第9話
十八
部屋に戻ったうさぎは、無意識のうちに浴槽に湯をはっていた。
腹の虫は治まっていたが、納得した訳ではない。警察が躍起になり捜しても、金で依頼する裏社会の仕組みに阻まれるに違いない。よしんばたどり着けたとしても、証拠が無ければ摘発に至らないだろう。諜報部員が絡んでいれば、政治の介入で雲の藻屑に消えてしまう。
想像の世界に標をつけるには、血の巡りを良くするに限る。職業病に良いとされる、寝た状態の浴槽が功を奏していた。意味も無く没頭して溺れかけたことのある広い浴槽が、うさぎにとっての憩いのひとつである。浴槽に浸かり瞑想に堕ちていた。
川井遥との出会いは、一昨年前の猛暑日のことである。一杯のアイスティーで長時間屯せる場所に避難している。行きつけのサンマルクカフェは、仕事場というよりも憩いの場所である。
比較的に人の多いブレーメン通り商店街を眺めることで、現在の情勢を知ることが出来る。買い物の量ではなく、着ているものや表情に重きを置いて観察していた。見栄っ張りの日本人は、普段着にも趣向を
「なにを
うさぎは『どうせ冷やかしだろう』と高を括っていた。気配を殺す術すらも、気に停まらなかった。
「宜しかったら、どうぞ」
暇潰し程度の軽い気持ちで、隣の席へ手を差し伸べた。
「執筆のお邪魔をするつもりではありません」
『ならば、声を掛けずに盗み見れば良い』
どういう了見か見定めるつもりで目を向けた。刹那に溢れ出す生唾を『ゴクリ』と呑み込んだ。
「売れない小説家の駄作に興味を持って戴いたのに、乱雑な対応をして申し訳ありませんでした」
意に介さずに発していた。
「川井遥と申します。うさぎ赤瞳先生のお邪魔をする気は毛頭ありません」
「先生なんて滅相もありません。うさぎと気軽に呼び捨てて下さい」
「うさぎさんのご厚意に甘えさせて頂き、しばしの歓談をさせて戴きましょうか」
「私の方こそ、川井さんのお相手ができるなんて、光栄です」
「勘違いを望みませんので、始めに言っておきます。私が気になったのは、学生さんたちでさえパソコンを使う時代に、手書きを課している理由です」
「学歴のない私が作家を目指すなら、辞書の暗記ぐらい課さなければ追いつけませんですからね」
「そういう気持ちを持ち続ける努力が大事なのでしょうね」
少しづつ距離を縮め、境界線を会わせることにした。若者たちはその場の空気感に酔い痴れて距離を縮めがちである。良好な関係を築くには、相手を知る必要に迫られる。大人の嗜みを構築するには、それなりの経験が伴うからである。
「うさぎさんは、なにを認めているのかしら」
「人が生まれた理由を
「人は人でしかありませんですがね」
「神々の真実を知ると、人は変わります」
「個性は尊重するものですが、主張している方々が多いですからね」
「言動の自由と重ねることで、誤解したままになっています」
「必要と不必要を自身の線引きで、追い落とすからですかね」
「今と未来の境界線は紙一重(
「神々と取って代わるつもりなのでしょうかね」
「神々が人に甘い理由は、実体と非実体をうやむやにしたからです」
「神々がうやむやにしたのですか」
「一部の人間に、称号を与えてしまいました」
「それは標の為ではないかしら」
「無限大を目指す人の欲が、標を誤魔化します」
「知ってる風な言い廻しですね」
「ブラックホールで再生(リスタート)するから、無限大を目指すのでしょうね」
「矛盾や理不尽は、思いから始まりますよね」
「それですら、感性母さんの想いと類似した理由に思えます」
「うさぎさんの理念は、宇宙空間の潤沢とお見受け致しましたが」
「地球上の生命体が手本にするものは、始まりからの経験しかありません」
「儚きことが良きことでしょうか」
「人が観る夢が欲である限り、儚さが付き纏います」
「元素還元を恐怖と感じない理由ですね」
「御霊を消滅させられないことが、始まりだと考えます」
「親心に甘えて、我が儘に至っていますよね」
「
「それは何故でしょうか」
「過去・現在・未来が、一筋と考える概念のせいでしょうか」
「
「規則(ルール)の元がぶれたのかも知れません」
「始まりがあやふやだからぶれるのでは?」
「こうやって振り出しに戻る妄想が、観られなくなりました」
「夢を観なくなったことは確かですね」
「心を無くしたからでしょうね」
「人は目に映るものでさえ錯覚しますからね」
「見えないことの恐怖を忘れてしまいました」
「進歩・進化・覚醒が齎した落とし穴ですかね」
「その落とし穴ですら、時空の扉は異次元空間(タイムスリップ)へと、刻み続ける理由を履き違えています」
「愚かですね」
「甘い考え方は、未熟者の考えと割り切れないのでしょうね」
「うさぎさんが、ご自分に厳しい方としても、それを他人に強制できませんよ」
「するつもりはないです」
「なら、なにも変わりませんね」
「だから、絶滅危惧種に据えられたことを知ろうとしないのでしょうね」
「それで良いのですか」
「駄目ですよね? 人生死ぬまで勉強、と言ったご先祖様も、苦悩の日々を送ったのでしょうからね」
「繰り返すのが人、ということですね」
「懲りないですからね」
川井が、遠くを見据えていた。
「島国の日本に足りないものはなんでしょうか?」
川井が、ぼそっと呟いた。
「備え、でしょうか」
「人それぞれになってしまいますよ」
「白亜紀・ジュラ紀、恐竜の時代が終わることを、予想できたものは居ないはずです」
「終わる理由ですか」
「終わりなき御霊に、終焉を教える為のリセットでしょうね」
「恐竜に、魂が存在した、と考えるのですか?」
「一寸の虫にも五分の魂がある。と言いますからね」
「魂があったとしても心があった、とはなりませんよ」
「多分ですが、生命体の始祖時代には、心が存在していません」
「何故でしょうか」
「動植物の連鎖が構築されたばかりですからね」
「単細胞生物が微生物に進化した許りで、そこまで仕組みが確立されていない、というのですね」
「弱肉強食という連鎖から生まれたものが、心と考えると辻褄が合います」
「連鎖=循環、と見るのですね」
「弱肉強食=悪循環、と見ると、柵み=落とし穴、となります」
「なるほど」
「循環を地球上だけと見ることは、愚考の極みです」
「何故でしょうか」
「歪な内部に充満する液化排泄物(マグマ・マントル)も流れを帯びています」
「その理由は」
「地震災害が起きる原因だからです」
「なるほど」
「中学生の時に、地球の断面図を見て、疑問を持ちました」
「地殻をマントルが包み、その周りをマグマが包む断面図ですね」
「CGを使えば、歪な形状を創り出せます。プレートの飛び跳ねは、円を基準に考えるべきでしょう」
「一説ではなく、定説にする理由が
「間違えることは悪くありません」
「未完成である以上、当たり前になりますね」
「詫びないことが悪になります」
「自尊心を持つことと、それをひけらかすことの違いを弁えていない、となりますね」
「なんの役にも立たないことに、恐らくですが気付いています」
「そういうことを、『たちが悪い』と言うのですからね」
「震災のメカニズムも同様です」
「先ほどの流れが衝突して起こす揺れ。ですか」
「鉱物(プレート)の厚みすら、測定できていません」
「科学的解明に至らない理由は、なんでしょうか」
「地球上の学識は、結果から導き出したものです」
「確かに、進歩は目覚ましいですよね」
「物理的に無理。科学的に無理。と言われるものが、未来に創られます」
「今は無理を永遠に無理と教えています」
「ノーベル博士。ニュートン博士。パスカル博士。ガリレオ博士。貴台の名伯楽たちが全てを物語っています」
「他にも多くの賢者たちが、生涯を
「権威を嵩にする者にとっては、目の上のたん瘤でしょうね」
「うさぎさんにとっては、権威を博する者が、正にそれなんですね」
「お金でお他人様を亡き者に! 卑劣極まりないことですよね」
「だから、文字として残すことに拘っているのですか」
「あわよくばでしかありません」
川井が微笑みで包んでいる。
うさぎ自身、膿とも思える蟠りを吐き出して、表情に自信を持ち直している。
「先ほどお伺いした流れを
川井は言うと、席を立った。その仕草に、精魂は魅入られ、刻まれた記憶に疑問を潜ませていた。うさぎの方が、名残を残して終っていた。
川井は振り返ることもなく、妖艶な空気だけを残し去って行った。
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