真夏の夜の影

 今思えば、マクアは自分の憑きたい相手を探して旅をしていたのかもしれない。

様々な人に出会い、場所を訪れ、世界を見てきたマクアにとって、一目惚れとも呼べる相手を見つけられたのは、彼女にとって生きる意味を見つけたことに等しい出来事だろう。

 オリビアの家でマクアがすることといえば、家事の手伝いや、オリビアの苦手な虫を処理すること、あとは着せ替え人形のように色々な服を着せられることなどだった。

 当初は、子どもの姿をとったマクアを家に置くことに抵抗のあったオリビアも、献身的とも言えるマクアの態度にだんだんと慣れていった。

 

 オリビアの家にマクアが憑いてから数週間が経った、ある新月の夜のこと。

 オリビアは真夏の昼間に外出することを避け、夜に買い物などを済ませていた。

 マクアからは、日光に当たらないと骨が弱くなると小言を言われていたが、暑さに強いマクアとオリビアでは日本の夏に対する耐性が違うのだ。

「はぁ~ッ、夜になっても暑いわね……。今日は帰るのが遅くなってしまったし、早く帰らないと。……あら?」

 ふと気がつくと、オリビアは街はずれの森の前に立っていた。マクアの待つアパートからはだいぶ離れてしまっている。

「こんなもの、あったかしら」

 森の中に小さな祠のようなものがあり、そこには古ぼけた鏡が添えられていた。

 以前、散歩がしたいと駄々をこねたマクアとこの辺りまで来たときには、こんなものはなかったように思う。

 オリビアの手が無意識に鏡へと伸ばされた。恐る恐る持ち上げてみると、鏡は曇っていてオリビアの姿をぼんやりと映していた。

「お供え物がこんなに汚れてちゃあダメよね」

 オリビアが鏡を磨こうと鏡面に触れた瞬間、鏡に亀裂が走った。

「きゃッ、なによいきなり……。仕方ないわ、あたしの鏡を代わりに置いていくから、祟ったりしないで頂戴ね」

 オリビアは鞄からコンパクトミラーを取り出すと、割れた鏡と共に自身の鏡を供える。祠に置かれたオリビアの鏡は、はっきりと彼自身の姿を映した。

 ふと空を見上げると、新月の影が不気味なほどくっきりと、空に黒く開いた穴のように見えた。

 オリビアが空を見ていると、誰かに腕を引っ張られた。

「急がなくても今帰るわ、マクア。……って、え?」

 ここにいるはずのない同居人の名前がつい口から出てしまったが、当然腕を引っ張ったのはマクアではない。

 引っ張られた腕を見ると、月と同じくらい黒い影がオリビアの腕に巻き付いていた。

「なによこれッ、やだ、とれない……!」

「……お前も置いてけ」

「……は?」

「お前"自身"も、鏡と共に置いていけよ」

 その言葉と共に、オリビアは何者かに背中を押された。月のように真っ黒な影の塊となった祠から、無数の影が伸びてきてオリビアに絡み付く。

 必死の思いで振り返ったオリビアが見たのは、自分そっくりの人物が、買い物袋を下げて森を立ち去る姿だった。


「オリビア遅いなー、もー!」

 オリビアの家では、留守番を食らったマクアが手足をばたばたとさせながら文句を言っていた。

「ただいま」

「あー、オリビア! おっそーい! もうご飯できてるから、一緒に食べよ?」

 マクアはうきうきとオリビアを出迎えた。その楽しそうな表情は、帰ってきた人物を見て一瞬にして凍りついた。

「どうした、マクア」

「あなたオリビアじゃない。オリビアのふりするのやめてよ。気軽に呼ばないで」

「今日から俺がオリビアさ。この家も、事務所も、実家の財産だって、俺のものだ」

「ふぅん、で? オリビアはどこ」

「さぁね」

「じゃあ消えて」

 その一言と共にマクアの背中から四本の触手が飛び出し、オリビアを名乗る人物を締め上げた。

 頭上に放り投げ、尻尾を使って天井に叩きつけると、その人物は鏡のように砕け散った。

「オリビア……。無事だといいけど」

 マクアはするりと夜の街に剥い出ていった。


「ここは……」

 オリビアが気がつくと、そこは自身の部屋だった。

「確か、影のようなものに取り込まれた……のよね?」

 先ほどの出来事を思い返してみる。

 真っ黒な塊から伸びる影、自分そっくりの人物、割れた鏡……どれも鮮明に覚えている。

 だが、目の前には日常風景が広がっていた。

 とりあえず、洗面所に行って手を洗ってこよう。今日は埃っぽいものを触ったので、手が汚れている。

 手を洗い終えて、ふと鏡を見たオリビアは絶句した。

 

 鏡に自分の姿が映っていない。

 目の前に立っているはずなのに、そこには誰も映っていなかった。

 オリビアは慌てて部屋の外に出ようと、玄関まで走っていった。

 勢いよくドアを開けて外に出た。が、次の瞬間には部屋に戻ってきていた。

 もう一度外に出る。また玄関から部屋へ戻ってくる。次々と起こる怪奇現象に、どうにかなりそうだった。

「マクア……!」

 オリビアが咄嗟に口にしたのは、同居人の名前だった。

「そいつがそんなに必要か? 本当は便利に利用しているだけじゃあないのか?」

 誰かがオリビアに問いかけた。

 気がつくと、オリビアの影がどこまでも黒く濃くなり、ゆらりと揺れたかと思えば、黒い塊が起き上がった。

「あ、ああ……。なんなのよ……」

「俺はお前の影さ。自分で解放しておきながら、その態度は気に入らないな」

 オリビアは自分の行動を理解すると同時に、気が狂いそうになった。マクアの元へ帰らねばという思いが、彼の正気を保っていた。

「あたしの影なら……元いたところへ大人しく帰るのね。全て元通りにしてちょうだい」

「嫌だね。俺はずっと“甲田良幸”になりたかったんだ。それなのにお前はおかしな偽名で俺から逃げやがって。挙げ句の果てには子どもと同居だぁ? 甲田家の人間として恥ずかしいと思わねえのかよ! 俺は絶対にお前を認めない。このまま俺は本物の甲田良幸として生きてやる。影になるのはお前の方だ」

「あたしだったらマクアを子ども呼ばわりしないで。あの子は見た目こそ子どもの姿そのものだけど、中身はあたしなんかよりずっと大人で思慮深くて、優しい子よ。あたしのくせに分からないの? マクアといることに恥ずかしいなんて気持ちは一切ないわ。それがオリビアよ」

「オリビアは存在しなくなる。代わりに甲田良幸が存在するんだ。諦めて俺の後にくっついて回れ」

 そう言い残し、影は消えていった。

 

「な〜るほど……。ここにオリビアを閉じ込めてるわけか」

 森の祠にやってきたマクアは、すぐさまオリビアの居場所をつきとめた。オリビアの置いた鏡からは、マクアについて語るオリビアの姿が見える。

「ふ〜ん……。嬉しいこと言ってくれるね。でも、直接聞きたいな」

「それは難しいかもね」

 マクアの背後から、同じ声の影が声をかけた。

「……そんな事しても、自分には勝てないよ?」

「そうかもね。でも、そこの鏡にいるコはどうなるかなあ?」

「オリビアに酷いことしたの? だったら、許さないよ」

「ちょっと夢を見てもらってるだけだよ。まあ、夢じゃなくなるかもしれないけどね」

「……馬鹿言わないで」

 マクアは既に戦闘態勢をとっていた。本気を出せば訳はない相手だ。影ごときに負けるマクアではない。が、オリビアに見せたという夢が気がかりだ。早く倒してオリビアを現実に引っ張って来なくては。


「あら……? 姿見に何か映って……」

 オリビアは怪しく光る姿見に恐る恐る近づいた。

 そこには、信じられない光景が広がっていた。

 ナイフを持ってレインコートを目深に被った人物が、マクアの脇腹を刺している光景だ。血塗れになって縋り付くマクアを、さらに滅多刺しにする。マクアは、血溜まりの中でこちらに向かって手を伸ばし、力尽きた。それを見ていた人物は、力尽きたマクアを見届けてからフードを脱いだ。その姿は紛れもなく、オリビアであった。

「いや……嫌ぁあッ!」

 オリビアはその場で崩れ落ちた。

 鏡から目を逸らすも、血溜まりに沈むマクアの姿が脳裏に焼きついて離れない。

 恐怖に駆られたオリビアは、部屋の隅へ頃がるようにして逃れた。だが、どこへ行ってもズタズタになったマクアの姿が見える。オリビアは次々と溢れる涙をそのままに、ただ恐怖に怯えるしかなかった。

「オリビア。オリビア! 大丈夫?」

 両手に傷の痕をつけたマクアが、オリビアの元へ駆けつけた。両手の傷は元からあるものだったが、今のオリビアにとっては、更にショックを与える要素にしかならなかった。

「マクアがいる……? でもどうしてそんなに傷だらけなの……? もしかして本当に……本当に、あたしは……!」

 オリビアの表情が恐怖に狂っていく。

「しっかりしてオリビア! この傷は前からついてるもの。オリビアが何を見たか分からないけど、自分は無事だよ?」

「あたしは……あたしはマクアを……この手で……」

「わかったわかった。話は家で聞くから。ほら、行くよ」

 恐怖に凍りついたオリビアを、マクアはいとも簡単に尻尾で持ち上げてみせた。いつかと同じ光景がそこにあった。

 影によって作り出された部屋を出ると、壊れた祠とオリビアの鏡が落ちていた。

「このコがオリビアのところに連れてってくれたんだよね。オリビアが大切に使ってたからだよ」

 マクアはオリビアの鏡を拾い上げると、ポケットにしまった。


 家に着くと、オリビアは少々落ち着きを取り戻したのか、ぽつりぽつりと見たものを話し始めた。

 マクアに危害を加えてしまった自分を見たこと、血溜まりの中で助けを求めるマクアを見たこと、そしてそれを助けられなかったこと……など。

「そっか。つらかったよね。怖かったよね。でも、もう大丈夫」

 マクアはそっとオリビアを抱きしめた。

「オリビア、さっき自分の影に向かって自分と一緒にいるのは恥ずかしくないって言い切ってくれたよね? すごく嬉しかった」

「マクア……。マクア、あたしはマクアに護られているばかりの存在かもしれないわ。でも、あたしはマクアが一緒にいてくれて本当に感謝してる。こんな風に言うのは迷惑かもしれないけど……。大好きよ、マクア」

「へへ……。自分もオリビアのこと好きだよ。一目見て好きって思ったんだ」

「……あら、両思いね」

 オリビアはまだ震える手をマクアに添え、おでこに口づけた。

「遠慮しなくていいのに」

「えっ」

 次の瞬間、オリビアの唇は奪われていた。

「……マクア」

 涙で潤んだ目が、マクアを見つめる。その目に恐怖はなく、代わりに「もっと」と訴えているようだった。

 マクアはもう一度オリビアに口づけた。今度は、深く。マクアの厚い舌がオリビアの口に滑り込む。人間の体温の暖かさが伝わってきた。

 マクアに口づけられて、体勢を崩しそうになっているオリビアを尻尾で支える。

 先程まで冷え切っていた指先も、今は暖かい。指を絡めてぎゅっと握れば、オリビアは恐る恐る握り返した。

「……ん、ふぁ……ぁ……」

 時折オリビアの声が漏れる。

 それが聞きたくて、マクアは口づけを続けた。

 次第にオリビアの弱いところがわかってくる。刺激を与えれば、僅かにピクリと反応するのだ。

 一際長く口づけたあと、マクアはやっと唇を離した。

「……やりすぎよ」

 恥ずかしさと興奮で顔を真っ赤にしたオリビアが抗議する。

「でも、欲しがったのはオリビアだもん」

「……そうだけど」

「もっといる?」

「……」

 ごくり、と喉を鳴らす音をマクアは聞き逃さなかった。

「ふうん。じゃあ、もっとあげる」

 しゅるしゅると触手が伸び、オリビアの首筋や脇腹を愛撫した。

「んぁあ……! ちょっとマクア……っ! んッ……!」

 先程とは比べ物にならないほど、オリビアの身体が反応しているのがわかる。オリビアは声が出ないように必死に口を塞いでいた。

 使っていない触手を優しく巻きつけて、口を塞ぐ手を退かす。

「だめよマクア……! あっ、あぁあっ!」

「そのダメは良いって意味のダメだよね? この状態でキスしてあげたらどうなっちゃうのかな?」

「ひぁっ……! まっ、ま……ぅあぁ!」

 首筋をそろりと撫で上げた。やはりここが弱いらしい。その隙にもう一度口づける。

 先程の言葉とは裏腹に、オリビアはマクアをぎゅっと抱きしめて自らの方へ引き寄せた。

 お互いの身体が密着する。人間の身体は本当に暖かい。マクアは改めてそう思った。

 

 マクアが唇を離した頃には、ぐったりとして肩で息をするオリビアの姿があった。少し刺激が強かったらしい。

「オリビア、ごめんね?」

「いいのよマクア。……楽しかったわ」

 ふふっ、とオリビアが微笑む。

「ほんとに? じゃあまたやってもいい?」

「……少し手加減はしてよね」

「うん!」

「今日はもう遅いわ。ほら、一緒に寝ましょ」

「いいの? やった!」

 オリビアのベッドは、二人で使うには少し狭かった。だがマクアにとってそんなことはどうでもよかった。好きな人と一緒の布団で寝られることが、幸せだと感じた。

 オリビアに憑いてよかった。

 これからも、この場所とこの人を護っていこう。マクアは改めて、そう決意したのだった。

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