ドランクラバーズ

桜良ぱぴこ

ドランクラバーズ

「うええ……ひなちゃん助けてえ」

「カナさん、飲み過ぎです」

 行きつけの居酒屋近くの公園。わたしは女の子に連れられるかたちで、ようやく千鳥足を落ち着けることができていた。ベンチに腰掛ける彼女の膝に頭を乗せ、ぐるぐるする視界を遮りたくて目を閉じる。三寒四温で毎日安定しない気温が続く春先、今夜は特に寒かった。

「ひなちゃん、あったかいねえ」

「そんなこと言ってる場合ですか」

「うー」

 ついさっきまでは久々の酔いに気をよくしていたはずだった。頬が紅潮しているのが自分でもわかるほど、ふわふわとした心地で楽しくふたりで飲んでいた。ところが会計に向かおうと席を立った瞬間、急にぐらついて足取りがおぼつかなくなってしまった。必死に吐き気をこらえながら、なんとかたどりついたのがこの公園だった。

 ちょっとはしゃぎすぎたな、とぼんやりする頭で反省してみるものの、飲み口のよい日本酒をがんがんあおり、気が付けばハイペースで五合も飲んでいたのだから始末に負えない。いつもならまだ全然平気なのに、とひとりむくれてみる。

 ひなちゃんは優しくわたしの頭をなで続けてくれていた。あやされるがままに身を預けていると、なんだか急に甘えたくなって、ついつい猫なで声になる。

「ひなちゃーん、彼女さんに怒られちゃうねえー」

「ああ。とっくに別れたので大丈夫です」

「えええ! だって、最近付き合い始めたって言ってたのに!」

 ちょっとからかっただけのつもりでいたのに、衝撃の事実をあまりにもさらっと言ってのけるものだから、おもわず素っ頓狂な声が出た。対してひなちゃんは表情ひとつ変えず、もう終わったことです、とまるで記憶ごと突き放すように言った。

 わたしはなんだか悲しくなってしまって、ひなちゃん、と名前を呼んだ。ひなちゃん、がんばったんだね、って。

「私のことより、まずカナさんは自分のことを心配してください」

「……おっしゃるとおりです」

 まだ上体を起こせないほどべろべろになっていたわたしは、いっそのこと吐いてしまえば楽になれるかもと公園の端にある水飲み場に目をやった。けれどなぜだか、いまひなちゃんから離れてはいけない気がした。放っておけない、というのとは少し違うなにかがあった。

「ねえひなちゃん、わたしね、ひなちゃんのことだいすきだよ」

「なんですか、急に」

 酔っ払いの戯言だと軽くあしらわれて、それでもまだ頭をなでていてくれるひなちゃんの手は、とてもやわらかくて、そして優しかった。

 四捨五入すると四十、ついに三十五歳になってしまったわたしより、ひなちゃんは六つも若い。私だってアラサーですよ、なんてひなちゃんは言うけれど、そこここでかんじるジェネレーションギャップはやっぱりある。たとえば一緒にカラオケに行くとわたしの歌う曲が彼女の生まれ年だったり、懐かしいテレビ番組の話をしても通じなかったり、六つの差というのは近そうで遠いものなのだと思い知る。

 ひなちゃん自身は「そんなの誤差の範囲じゃないですか」と言ってくれるけれど、自分が歳を重ねるたび、二十代のころのような肌つやのよさや、なにもしていなくても若いというだけでちやほやされる時代は終わったのだ、といやでも痛感してしまう。


 ひなちゃんと出会ってからもう何年経ったろう。ふらりと入った飲み屋で、ひとりカウンター席で酒をあおる彼女が目にとまった。随分と若そうに見える女の子でもこういうお店に来るのだな、と興味本位で近付いてみた。

「隣、いい?」

「……どうぞ」

 一瞬だけ怪訝な顔を向けられて、そしてまた自分の手元にある串焼きに視線を落とすと、黙々と食べてはグラスに手を伸ばし、ときどきタバコに火をつけるという行為を彼女は繰り返していた。わたしはその一連の動作を横目でちらちらと見ながら、そこそこ飲んでいるようでも表情ひとつ変わらない彼女に、つい声をかけてしまった。

「お酒、強いんだね」

 彼女はこちらに目を向けることなく、静かに紫煙を吐き出しながら「ええ、まあ」とだけ答えた。

「お嬢さんいくつ? かなり若そうだなあとおもったのだけど」

「……いくつに見えますか?」

 この手の逆質問が苦手なわたしは一瞬怯み、そうねえ、二十代前半ってところかしら、と無難な答えを返した。整ったショートヘアのせいかおとなっぽくは見えるけれど、まだ顔にあどけなさがある。それにしては静かな佇まいと落ち着いた声。そのミステリアスさに不思議な魅力をただよわせる彼女は、少しだけグラスに口付けると、初めてこちらに向き直ってわたしの目をのぞき込んだ。黒目の大きな、はっきりとした二重がとてもきれいで、おもわずその瞳に吸い込まれそうになった。

「ハタチですよ」

 清らかな表情だった。このとき、自分の心が揺れ動いたようにかんじたことは否定できない。けれどそれがなにを意味するのかは、まだわからなかった。

「あなたはおいくつなんですか?」

 まさか彼女のほうから話題を振ってくるとおもわなかったわたしは、少なからず動揺した。

「ええっと、二十六になったばかり」

「そうですか」

 彼女はまたわたしから視線を外し、タバコに火をつけた。それを見たわたしも、つられてタバコを取り出した。自分のグラスが空になっていることに気付き、カウンターの向こうで串を焼いている店員に「日本酒お願いします」と頼んでから、「ぬる燗で」と付け加えた。そのやりとりを聞いていたらしい隣の女の子は少しだけ視線をよこし、「おねえさんもお強いんですね、お酒」とぽつりつぶやいた。

「うち、家系的にザルなの」

「うちもです」

 そうしてゆっくりと、ぽつぽつ会話を重ね、しばらく経ってからのことだった。

「私、失恋しちゃったんですよね」

「え?」

 あまりにもプライベートな話題に、どう返すべきか迷った。

「えっと……原因は?」

「恋人の浮気です」

 淡々と語る彼女の表情はやはりなにも変わらず、わたしはまた言葉に詰まった。こんな初対面の女の子に、あれこれ突っ込んで聞いていいものかしら。彼女が話を聞いて欲しがっているのか、それともふと漏らしただけのセリフだったのか、判断しかねていた。彼女の整った横顔はまっすぐ正面を向いていて、それがどこか遠くを見ていることだけが伝わってきた。

「名前、聞いてもいいですか」

 脈絡なく唐突に尋ねられたものだから、わたしはなんと言われたのかを理解するのに少々の間を要した。名前、名前か。

「早見……早見花菜、です」

「カナさん」

「はっ、はい」

「鈴原日向です。よろしくお願いします」

「すずはら、さん」

 オウム返しに名を呼ぶと、その日初めて、彼女の口元が緩んだ。

「ひなたでいいですよ。私のほうが年下なんですから」

 わたしも微笑み返し、ではあらためて、とお互いのグラスを傾けた。乾杯。同時にお酒を口にして、ふふ、と笑った。

 外は氷点下に迫る寒い十二月。でも店内はとてもあたたかく、お酒の勢いもあって、気分までぽかぽかしていた。

 ひなちゃんとの出会いは、そんな偶然から始まった。


 彼女が女の子としか付き合ったことがない、と知ったのは、飲み友達になってしばらくのことだった。それまで「彼氏」や「元彼」といった単語を使わずに必ず「恋人」と呼称することに特に違和感はなかったが、そうわたしに教えてくれたとき、妙に腑に落ちたことを覚えている。

 彼女の恋の話を聞いていると、なんだかいつもつらそうで、「別れました」「ヨリを戻しました」「やっぱり別れることにしました」と怒濤の展開があったり、「新しく彼女ができました」と言われてお祝いしたら、数週間後には「別れちゃいました」と報告を受けたりしていた。それでも見かけによらずひなちゃんは積極的に出会いを求め、とりあえずお茶しに行きますと言って出かけるものの、数日置いて「どうだった?」と聞くと「合わなかったです」とだけ聞かされたりもした。

 うまくいかないのはどうにも相手に難ありのようだとおもっていたが、それについてわたしは特に言及しなかった。ひなちゃんがちゃんとすきになって選んだ相手なのだから、そのひとたちを悪く言うことは憚られた。

 しかしあまり感情を表に出さない彼女でも、別れた直後は必ず「飲みに行きませんか」と誘ってくるので、ショックを受けているのに違いはなさそうだった。そんなときのふたり飲みは、静かなものだった。もともとひなちゃんははしゃぐタイプでもないし、いつも通りと言ってしまえば身も蓋もないのだけれど、ふたりで黙々と飲み続け、適当にお開きをして、じゃあまた、と帰って行く彼女の背中は、いつもより小さく見えた。

 わたしはわたしで彼氏ができたり別れたりもしていたが、ひなちゃんと一緒にいると自然と傷は癒えていった。だから、ひなちゃんの悲しい恋の話を聞かされるたび、わたしならもっとしあわせにしてあげられるのに、なんてぼんやりおもったりもしていた。ひなちゃんがとても優しい子だということは、もう充分すぎるほどわかっている。そんな彼女を「冷たい」だの「もっといいひとを見つけた」だの「おもっていたのと違った」だの、身勝手な理由で別れを切り出すひなちゃんの恋人たちに、わたしは一方的に腹を立て、そんな短い付き合いでひなちゃんのなにがわかるんだ、と勝手に憤っていた。ひなちゃんはとってもいい子なのに。機転が利いて、頭がよくて、背が高くてすらりとしていて、さりげなく気持ちを汲んでくれて、どうしようもなく方向音痴のわたしをいつもリードしてくれて、ふと見せてくれる笑顔なんて、すっごくかわいいのに。


 ――公園に連れられてから、どれくらい時間が経ったのだろう。

 わたしはまだひなちゃんの膝の上にいて、ようやくおさまった吐き気に安堵しつつ、随分と長い間体勢を変えられずにいたひなちゃんのことにやっと気がまわると、自分の不甲斐なさにただただ情けなくなってしまった。

「ひなちゃんごめんねえ……わたし、ずうっと頭乗せっぱなしで、脚しびれちゃってるよねえ、ごめんねえ……」

「もう大丈夫なんですか?」

 顔だけ上に向けて謝るわたしの表情を見て、ひなちゃんは質問に答えることはなく、一言「よかったです」と微笑んでくれた。

 まだ酔いから醒めていなかったわたしは、ひたすら「ごめんね」を繰り返し、今度は絡み酒をするただの酔っ払いになっていた。せめて重い頭だけでも退けようとゆっくりベンチに座り直し、背をもたせかけてみたものの、うまくからだが安定しない。

「ちょっとだけ、おとなしくここで待てますか?」

「うんー?」

「絶対に動いちゃだめですからね」

 そう言うと、ひなちゃんはすっと立ち上がって、公園の敷地から出ていった。大きな声など出せず、せいぜい唸るのが精一杯だったわたしは、ひなちゃあん、とひとりごと程度の声量で呼ぶことしかできなかった。当然、ひなちゃんには届かない。

 ひなちゃんが戻るまで、ものの数分のことだったとおもう。けれど突然ひとりになったわたしは途端にさみしくなり、ひなちゃんの名をつぶやきながらしゃくりあげるほどめそめそ泣いていた。帰ってきたひなちゃんもさすがに驚いた様子で、なにかあったんですか、大丈夫ですか、と心配そうに声をかけてくれ、わたしはひなちゃんの姿を見られたことに安心してまた泣いて、ひなちゃんが貸してくれたハンカチはぐしょぐしょになってしまった。

「すみません。これ、買いに行ってたんです」

 ひなちゃんの手にはペットボトルの水があった。すぐそこに自販機があったなとおもって、と。その優しさにまた涙がこぼれて、「ひなちゃんがいなくなっちゃうとおもった」「離れちゃやだ」「そばにいて」と立ったままのひなちゃんの腰に手をまわして泣きじゃくるわたしは、最悪な泣き上戸と化していた。そんなわたしにひなちゃんはなにも言わず、頭をまるごと包むようにやわらかく抱きしめてくれた。

「ひなちゃんはねえ、ひなちゃんは、わたしがしあわせにしてあげるの、こーんなにいい子なのに、みーんなわかんないなんて、絶対どうかしてるの、だから、わたしが、一生ひなちゃんを大事にしてあげなきゃだめなのよお」

 おもうままに言いたいことだけ言い散らかしたわたしは、もう自分でもなにを話しているのかわからなくなっていた。ひなちゃんは、ただじっとわたしが落ち着くまでそのままでいてくれた。

 ようやく涙も止まり、しゃくりあげることもなくなると、ひなちゃんはゆっくりとわたしから離れた。

「落ち着けましたか?」

 ひなちゃんはあらためて隣に腰掛けて、蓋をあけた状態でペットボトルを渡してくれた。そしてその水を飲む姿を見届けられると、あのひなちゃんが突然大きな声で笑い始めたので、わたしはなにごとかと声も出ないほど驚いた。

「も、もうだめです。ずっとこらえてたんですけど、カナさん、自分がなにを言っていたのかわかってますか?」

「え? え?」

「さっきのはプロポーズってことでいいんですよね」

 混乱した頭からさあっと酔いが醒めていくのがわかった。

 プロポーズ。

 その単語がお酒以上に頭の中をぐるぐる駆けめぐり、自分がなにをどう話していたのか、思い出そうとすることさえ恥ずかしくなった。ぼっと音が鳴ったんじゃないかとおもうほどあつくなった頬に、すかさずまだ冷えているペットボトルを当てる。えっと、えっと、とごまかしを図ろうとしてみたが、もはや後の祭りだった。

「一生しあわせにしてくれるんですよね?」

 くつくつと笑い続けるひなちゃんは、とても楽しそうだった。

「カナさんはどんなふうにしあわせにしてくれるんでしょうね」

「えっあの、それは、あの」

「酔って口走っただけ、なんて無効ですよ」

 こんなにはしゃいで話すひなちゃんを見たのは初めてだった。ひなちゃんの言葉にどんどんあわあわとしてしまうわたしの姿がますます可笑しいらしく、いじわるなことばかり言ってくる。ところがふと、ひなちゃんは笑うのをやめた。それから少し間を置いて、いじわるじゃない笑顔を見せた。

「ねえカナさん」

「はっ、はい」

「私、嬉しいですよ。カナさんと出会えて、ほんとうによかったとおもっています」

 ぺこりと軽く頭を下げてから元に戻った彼女の顔には、いままで見たことのない、おだやかで、しあわせそうな微笑みがあった。

「せっかくだから私からもいいですか?」

 ベンチで向かい合わせにしっかりと座り直したひなちゃんは、わたしの左腕に触れたかとおもうと、強引に自分のほうに引き寄せてそのまま抱きしめられる格好になった。

「ひ、ひなちゃん?」

「私が、これまでカナさんに欲情しなかったとでもおもってるんですか?」

 脳天直下の甘いささやき。突然のことに頭がついてきてくれない。ひなちゃんはわたしの首筋に腕を絡みつけると、耳元でこう言った。

「これでも我慢したほうなんですよ。いままでどれだけかわいい姿を見せられてきたとおもってるんですか」

「か、かわいい?」

「カナさんは、酔っても普通とか言ってますけどね、ぜんっぜんそんなことないですからね? すっごくおいしそうにごはん食べて、飲んで、タバコ吸って、ああそのタバコを吸う姿がもうほんとうに艶っぽくて、私がどれだけ独り占めしたいとおもってたか気付いてました? それでここにきてさっきのセリフですよ? ああ、やっぱり私、もうだめです」

 一息にすべてを言い切ると、ひなちゃんは少しだけわたしから離れ、まじまじと顔を見つめてきた。わたしも、街灯に照らされたひなちゃんの瞳の中にいる自分を見た。

「カナさん」

 いつもどんなときでも冷静で、わたしよりずっとおとなに見えていた彼女が、いまはどこにでもいるただの女の子になっていた。恋する女の子の姿は、いつだって美しい。

「しあわせにしてくださいね」

 友達からの急接近。まさかこんなことになるなんて考えもしなかった。でも、どうやらひなちゃんには少し違ったらしい。初めて見た照れ顔は、そりゃあもうかわいかったけれど、最後にぽつり、つぶやいた。

「一目惚れって成就するものなんですね」

「へっ?」

 あの寒い季節の居酒屋で出会ったのは、偶然なんかじゃなかったんだ。わたしたちにとっての必然が、こうしてかたちになった。胸が痛くなるほど愛しさがこみ上げてきて、今度はわたしからひなちゃんを抱きしめた。あわてる彼女にかまわず首筋にキスすると、「ふえっ?」なんて面白い声を出すものだから、わたしは楽しくなってしまった。これはまだ酔っているふりをしておいたほうがいいかもしれない。猫なで声で、ずっと甘えていられるから。

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ドランクラバーズ 桜良ぱぴこ @papiusagi

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