第10話 お誘い

 鹿目征十郎しかめせいじゅうろうが引戸を開けてやると、千春が中に飛び込んでいった。


「うあ! 千春! 無事やったか」


 女店主の驚いた声が聞こえてきた。千春が答える。


「お姉ちゃん! 会いたかった」


「砂だらけやないか、大丈夫か?」


「うん。大丈夫やで、お姉ちゃん」


 鹿目が中に入ると、姉妹がクシャクシャになりながら抱き合っていた。椅子が十席にも満たない店内には、右側の奥に上下作業着の中年男がいた。ラーメンを食う箸を止めて、姉妹を見ている。

 抱き合う姉妹を避けて鹿目はカウンターに座った。水でも貰って一息ついたら、法隆寺まで戻らなくてはいけない。まだまだこれから。長い一日になりそうだと鹿目は思った。


「ありがとうな、神使しんし。見直したで! ほんま、ありがとうな」


 ラーメン屋の女店主が、鹿目の側にやって来て頭を下げる。今更だが、名前を教えてくれた。


「菜月や。千春が世話になったな。チャーハン作ったろか?」


 まだ腹は減っていない。

 事あるごとに、飯食え飯食えと言ってくる女店主の菜月は、将来、素敵な奈良のお婆ちゃんになるだろうと鹿目は思った。その時まで、奈良があればの話だが……。


鹿目征十郎しかめせいじゅうろうだ。飯はいいや。悪いけど、水を一杯くれるかな」


 鹿目は、グラスに水を淹れてもらい飲んだ。

 火の力を沢山使ったせいか、喉がカラカラであった。「着替えよか」と菜月が言って、千春を伴って奥の扉に消えていく。狭い店内は、作業着の中年男と、鹿目だけになった。


 ――見られているな。

 と鹿目は思った。

 水が入っていたグラスも空になり、一休みもしたので、あとは出て行くだけだが、菜月と千春に別れの挨拶をしようとして、初動が遅れてしまった。

 ラーメンを食い終えた中年男が、じっと鹿目を見ていた。


「神使来とんねんな」

 

 不躾ぶしつけな視線はそのままに、作業着の男が言った。


「神使? ああ! 俺の事?」


「兄ちゃん、千春ちゃん助けたんか? 大したもんやな」


「いやいや、迎えに行っただけだよ。車に乗せて帰って来ただけ。ウヘヘへ」


 鹿目は嘘をつく時や、興奮してしまった時に変な笑い方をする。小さい時からの癖で、すぐに引っ込める事が出来ない。本人は聞こえていないと思っている。周りは気味が悪いので止めて欲しいと思っている。


「嘘つくなよ。吉田寺きちでんじがおったやろ?」


「吉田寺? ああ、そんなのも確かに居たような」


「菜月ちゃんに、スミレちゃんが襲われたって伝えたん俺やからな。そうか、仇とってくれたんやな。ありがとうな神使」


 そう言って、中年男は鼻をすすった。ついで目頭を拭う。おっさんが泣いているのは、どんな事情があるにせよ、美しくないと鹿目は思った。


「田中や。田中正治たなかまさはる。あんたは、鹿目さんって言うてたな」


 聞きもしない中年男の自己紹介に、嫌な予感がして鹿目は思わず身構える。

 嫌な予感はすぐに的中した。


「ちょっと頼まれてくれや。俺の足、鋼色はがねいろになってもうて、遠くまで行かれへんねん」


「俺、法隆寺ほうりゅうじ行かないといけない」


「法隆寺? 近い近い、俺の用事もその辺や。あとで寄ったらいいやんか」


「いや、後でって……」


 と言いながら、鹿目は端末を取り出す。三時だった。


「駄目だ、寄り道している暇はない。早く行かないと日が暮れる」


「あんなんで行けるか?」


 店内の小さな窓から田中が見つめる先には、鹿目の愛車、トヨタのシエンタが停めてある。残念だが、ボディーのカラーは分からない。酷く錆び付いているからだ。


「見た目は悪いが、ちゃんと動くぞ。千春ちゃんもあれで帰って来たんだ」


 鹿目も田中と同じく小窓を睨む。ボロボロの愛車を見て、法隆寺への殺意がふつふつと沸いてきた。

 鹿目の様子を確かめて、田中はにんまりと笑う。


「直したろか?」


「へ?」


「ピカピカに直したろか?」


「そ、そんなん出来るの?」


「綺麗に磨いて、色も好きなん塗ったろか?」


 ――悪魔のお誘いだ。

 咄嗟に鹿目は思った。

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