海 茜か)
顔が見える距離まできて気が付いた。
クラスメイトにあまり関心がない俺でも、さすがに彼女の名前は知っていた。
色恋沙汰のくだらない噂が嫌いな俺の耳にも入ってくるくらいに、彼女は学校一モテるという噂の美少女だった。
「ああ、たぶんな。それよりも、どうしたんだ?」
「あのね。これが、何回投げても、波で戻って来ちゃうの」
茜は、缶ジュースくらいの太さのメッセージボトルを掲げて、俺に見せつけてくる。
「それ、今じゃなきゃだめか? もっと天気のいい日にやれよ」
「ダメだよ! もし晴れの日に投げて、知り合いの誰かに回収されて中身を読まれたら恥ずかしいでしょ!」
「そんな恥ずかしい内容の手紙をメッセージボトルに入れたのか?」
普通、メッセージボトルって、『私は日本の神奈川県に住んでる○○です。よかったら文通しましょう』くらいのものじゃないのか。
「誰にも言えない愚痴ってあるでしょ。でも、どこかに吐き捨てなきゃいられない気持ちが」
今時、珍しい奴だ。
タマイシの普及したこの社会では、『誰にも言えない愚痴』は存在しないことになっている。
『言いたいことがあるなら直接言えばいい』。
そんな正論じみた暴論がまかり通る昨今だ。
「匿名ネット掲示板か、裏アカで呟けば?」
それでも、やはり人には面と向かって言えないことがあるので、少ないながら、そういう場所は存在する。
世間的には、匿名で悪口を書き込むのは、いわゆる『タマナシ』だけだということになっているのだが。
「そういうのは好きじゃない。私の書き込みを見た人がいやな気持になるかもしれないから」
「裏アカで、鍵かけりゃ問題ないだろ」
「何かの拍子にバレちゃうかもしれないじゃん」
「それなら、メッセージボトルはどうなんだ。誰かに見られるための物だろ、それ」
「そうなんだけど、一度海に投げた言葉は、私のものじゃなくなるから。その、海は途方もなくおっきくて、みんなのものだから。それに、こう、実際に書いた文字の方が、気持ちがこもるでしょ。だから、ぎゅっと気持ちを込めて、私の嫌な部分を海にもっていってもらうの」
茜は身振り手振りでそう力説する。
分かるような、分からないような……。
「知らんけど、だったら海に向かって、今叫んだ方がすっきりするぞ。多分そっちの方が気持ちもこもる」
「誰かに聞かれたくないもん」
茜はすねたように唇を尖らせた。
「この台風だぞ。誰も聞いてないし、聞こえない」
「キミがいるじゃん」
「じゃあ、俺はどっかいくから、思う存分叫んで、さっさと帰ってくれ」
「なんでそんなに私を急かすの?」
「俺にも一人でしかできない用事があるんだよ。はっきりいえば、空海さんがいると邪魔なんだ」
「用事ってなに?」
「それを俺が言う義務はないだろ」
「えっ! あるよ! だってずるいじゃん。私はもう全部話しちゃったのに、久世くんだけ秘密なんて」
心外そうな顔をした茜のタマイシが、紫色の強烈な光を放って揺らめく。
「そんな勝手を言われてもな……ってヤバ」
バタバタバタ!
そんな問答をしている内に、サバミを覆っていたビニール袋が強風に煽られる。
駆けだした俺は、吹き飛びかけたビニール袋を、消失寸前の所でキャッチした。
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