其ノ95 記憶の彼方の名

 あれはなんだったのか。

 翌朝目覚めると、きちんと自分の布団の中にいた。だから夢のような気もする……のだけれども。

「美女系男子が鏡から出てきたとことか、妙にリアルだった……」

 もしも夢じゃないとしたら、オカルト番組でドラマ化されていいレベルの怖さだった。っていうか、そういえばあの美女系男子、わたしの名前を知ってたんだった。ってことは?

「わたしもあの人のこと知ってるけど、忘れてるんだ。鷹水さんのことみたく」

 そんで、髪がどうのとかも言ってた気がする。

「……わからん。さっぱり思い出せない……!」

 ぼさぼさの髪でのっそりと起き上がり、自分で書いた「雨市」の名を見つめてみる。

「……ういち……ういち……」

 這うみたいにして部屋を出、洗面所に向かう。その間、謎の名前を頭の中で繰り返していると、今日も朝から掃除をしている鷹水さんに出くわした。

「お、おはよう……です。掃除とかしてもらって、いつもなんかすんません」

「おう。俺の仕事だ」

 そう言うと、バケツを前にして玄関にしゃがみ、雑巾を絞る。鷹水さんの体調は昨日よりもよさそうだ。でも、そう見えるだけかも? 実際はどうなんだろ……と洗面所のドアに手をかけたまま鷹水さんの挙動を観察していると、目が合ってしまった。

「なんだ?」

「いや、その……体調はどーなんかなって、思って」

「まあ、ぼちぼちだな」

 うつむき加減にぼそりと告げ、下駄箱を拭きはじめる。

「ち、ちなみになんですけども」

「おう」

「昨日、なんかおかしな夢を見たんすけど……」

 鷹水さんは下駄箱の上のコケシをよけて、ぐるぐると手を動かしながら、ちらりと無言でわたしを見る。

「か、鏡から、めっちゃ美人なイケメンが出てきた夢なんすけど……」

 鷹水さんの表情が、一瞬曇った。

「……ただの夢だろ。忘れろ」

 なにげなさをよそおっている鷹水さんの態度に違和感を覚えたものの、わたし自身も夢なのか現実なのかあいまいなので、それ以上突っ込むのはやめにした。それに、あの美女系男子と知り合いかと訊ねたところで、鷹水さんはきっと答えられないに違いない。なんにもしゃべってはいけないという謎の賭けルールのせいで。

 しかし眠い。あくびをして目をこすり、ふたたび、ういちういちと脳内でリピートしながら、ドアを開けようとしたときだ。うっかり声に出てしまった。

「……ういち」

「おう」

 ――ん?

 ドアを引いた格好で固まり、鷹水さんを見た。雑巾を手にした鷹水さんも、なぜか苦い顔で動きを止めていた。

「え?」

 いま、返事しましたよね(しかも、ものすごくナチュラルに)? 

 顔をそむけた鷹水さんは、雑巾をバケツに放り投げた。

「……えっ、あれ? いま返事的な……?」

 鷹水さんは無言でバケツを持ち、下駄を脱ぐ。そうして、さっさとわたしのうしろを過ぎた。

「俺はなんも言ってねえぞ。寝ぼけた空耳だろ」

 そうかな? まあ……そうかも?



 ♨ ♨ ♨



 朝食前、ジョギングの帰りに例の林に入る。

 あの日、自分が背にして立っていた大木をぐるりとまわって見てみたものの、根のあたりに大きなくぼみがあるだけの、なんのへんてつもないただの木だった。もちろん、まったく思い出せない。

 その日は午後まで、鷹水さんと父さんの読経をBGMにして自室にこもり、坂で拾ったスリッパを眺めつつ、延々と自分の記憶を探った。でも、なにかが浮かんでくるはずもなく、昼ご飯を食べてからふたたび林に行くことにする。ずいぶん長い時間をそこで過ごしたというのに、はっとするような出来事も起こらず、とうとう落ち込んでしまった。

「……なんか、ダメかも」

 思い出せないかもしれない。肩を落として家に戻ると、父さんの靴も鷹水さんの下駄もなかった。一緒に出掛けたらしい。

 気落ちしたまま本堂に向かう。こじんまりとした本堂の、これまたこじんまりとした金ピカな仏像を前にして正座し、何度もため息をついてしまった。

 だいたいさ、どうして寺に魔物があらわれた? それに、わたしは寺の娘だ。その娘がどうして生きたまま、極楽ならまだしも地獄くんだりまで行ったんだろ。

「……地獄なんか真逆じゃん。うちが目指してる世界観的に」

 おだやかに目を伏せる仏像は、もちろん答えてくれない。まあ、答えられたら答えられたで恐怖だけれども。

 ひやりとした畳が心地よく、リアルすぎる昨夜の夢のせいで寝不足だったのか、だんだんと眠気におそわれてくる。静けさもあいまってどうにも眠くなり、座布団をふたつに折って枕にし、大の字になって寝転がった。

 格子状の窓から射し込む午後の光をまぶたの裏に映しつつ、深い眠りに入りそうになった直前、ふわりとなにかが身体にかけられた感触があった。はっきりしない意識でまぶたを閉じたまま、もぞりとそれに触れる。タオルケットだった。

 ――父さん?

 薄くまぶたを開けると、父さんじゃなかった。

 ぼんやりとした視界の先にいたのは、スーツ姿で中折れ帽をかぶった人物だった。

 ――檀家さん?

 それにしては、どことなく古い感じがする。まるで、大正か昭和初期頃を舞台にした朝ドラの人みたいだ。

 その人物は、立ってこちらを見下ろしていた。でも、目深にかぶった帽子のつばが邪魔をして、顔はよく見えない。その顔、ちゃんと見たい。睡魔で朦朧としながら上半身を起き上がらせると、その人物はもういなかった。代わりに目に映ったのは、本堂を出て行こうとする鷹水さんの背中だった。

「……鷹水さん?」

 はっとしたとたん、目が覚めた。慌ててタオルケットをつかみ、本堂を出る。廊下を歩く作務衣姿の背中を呼び止めると、鷹水さんが振り向いた。

「あ、あの! なんかいま……ってか、父さんと出掛けたと思ってた」

「和尚は出掛けてる。俺は墓のまわりを掃除してた。これから晩飯の支度をする」

 それだけ言った鷹水さんは廊下を進み、居間に入った。

 あのさ、鷹水さん。いまさ、スーツ姿の人が見えたんだよ。それも夢かもだけどさ、鷹水さん、もしかしてその人のことわかったりする? 追いかけてそう訊ねたい衝動にかられたとき、家電が鳴った。

 台所に立つ鷹水さんの背中を気にしつつ、受話器を取る。カガミちゃんだった。

 図書館で岩佐くんと待ち合わせし、勉強したあとでいろいろしゃべったとのろけられた。

『そんでさ、お祭りの日、御影町まで車で行けるよ! バスとかめっちゃ混むから、車のがよくない?』

「え、車?」

『うん。岩佐くんのお姉さんって郵便局に勤めてんだけどさ、その日彼氏と車でお祭りに行くから、御影町まで一緒に乗っけてくれるって。キャンプ好きな彼氏だから、めっちゃでかいバン乗ってんだって。あんたの家まで迎えに行くからさ、一緒に行こうよ。あ! あとさ、ママの友達が風邪ひいたらしくて、温泉キャンセルしたって言うから、浴衣の着付けは大丈夫んなったよ! そんなこんなで、お祭りの土曜日迎えに行けるけど、どうする?』

 どうする?……って訊かれても、どうしよう?

「……うーん、どうしようかなあ」

 結局、鷹水さんを誘えていないから、ぼっちで行くことになる。カガミちゃんと岩佐くんの邪魔はしたくないし、出店の間をぶらぶらしてやることといえば、歩き食いにせいぜい金魚釣り。ひとりでぶらついてもそれなりに楽しめそうではあるけれど、ぶちゃけ気になることが多すぎて、正直お祭りどころじゃねえんです……!

「……お祭りかあ」

 思わず声にしてしまった瞬間、視線を感じてとっさに顔を上げる。

 鷹水さんが振り返り、こちらを見ていた。目が合ったとたん、鷹水さんははっとしたように顔をそむけ、料理を続けた。と、受話器からカガミちゃんの声がひびいた。

『ま、考えといてよ。あとさ、あたしと岩佐くんの邪魔するかもとか、そういう気遣いはしなくていいからね! そんじゃねー』

 電話が切れた。そうは言われても、やっぱその場の空気は読むよ! 

 受話器を置きながらため息をもらしたとき、

「祭りがあんのか」

 鷹水さんが言った。

「え? あ、うん。毎年恒例、御影町の神社のお祭りがありまして」

「いつだ」

 鷹水さんは、鍋をコンロに置いて火を灯す。

「来週末の土曜日と日曜日。一番盛り上がるのは土曜日かな。花火もあがるし」

 一週間後か、と聞こえるか聞こえないかの小さな声で、鷹水さんはつぶやく。コンロのつまみをひねり、弱火にしてから鍋に大根を入れ、次に米を研いだ。

「誰かと行くのか?」

 それが問題でして。

「友達と……だけど、邪魔したくないっていうか」

「なんで邪魔したくねえんだ?」

「付き合ってる男子がいるから、そこにわたしが入っちゃったら邪魔かな……みたいな」

 鷹水さんは研いだ米をザルに入れてから腰をかがめ、土鍋を取り出してコンロに載せた。あれ?

「今夜はお鍋?」

「そうじゃねえ、飯を炊くんだ。米は研いだばっかりだから、まだ入れられねえけどな」

「え、炊飯器使わないの?」

「そいつの使い方がわからねんだよ。米は毎朝和尚さんが炊いてくれてたけど、今夜の分の残りが少ねえから、俺がこいつで炊く」

 土鍋でお米を炊くなんて、はじめて見る。いや、はじめてじゃない気もする? 誰かがそうしていたような覚えもあるけど、テレビで見ただけかもしれない。コンロに近づいて土鍋を見下ろすと、鷹水さんはわたしの横で、まな板と包丁を洗う。そうしながら、ふいに言った。

「一緒に行ってやろうか」

「――えっ?」

「和尚がいいっつったらだけどよ。行きてえんだろ、祭りに」

 そもそもはそれが、目的だったんだけども!

「い、いや、それは浮気的なことになるっていうか!」

 はあ、と鷹水さんは苦笑する。

「いいんだよ」

 蛇口をひねって水を止め、流し台に両手を置いてわたしを見た。

「いいんだ」

 は?

「い……いやいや、よくないでしょ!」

 鷹水さんは片目を細め、皮肉っぽく笑う。

「じゃあ、こういうことにしとけ。昔はそういう娘がいた。けど、いまは違う。だから浮気なんかじゃねえよ」 

 それは、別れたってことなんだろーか。ただの屁理屈みたいにも聞こえなくもないけど?

「それは、つまり……?」

「つまり、どうもこうもねえよ。あんたと祭りに行ったところで、それが浮気になるわけねえって言ってんだ。それともなにか、俺と行くのが嫌なのか? 嫌ならかまわねえよ、好きにしろ」

 嫌ではない。

「う……浮気的なことにならないっていうなら、べつに嫌じゃないです……」

 鷹水さんがにやりとした。

「じゃあ、いいじゃねえか」

 どうにもうまいこと言いくるめられた気がしなくもないけど、ヤバい。めちゃくちゃ嬉しい! うつむいて、にやにやしてしまった。いや、にやにやしてる場合じゃなかったんだった!

「そうだ。さっきさ、その……タオルケットをどうもでした」

「ああ、冷えるからな」

「でさ、その……」

 さっき目にした人物について、なにげなく訊ねてみる。

 鷹水さんはわたしに背を向けて冷蔵庫を開け、「幻だろ」と答えた。その声が、なんでか振り絞るように聞こえたのは、わたしの気のせいなんかじゃない。なぜか、そう思ったのだった。



 ♨ ♨ ♨



 昨夜見た夢のことは、気にしないことにした。

 とはいえ、もしもまたあの美女系男子が夢にあらわれたら覚えていられるように、枕元にノートを置いて布団に入った。眠る態勢はばっちりととのっているというのに、興奮しすぎてて眠れそうにない。

 くっそヤバい。わたし、鷹水さんとお祭りに行けるんだ!!

 ふふふと布団の中でにやけた瞬間、ふとリョーちゃんの言葉を思い出してしまった。


 ――せいぜい祭りの夜を楽しみにしておけよ。


 父さんはきっぱり断ったし、あれ以来大福もリョーちゃんも訪れていないけれど、なにをするつもりなのか不気味すぎる。それに、衣心の「あいつはもう長くない」みたいな捨てぜりふと、昨日の鷹水さんの様子が脳内でぐちゃぐちゃに混ざりあって、何度も寝返りをうってしまった。

「……っつか、喜んでる場合じゃなかった」

 このままじゃ、鷹水さんは謎の賭けに負けてしまう。わたしが思い出せないせいで!

 眠れそうにないので、諦めて部屋の電気を点ける。時計を見ると、午前二時だった。

 廊下に出て、正面の障子を見る。それにしても、昨日の夢はすごかった。そっと障子に耳を寄せると、なんの物音もしない。鷹水さんは眠ってるみたいだ――と、玄関の戸がほんの少し開いていて、坂道を照らす街灯がもれていた。あれ、なんだろ。

 玄関に行くと、鷹水さんの下駄がない。部屋で眠っていたんじゃなくて、外で煙草を吸ってるのかもしれない。そう思うのに、胸がざわめく。どうにも気になってサンダルをつっかけ、外に出た。

 木々の葉が、風に揺れていた。月はなく、星の光はやけに薄い。

 そっと裏手にまわると、鷹水さんがいた。うかがうように建物の角から顔を出し、しゃがんで煙草を吸っている鷹水さんを見守る。すると突然、前のめりに身体を縮めた。

 指から煙草が落ち、地面に手をついて軽くうめく。頭を垂れて四つん這いになると、黒いもやのようなものが地面から立ちのぼって鷹水さんを包んでいく。

 鷹水さんは邪魔だとでも言うかのように、頭を大きく左右に振った。そうして頭を上げるやいなや、四つん這いのまま獣のように、いっきに駆け出した。

 墓の間を駆け抜けて地面を蹴ったとたん、人の姿から翼を広げた鳥になり、闇夜に消えてしまった。

 それは、まばたきほどの出来事だった。

 夢じゃない、たしかにこれは現実だ。おどろきのあまり立っていられなくなり、建物の壁に手をつく。

 とっさに思う。

 もしかすると、鷹水さんは。

「……きっと、たぶん」

 人の姿でいられる時間が、短くなっているんだ。

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