魔と逢う刻

 薄暗いゴミ捨て場に倒れていた男を見つけた瞬間、まず思ったのは『早く温めてあげよう』だった。

 冷たいのも、濡れているのも、辛い事があったのも、何よりひとりぼっちなのは、この世で一番良くない事だ。


 …ずっとひとりで生きてきた自分が言えた事ではないのだが。





 自分は、アウマクアのひとつ。人がハワイと呼ぶ島に最初は存在していた。

 アウマクアというのは、実は複合的な呼び方で、先祖の霊の集合体だったり、または先祖個人の霊、珍しい動植物までの広い範囲の正体の守護者を指す。

 ウミガメの姿のものが有名だそうだが、自分はヤモリの姿が最も近いので、たぶんそれが本性なのだろう。建物の灯りに集まる雑多な虫を喰らう姿からなのか、自分の能力は家やそれに属する人を守るものが多いように思う。


 まぁ、色々あってもう守るべき家はないのだけれど。

 なので縛られる事無く自由に旅をしていた。


 当てのない旅路というやつだったが、幸いなことに人の身でない自分は金銭やら身分証明やらがいらない上に、もし揉め事に巻き込まれても、煙に巻いてその場の何かしらに責任を押し付けて逃げたって構わないのだ。

 何もわからないフリや油断を誘う為に子供の姿をして旅しているが、現代の人間というやつはヒトでないものなんて存在しないと信じ込んでいるから自分の多少の不自然さは気の所為にしてくれるから楽で扱いやすい。


 ただ、子供扱いだけは上から目線を感じるから嫌いだ。善意の場合はともかく、生返事で幼子をあしらう輩は尻尾で弾き飛ばしてやろうかと思ってしまう。

 …自分の本来の気質として人間を大事にする傾向がある為、本当に危害を加える事は稀なのだが。


 守るべきものが何も無い、というのは気楽でいい。

 けれど、何か物足りない。


 何かしらを守護する性質であるが故の本能と、それが無い為のストレス発散で、人と関わる事を求めて一人…否一匹で旅をしているのだ。



 この日本と呼ばれる島国に来たのも、その旅のうちのひとつだった。

 雨の多いこの国で、雨の中で雨具の一つもないと目立つので、見かけた雨具でポピュラーそうなビニール傘と黄色の子供用ブーツを身に着けて、深夜の水溜りに波紋を作りながら何か面白いものはないかと散策していた。


 この比較的平和な国で、そんなに変わった面白いものなんて中々無い。

 ーはずだった。


 ふと、雨の中に僅かな匂いを感じて足を止めた。

 この匂いは知ってる。暴力、薬物、性…エトセトラ、旅路の貧民街でよく嗅いだ香りだ。人が人によって酷い目に遭わされた時の匂い。

 それらを全ていちいち助けていたら、自分が人としての時を生きていないとはいえ、いくら時間があっても足りない。そう理解はしていたが、今は暇だしそもそも他に構うべき事柄もない。


 ちょっとだけ、様子をみてみるかな。


 軽い気持ちでそう思い立ち匂いの元へ向かうと、男性がゴミ捨て場に倒れていた…いや、場所の通り捨てられていたのだろう、酷い有様だ。


 服は引き裂かれて着ているというより体の上にかけられているだけのようにすら見える。その合間から見える白い肌には暴力と拘束の跡が見られて痛々しい。…雨のせいでほとんど流されているが、陵辱の形跡だろう体液や薬剤の匂いもする。

 整った顔の付近は暴力の痕跡があまりない。が、泣きぼくろある彼は気を失っているのにも関わらず、苦悶の表情を浮かべているように思えた。


 酷い。

 人でない自分は同族をここまで傷付けられる精神性が理解出来ない。


 早く体を温めて、手当てをして、食事をさせてあげたい。自分の親なんて知らないし、世話もされた事なんてないが、親心のような加護欲が湧いてくる。人なんて、ごまんといるはずなのに、なぜ自分はこの男にこんなにも何かをしたいと思うのか、わからない。

 わからないが、どうにかしなければとだけ強く思うのだ。


 しかし、どうするか…というか意識のない状態で移動させたらパニックになるだろうか?困らせたい訳ではないのだけど…思案していると青年が起きたようだった。黒目がちな目薄く開けている。ぼんやりと意識を覚醒させているのか、辛い出来事を思い出しているのか…。

 声をかけてみようか?確認は大事だ。


「ねぇ、大丈夫?」


 ぴくりと反応して、こちらを見上げてきた。完全な放心状態ではないようだ。少し安心した。


「………あなたこの辺の子? こんなところに一人でいちゃあ、危ないでしょ……。あたしのことはいいから、早く帰って」

「一人でいたら危ないのはみんなそうだよ。一緒に行こ?」

「一緒に……ってどこへ」

「いいところ知ってるから」

「せっかくのお誘いだけど、生憎あたしは今忙しいのよ」


 とりあえず、子供に対して雑な扱いをするタイプではないようだ。女性語を用いる男性か、少数派だ。だから良くない輩に狙われたのか?

 そして、乱暴を働かれた者の例に漏れず一人になりたいようだ。そうはさせないのだが。


「忙しそうには見えないよ?もしかして立てないの?だったら支えてあげる」


 支える、自身の魂の奥底になにか響く言葉な気がした。


「……大通りまでなら、一緒に行ってもいいわ。そこからは自分で帰るのよ」

「はあ。子ども扱いには、もう飽きたよ」


 …自分の容姿のせいなのだが、酷く裏切られた気分だった。

 もう力ずくで連れて行こう。そう思って尻尾で彼をすくい上げた。

 思ったよりも軽くて冷え切っている。早くしないと華奢な体質だったら風邪をひいてしまうかもしれない。


 彼はいきなり見たことのないだろう自分の身体の一部に困惑して喚き立てているが、適当にあしらいながら歩いた。

 すると、彼は疲労からなのかすぐに意識を失ってしまった。

 話をもう少ししたかったけれど、都合がいいと言えばいい。


 近くを見渡して、少しばかり良さそうなアパートに目をつけた。そのアパートに近寄り、そして人の住んでいない部屋の前に立つ。


『ここをこの人の部屋、家として、一晩貸して欲しい。

 開けてちょうだい?』


 言い聞かせてやると、ドアが開いた。素直な子だ。足を踏み入れると埃っぽい空気が消え、塵の積もった床も浄化されていく。奥へ進むと家具もきちんと配置されてるし、片付いている。

 ふむ、『彼』はしっかりと暮らしていたようだ。


 自分の力はひどく限定的だが、そのうちの一つ、新しいものを含む『家』の中を『その人』が暮らしていた、もしくは過ごしやすいようにするという能力がある。家具なんかは元の家のものが基準となりそれなりのレベルの物が出現する。だが、『その人』が使い慣れているような高さ、大きさになる。

 もちろん、元の広さ以上の『家』は作れないし、無駄に高級な物は用意できない。あと、水道とか電気だとか外から供給のいるものは永久的には使えないのだが、一晩くらいなら保つ程度にはどうにかなる。この能力は自分の旅でかなり役に立ったが、誰か他人のために使うのは初めてかもしれない。


 あとは…いまだ目を覚まさない彼の額に触れて、軽めの暗示をかける。

 そんな複雑なものではなく、短時間自分や状況に疑問や不安を抱きにくくなるだけのものだ。疲れ切っている今なら簡単にかかってくれるだろう。


 とにかく休んでほしかった。

 …なんでこんなにこの人間が気にかかるのか、わからない。少しばかり関わりたかっただけのはずなのに。


 ほどなく目を覚ました彼に、入浴を勧めて服も新しく着せて早々に寝かせた。


 そして、素直に眠りに落ちる彼を眺めながら観察していて気がついた。

 彼の魂が自分と相性が良いのだ。


 魔の者は気に入った人を連れて行くというが、それはその人の魂が対象の魔の気に入る形だから閉じ込めてしまおうとするからだ。

 特に日本の魔はそういう者が多いそうだが、自分は健やかに暮らす人間を見ている方が好みなので、その感覚はいまいちわからない。


 でも、この彼は自分のそばにいて欲しいと思った。自分の守る『家』で彼が暮らしてくれたら、そう思うと心が震えた。

 まだ名前も知らない男なのに。



 この感覚を、人は一目惚れと言うらしい。

 そう知ったのはだいぶ後の話なのだ。



 決めた。彼と暮らそう。

 彼の『家』に憑こう。

 彼のアウマクアになろう。


 明日、目が覚めたら名前や色んなことを聞こう。温かいごはんを食べさせるのも忘れてはいけない。いや、そもそも彼に安心して過ごしてもらえるよう環境を整えなければ。

 …彼を傷付けたの誰?再び脅威になる存在なのか?


 夜行性捕食者としての虹彩を光らせて、自分はスルリと真夜中の街に這い出ていった。





 朝、とういうにはだいぶ遅い時間に絶叫で叩き起こされた。

 せっかく彼のトラウマにすらなりうる問題の根源を鎮めてきたのに、なんて目覚ましをしてくれるんだ。

 …でも叫べるくらいに元気なのは良かった。


 何やら親だとか警察だとか騒いでいたが、そんな問題は存在しないのだとと諭してあげると、すぐに丸め込まれてくれた。

 …暗示は解けてるはずなのだけど、騙されやすいんじゃないだろうか?詐欺とか大丈夫なのか?心配になってきた。


 彼の名を聞くために、自分の名を告げようとして、長年呼ばれていない使われていない本名なんて意味が無い事に気がついた。

 なので、アウマクアからとって『マクア』と名乗った。彼が『マクア』と呼ぶと、彼自身から『守護者』と呼ばれているようで嬉しくなると思ったからだ。

 うん、悪くない。


 ついでに本性の一部の尻尾と触手を見せておく。自己紹介の一貫だ。

 どうせ後から知るのだからいいだろうと思ったけれど、彼は腰を抜かしてしまったようだ。

 ごめん、でも慣れて欲しい。


 そして、彼の名を聞くとオリビア、と名乗った。タロットと占星術が得意らしい。

 職業は占い師か、自分の能力の『幸運』の対象になるだろうか?占い結果が当たりやすくはなるだろうが、同時に揉め事の元にもなる。オリビアの手腕次第だろう。


「よろしく、オリビア!」


 手を伸ばして握手をする。結構身長があるから小柄な自分とでは高さに差がある。


「早速だけと、オリビアのおうち…どこ?」

「え、…家は…」


 オリビアの表情に影が差した。

 どうも訳ありのようだ。話を反らそう。


「?今暮らしてるトコロって事だよ!」

「あ、ああ!そういう意味ね!

 …でもなんでそんなこと聞くの?」

「私もオリビアと暮らしたいから!」

「…ハァ!?」

「もう決めたのー!決定!」

「どうして!?マクアの事情は知らないけど、あたしの意思は!?」

「マクアの意思が先ー!」

「なんでよー!?」


 最終的に自分はオリビアを押し切って彼の住居に転がり込む事に決定した。子供の姿は我儘がしやすいからこういう時に役に立つ。


 そして、これで自分のアウマクアとしての能力が十全に発揮できるはずだ。『オリビアの家』に憑く事で『オリビア』個人に対して幸運や守護をかける事が可能になるのだ。



 なんだか楽しくなってきた自分と対象的に疲れた様子のオリビアだったが、遅めの朝食を勧めると途端に彼のお腹の虫が鳴いた。


 笑いながら冷蔵庫を開ける自分と、真っ赤になって言い訳を並べるオリビア。

 これが日常になる日が続くのだと思うと、楽しみで仕方なかった。


 そして、この街で自分達に降りかかる出来事も想像できなかったのだけれども。
















 深夜。オリビアを散々弄ってからゴミ捨て場に放ってきた彼女達は酒を傾けて、録画データを確認しながらはしゃいでいた。

 良いおもちゃが出来たと、かなりの遊ぶ金にもなるのだと、浮かれていた。


 怒りを孕んだ魔が近付いていたというのに。



 みぃーつけた



 その声が、子供のような老人のような形容し難い声、ただ女性の声だとだけ言い切れる。そんな不可思議な声が響いた。

 瞬間、彼女達それぞれはその場で直立した。

 否、『させられた』


 彼女らそれぞれの首に、ぬとつく触手がぐるりと巻き付いて、彼女達の背の高さに合わせて力強く持ち上げられたのだ。

 息が出来ない訳ではない。だが、余裕がある訳でもない。うまく声が出せないまま、必死に触手に爪を立てて抵抗を試みるが、全く意味を成さない。



 したたかなのは悪い事じゃないよ

 女が武器を持つのは当たり前だもの



 さっきの声がする。耳のすぐそばで喋っているのではないかと思うくらいよく聞こえる。

 そして、鳥肌が立つ。静かに話してはいるが、声の主は怒っている。なぜかそうわかった。



 だけど、良くなかったね

 あの人は駄目

 …なんであんな事ができたの



 つけっぱなしにしていたモニターに再生されていた男の痴態が砂嵐に変わっていく。やがて大きな眼に変わっていく。猫に似た縦の瞳孔の眼だ。

 自分達なんかより絶対に上の、捕食者の眼だ。


 殺される。虫を潰すように、造作なく殺される。


 もはや彼女達は涙を流して震えるしかできなかった。

 そして理由は解らないが、自分達はけっしてあの男に関わるべきで無かったのだと遅い、遅すぎる後悔をしていた。


 モニターの眼が少しばかり細くなってから、声が聞こえた。



 …今回だけ、許してあげる

 次は無いよ

 もう少しだけまともに生きてみてね



 そう聞こえたと、そう脳が判断した瞬間触手が消えるようにして彼女らを開放した。

 その場に力無くへたり込んで、酸素を求めて呼吸を荒らげて咳き込む。

 モニターの不快な砂嵐の音は途切れて電源が落ちた。場を支配していた緊張に満ちた空気が緩んでいくのがわかった。


 助かった。

 そう思って息の整ってきた顔をあげると、モニターの上にさっき見た眼が『居た』


「次があったら、貴女達がこうなるからね?」


 その瞬間、モニターは何かが握り潰したかのように弾け飛んだ。幼い笑い声が響く。続けて破壊音が二、三回響いてやっと悪い夢のような何かは去っていった。




 すっかり音が聞こえなくなって、彼女らのすすり泣きと呼吸音だけが聞こえるようになる頃。


 その部屋に残されたのは、元の形が無くなったモニターと、例のデータが入っていた粉々になったデバイスと、巨大な何かに叩き割られたテーブルと、割れ散らばったアルコールに濡れたグラスと、何もかもの気力をなくした女達だけだった。




 もう、彼女らがオリビアに関わることだけは、絶対に無いだろう。


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