第8話 奴隷生活。
悠李がニールの体に転生して五日、そしてリリアの奴隷となって二日。
朝食後。
セントアーベル魔法学園へと通学していったリリアを見送った後で、ニールとエミリアと二人で屋敷の廊下を歩いていた。
「ふぁー」
目の下に隅を作っていたニールは大きく欠伸した。すると右隣を歩いていたエミリアが覗きこむようにして問いかける。
「大丈夫ですか?」
「すみません。昨日なかなか寝付けなくて」
「まぁ、新しい環境で寝るのはなかなか難しいですからね。今日のところは見逃しますが……明日からはちゃんとしてくださいね」
「はい……」
肩を落としたニールは頷き答えた。
あぁ。もう眠い。朝から眠すぎる。
今日から仕事だと聞いていたのに……。
昨日は全然眠れなくて、羊を一万頭も数えてしまった。
俺は寝るの得意なはずなんだが。
いや、まぁ……リリアお嬢様ほどの美少女と同じベッドで、目の前に美少女の顔があるというのは……。
緊張してなかなか寝付けないのも無理ないかな。
今日はちゃんと眠ることができるだろうか?
ニールが憂鬱そうに考え事をしていると、ニール達の進行方向から一人の執事服を着込んだ初老の男性が向かってきた。
エミリアが向かってくる男性に声をかける。
「ジルさん。おはようございます」
「はい。おはようございます。エミリアさんと……そちらは」
初老の男性……ジルはエミリアから隣にいたニールへと視線を向けた。エミリアがニールの肩にポンと手を置いて答える。
「こちらはニール君です。今日から私の部下としてリリアお嬢様専属の使用人の一人として働いてもらうことになったのです」
「聞いていますよ。お館様がこぼしておりました。しかし、男の子と聞いておりましたが……なぜメイド姿なのですか?」
メイド服のことを指摘されたニールは渋い表情を浮かべた。
ジルの言葉通りニールはエミリアが持ってきたメイド服を着て、朝から過ごしていたのだ。
「ふふ、本当に残念なことに……着る服がこれしかなかったのです。しかし、凄く似合っていて可愛いですよね?」
「そ、そうですかな。確かに似合っていますな。男の子には思えなかった」
「そうでしょう。そうでしょう。お嬢様もそうおっしゃられていました」
ジルはニールを品定めするような視線を向けた後、エミリアへと視線を向けて口を開く。
「……私はお嬢様に話をしたくて、お嬢様の自室にまで行こうとしたのですが遅かったですかな」
「ええ、先ほどセントアーベル魔法学園へ通学されましたが」
「そうですか。では、貴女からもお嬢様に言っていただけないかな?」
「はい?」
「彼の……ニール君の事ですよ」
「ニール君の?」
「ええ、私はいくら女の子に見える男の子だと言え、リリアお嬢様の近くに男を置くのは反対したい」
「ジルさんは本当にリリアお嬢様を大事に思われていますよね。お館様にも匹敵する親馬鹿です」
「そ、それは奥様のお嬢様ですから。当たり前ですよ。それより……」
「ふふ、リリアお嬢様はかなりニール君を気に入られていますから、追い出すのは難しいですよ?」
「いや、追い出すことは考えてはいないですよ。リリアお嬢様が気に入られているならこの屋敷で執事見習いとして勤めればよいではないですか。何もお世話係として、そばに置いておく必要は……」
「んーどうでしょう? リリアお嬢様はニール君にそばにいて欲しいと考えているかと」
「そうですか……」
ジルは難しい表情を浮かべた。そして、少しの沈黙の後で、スタスタとニールの前にやってきた。
「ニール君」
ジルがニールの名前を口にするとしゃがみ込み、肩をガシッと掴んだ。そして、視線を合わせ……ニールをギロリと睨み付けた。
突然のことでニールはビクンと体を震わせる。
「えっ」
「よいかな? リリアお嬢様に手を出したら分かっているだろうな? 私がどこまでも追ってやるからな?」
「は、はい!」
ドスの効いたジルの問いかけにニールはペコペコと頷いた。
ニールの返事に満足したのか、ジルはすぐに睨むのをやめた。
そして、温和な笑みを浮かべて、ニールの両肩をポンポンと叩く。
「それを理解しているならよいのです。そうそう……君の服ですが執事見習いの服が余っているので数着貸しましょうか?」
ジルの提案に、エミリアが首を横に振って答える。
「それは大丈夫です。ニール君のメイド服姿、すごく似合っていますから必要ありません」
「ちょ、ちょっと待ってください。その執事見習いの服は貸して欲しいです」
執事見習いの服をいらないというエミリアに対して、ニールが執事見習いの服が欲しいと口にした。
「えーそのメイド服脱いでしまうのですか? すごく似合っていますのに」
「いや、いくら似合っていてもスカートは嫌です」
「そうですか。残念です」
エミリアはニールのスカートは嫌だという言葉を聞くと、唇を尖らせて、どこか不満げな表情を浮かべていた。
ニールとエミリアのやり取りを見ていたジルはニールがメイド服を着ていた理由を察して苦笑する。そして、「では、執事見習いの服は準備しておきましょう。後で持っていきます」と口にして踵を返して歩いて行ってしまった。
ジルを見送りながらエミリアが小さく口を開く。
「ジルさんは死んでしまったリリアお嬢様のお母様の専属の執事でしたから、そのお母様の面影のあるリリアお嬢様を過保護なくらい大切に思われているので、悪く思わないで上げてください」
「大丈夫ですよ。ジルさんがリリアお嬢様を大切に思われているのは伝わってきたので」
「っと屋敷の案内を再開しましょうか」
ニールは再びエミリアの案内でリリアの屋敷を見て回り、その後大まかな仕事内容……リリアの部屋の掃除の仕方と紅茶の入れ方などなどの説明を受けるのだった。
あっという間に時間が過ぎていて午前中が終わって昼食を食べた後、シャロンにリリアの屋敷にある修練場に呼び出され護衛できるよう訓練を行うことになったのだが……。
「はぁーはぁー……」
ニールは修練場の床の上でまっすぐに突っ伏していた。
そして、息を荒くして額から汗を流し……床を濡らしている。
……シャロンに言われた通りストレッチから始まって修練場周りのランニングを三十周したところで……バタンッと倒れた。
「おいおい。まだ始まったばかりだぞ」
呆れた様子でシャロンがニールに近づいてくる。
シャロンはニールと同じく丈夫そうな生地のTシャツに黒いズボンを着ていて、二本の木刀を手に持っていた。
「すみません。はぁーはぁー」
ニールが足を震わせながら立ち上がる。シャロンはニールの腕を掴んでニールの立ち上がるのを手伝う。
「大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます。これくらいやった方が夜によく眠れそうだ」
「ハハ、それはそうかもな。繰り返し確認するが……リリアお嬢様には手は出していないんだろうな?」
「もちろんですよ」
「そうか。だと良いんだが……な」
「なぜ、皆、そんなに疑われるんですか?」
「今朝、リリアお嬢様のご機嫌ぷりが異常でな」
「そうでしたか?」
「……まぁ、いいか。では素振りをするか。ほら」
「は、はい」
ニールがシャロンから木刀を受け取ると、コクンと頷いた。シャロンは少し離れて、木刀を構えて見せる。
「素振り……とりあえず百本だ」
「え……」
三十分後。
ニールは修練場の真ん中でまっすぐに突っ伏していた。
「はぁーはぁー」
ニールは息を荒くして額から汗を流し……床を濡らしていた。更に両手がプルプルと痙攣するように震えていた。
その様子を目にしたシャロンは持った木刀でトントンと肩を叩く。
「だから、まだ始まったばかりなんだが……そんなんではリリアお嬢様を守ることはできないぞ?」
「……大丈夫です。ぐう」
「いや、初日にしては頑張っている方なのか? これは厳しいのか? 分からん」
「大丈夫……」
「少し休憩にしよう。こんなところで倒れられても困るからな。ちょっと待っていろ。水を取ってくる」
起き上がろうとしたニールを静止するとシャロンはその場から離れて行った。
ニールはゴロンと仰向けになった。
そして、修練場の天井を見上げてフーッと短く息を吐く。
う、応えるなぁ。
こんな体を動かしたのはいつ振りだろうか?
前世で強制参加だったマラソン大会だったかな?
あの時は一回ゴールした涼花が戻ってきて背中を押されて、何とか完走したんだっけな?
木刀を振ったのは……そうだ。修学旅行で行った奈良で買った奴で涼花にボコボコにされた時以来だったか?
ハハ、懐かしいな。アレ? なんだか視界がぼやけて……。
これは涙かな?
ふと、思い出すとくるモノがあるな。いや、思い出せなくなることの方が辛いか……っ。
女々しいな。俺は……。
よくよく考えてみろよ。涙を流すような出来事じゃなかったろうが。
ニールはシャロンが持って来てくれた水を飲んで、二十分ほど休んだ。
その後、ニールとシャロンは修練場の真ん中で向き合っていた。
「模擬戦をやる。木刀を構えろ」
「分かりました……しかし、模擬戦ってどうやったらいいですか?」
「私は実戦主義だからな。先ほどやった素振りを意識しつつ、好きに木刀を振るってきたらいい。特別に私が受けをやってやろう」
「いいんですか?」
「まぁ、最初だからな。……少し離れろ」
ニールとシャロンは少し離れて、互いに木刀を構えた。ただ、残念ながらニールの構えた木刀は刀身がプルプルと震えていたが。
シャロンが合図と共に模擬戦が始まったのだが……互いに動かずに木刀を構えているだけだった。
「……」
「……」
「ほら、来ないのか? どこから来てもいいんだからな」
眼光鋭くしたシャロンが痺れを切らせたように口を開いた。
「あ……はい。すみません」
ニールは謝ると少しふらつきながらも、シャロンへと向って歩き出した。
ユラユラと歩くとニールを目にしたシャロンはカッと目を見開いた。そして、考えるよりも先にタッと後方へと飛び去っていた。
シャロンの額からは汗を流して、顎先からポタンと床に落とした。
シャロンの様子をおかしく思ったのか、ニールは怪訝な視線を向ける。
「ん? どうしました?」
「いや、なんでもない」
シャロンは困惑していた。
今のは何だったの?
ふらふらしているだけにしか見えないのに。
ニールから何も感じなかった。
いや、目の前に居るのに何も感じなさ過ぎたと言うべき……。
一瞬、私の意識から外れた? 私の意識をすり抜けて近づいてきたと言うべきか?
目の前に居るから本来ありえないだろう。
シャロンが自問自答をしていると、ニールが心配そうに問いかける。
「えっと大丈夫ですか?」
「あぁ、好きに木刀を振るって来い」
「じゃあ、行きます」
ニールは木刀を構えて、シャロンへ向っていった。
それから、ニールとシャロンとの模擬戦が始まった。
模擬戦が始まって十分。
カンカンッと木刀同士がぶつかりあっていた。
ニールの表情は疲労から優れない。
ただ、対しているシャロンも表情は優れていなかった。
シャロンはニールから弱弱しく打ち込まれた木刀を木刀で受けて弾き返した。
だから、何なんなのだ。
いちいち反応が遅れる。
今の木刀の打ち込みだって、本来なら目を瞑っていても躱せるレベルなはずなのに……。
シャロンがそんなことを考えていると、近くでバタンッと何かが倒れる音が聞こえてきた。
シャロンは倒れた音が聞こえてきた方へと視線を向けると、そこではニールが突っ伏して倒れていた。
「はぁーはぁーごめんなさい。もう無理です」
「え、あ……そうだな。今日はここまでにしよう」
倒れたニールを目にしたシャロンはホッとした表情を浮かべて、肩から力を抜いた。
そしてニールの前で胡坐をかいて座った。
「なかなか面白い動きだった」
「そうですか?」
「あ、あぁ、どこかで習っていたのか?」
「なんのことですか?」
「気配を消していただろう?」
「気配を消す? え?」
「……無意識? 生きてきた環境からか? 独自のものか? まさに気配が消えていた。暗殺者が用いるような……気配操作だった。無意識やっているなら異質な才能だな」
シャロンは顎に手を当てて考えを巡らせながらブツブツと呟いていた。しばらくして考えを止めたシャロンが何かに気付いてニールへと視線を向けた。
ニールはいびきをかいて眠っている。
「くぅー」
「まったく、身体能力が貧弱だから才能を生かせていないようだが……まぁ、これは鍛えがいがあると言うことか」
疲れて眠ってしまっていたニールを目にして、シャロンは苦笑した。そして、ニールを抱きかかえる。
「さて、このままでは風邪をひいてしまうな……し、仕方ないな」
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