+屋上の君にココアを+ 何気ない日常の幸せを君に贈るために 僕は今日も君と生きる
絶佳(ぜっか)
第1話 屋上の君とココアの僕 (1日目)
大学生の冬、僕は大学のキャンパスにいた。いつも通りキャンパス内の広場で読書をしていた。今日はとても空が高い。青すぎる空に少しうんざりしながらも、冷たすぎる風に何故か心地よさを感じていた。僕はその風をもっと体に受けたいと思い、校舎の屋上に向かった。一番高い校舎は6階建てで、5階まではエレベーターで昇れるが、6階と屋上は階段で昇らなければいけなかった。屋上はいつも施錠されていない。僕はたまに屋上で昼寝をすることがあった。屋上には基本的に誰もいない。上るのが面倒だから、誰もわざわざ来たがらないのだ。屋上は僕の庭のように思っていた。階段を上り、重い扉を開けて屋上に出た。
そこは僕一人の庭であったはずだが、そこには一人の少女がいた。屋上の縁に立っていた、柵の外である。こういった場面に出くわしたとき、人というのは思ったよりも冷静である。彼女は飛び降りようとしているのだろうかなどと、心の中で考えた。しかし、ここで走って止めに行ったり、大声で引き留めるのは恐らく逆効果だろう。僕は恐ろしいほど冷静に彼女に近づいて行った。なんと声をかけようか。
「もしもーし、景色を眺めるのに確かに柵は邪魔だけど、そこは危ないんじゃないかな」
我ながら冷静で素晴らしい言葉のチョイスである。彼女を刺激しないように僕は細心の注意を払った。
「いいじゃん、べつに」 彼女の冷たい声だ。
「いや~、見てる僕がひやひやしちゃうよ」
こんな返答で大丈夫だろうか。彼女は未だに柵の向こうだ。
「死のうと思って」
こちらから絶対に触れ内容としていた核心部分に、彼女は自ら土足で踏み込んだ。こんなことを言われたら返答に困る。僕はしばらく返答を考えた。
「理由は?」
あまりに安直な、しかしながら正直な問いが口から出てしまった。
「生きる理由がないの、家族もいないし」
「死ぬ理由はあるの?」
「生きる理由がないことは死ぬ理由にならないって言うの?」
ごもっともだ。こう言われたら答えようがない。
「じゃあ僕の恋人になってよ、僕のためになる。生きることが人のためになれば、生きる理由になるだろう」
何を言っているのか自分でもよくわからなかった。頼むから今飛び降りないでくれよ、僕が殺したことになる。
「顔悪くないのに彼女いないんだね」
意外にも優しい返事だ。
「変わり者だからね」
「だろうね」
これはきつい返事だった。
「だめかな?嫌になったらまたその時ここに来ればいいよ」
「そうかもね」
あと一押しでこちら側に戻ってきそうだ。
「僕といたらきっと楽しいよ」
「思ってないでしょ」
「ばれたか」
自然な会話だった。僕は内心、今にも飛び降りそうな彼女と、何を言っているかわからない自分に板挟みにされて困惑していた。それにしては上出来な会話だろう。
「あなたは私に何をくれるの?」
「へ?」
「あなたのためになるのは、あなたへのメリットばかりだもん。私にも何かくれなくちゃ」
「彼氏ができるじゃん」
「それだけじゃ嫌、あなたのことあんまり知らないし。見ず知らずの女をすぐ彼女にしようとする男なんだもん」
それもそうだ。
「幸せをあげるよ、小分けにして毎日」
「どんな?」
「未定」
「ふーん」
これの流れはやばいか?はやく柵のこっち側に来てくれ。
「可能な限り努力するよ」
「あなたは何で私を助けようとするの?」
確かに分からない。人が死ぬのを見たくないだけだろうか。そんな自分の感情だけで、彼女の選んだ道を変えてもいいのだろうか。僕は考え込んでしまった。
「理由は後から探すよ」
「できれば今欲しかったなー」
「今は無理」
「あっそ」
彼女はため息をついた。僕の人生で見てきた中で一番大きなため息だ。僕も自分にため息をついた。初めての共同作業である。
「んー、しょうがないから彼女になってあげる」
「やったぜ」
「やっぱやめようかな」
「おいおい」
こんな会話を柵越しに繰り返した。まだこちら側に戻ってこないのか。
「こっちに来てよ」
「ナンパ?」
「そうだけどそうじゃない」
「なるほど」
成立しているようでしていない会話だった。
「いいからこっちに来てよ、彼女が落下寸前じゃ落ち着いてココアも飲めない」
「何でココアなの」
「コーヒー飲めないもん」
「そっか」
何の話だこれは。
「いいから来てよ、面白がってるでしょ」
「ばれましたか」
本当に面白がっていたらしい。彼女はようやく柵を超えてこちら側に来た。冷静になったところで彼女を冷静に見ると、かなりの美人であった。だからこそ無意識に彼女になってくれとかいう訳のわからない提案をしたんだろう。
「よろしく」
そういって彼女は僕を抱きしめた。僕は頭が真っ白になった。男として不甲斐ない。
「よろしくおねがいします」
変な敬語が出てしまった。
「抱きしめたぐらいで動揺しすぎでしょ、まあ私も初めてしたけど」
僕は初めてじゃないと言いかけてやめた。彼女の手が震えていたのだ。内心では死の恐怖におびえ、そこに現れた僕に少なからず感謝しているのだろう。それゆえの抱擁だったに違いない。僕は彼女が先ほどよりもずっと可愛らしく、弱々しく見えた。僕は彼女を助けた。助けることにも責任はある。僕は彼女を大切にしていかなければならない。傷つけることは許されない。勝手にそんなことばかり考えていた。
「行こ」
彼女が優しく言った。
「どこに?」
「それはそっちが決めてよ、先のことなんか何も考えてなかったんだから」
重い言葉だ。先がなかったはずの彼女。その彼女に先を作った、勝手に。その責任の重さに不安を感じつつも、僕は彼女の手を引いて歩きだした。
細かいことはどうでもいい気がした。彼女とのこの先を想像するとなぜか明るい希望が見えた。僕もきっと心のどこかで、この生活に不満を感じていたのかもしれない。その日常から彼女が連れ出してくれたのだ。そんな風に思った。彼女の手はずっと冷たかった。僕はコンビニにココアを買いに行こうと言った。彼女はコーヒーを二つ買った。これが幸せだと僕は思った。
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