第7話 骨の森

 目をつぶれば、心の中の真っ黒なスクリーンに、どのような奈良の情景が浮かぶだろうか。

 何も浮かばないのが正解である。

 奈良には何もなかった。

 その証拠に修学旅行生達も、奈良には立ち寄るだけである。宿泊など断じてしない。奈良に宿泊など、悪手も悪手。段取りをしたやつの、正気を疑うレベルである。


 たまたま建っていた寺という観光資産に頼りっきりで、しかも、活かしきれていない現状では、人々の記憶から忘れ去られて、魔都と化してしまうのも頷ける。

 鹿目征十郎しかめせいじゅうろうは、奈良の地に足を踏み入れて数時間。すでに奈良が大嫌いだった。楽しいのは奈良に着くまで。また忘れていた。


 ボロを纏った老人が、吉田寺きちでんじと並んで立っている。

 多宝塔が擬人化した姿だ。

 塔をあれだけ破壊して擬人化したのだから、もう元に戻るつもりはないのだろう。    

 多宝塔は重要文化財に指定されていると端末に出ていた。寺の管理者が見たら卒倒するだろうが、化け物どもには此方こちらの都合など通じない。己が擬人化する為の材料に過ぎないのだ。

 その老人が、右手を口元に当てて印を結ぶ。何やらブツブツ唱えたと思ったら、そこらじゅうの地面が盛り上り、中から動物の形をした骨が出てきた。

  

 兎に狸。

 亀に鯉。

 大きいものは猪と鹿だろう。

 

 薄暗い境内は、散々破壊され尽くした後に、骨達が我が物顔で歩き回る墓地のようになった。鹿目と千春は、あっという間に取り囲まれてしまう。


「嫌いだ。俺は奈良が大嫌いだ」


 都合の悪いことは全て奈良のせいにしてしまえば、取り敢えずは丸く収まる。これは変わらない永久不変のルールだ。鹿目は、千春を庇いながらクヌギの木を背にした。ジリジリと骨の群れが包囲を狭めてくる。鹿目の額に、水玉のような汗が無数に浮かんだ。

 すると目の前を、優雅に泳ぐ魚の骨が通り過ぎて行った。一瞬、涼しげな風鈴の音が聞こえてきそう。水の中にいるように空中を泳ぎ、鹿目を中心に周回しているようだった。

 その様子を見ていた吉田寺きちでんじが声をあげる。


「多宝塔よ。邪魔をするな」


「五月蝿いのう。はよ喰らってしまえよ吉田寺。神使しんし臭くてかなわんぞ」


 多宝塔と呼ばれた老人は、皺だらけの顔を歪めて言った。くいっと顎を前に出すと、動物の骨達が一斉に鹿目に飛び掛かった。

 鹿目はなげいた。

 まさか千春を助けに来て、動き回る骨どもの相手をする羽目になるとは。極楽橋を渡って、本当にあの世に来てしまったのかも知れない。


 鹿目は、両手を高くあげてガードを固めると、次々と襲い掛かってくる骨どもを拳で殴り返す八面六臂はちめんろっぴの働きを見せた。

 はめている革手袋に奇妙な文字が浮かび上がると、殴られた骨は、吹き飛びながら燃え上がった。あっという間に炭になり、地面に着く頃には崩れ去っている。


「やるやん神使! 見直したで!」


 千春は興奮して、大きな声を出した。すると、反応した猪の骨が、急に角度を変えて猛然と千春に突っ込んでいった。

 咄嗟に鹿目は、身体を入れて進路を断つが、レインコートを鼻の辺りに絡みとられて、そのまま引きずり回されてしまう。筋肉など付いていない只の骨の分際で、どうしようもない程の怪力であった。

 千春を巻き込みかけるが、ギリギリぶつからずに済む。横を通り過ぎて反転した後は、どんどん離れていった。


「この野郎! いい加減にしろよ!」

 

 好き放題されていた鹿目は、引きずられながら上半身を立て直した。

 目や口に沢山の砂が入って、最悪の気分だ。

 無理矢理伸ばした手で猪の頭蓋を掴むと、そのまま火をつける。

 燃えながら猪は走り続けたが、すぐに崩れ去った。

 寺の入り口付近まで連れて来られた鹿目は、急いで千春のところまで戻ろうとした。すると、多宝塔かと思われるしわがれた声が、境内を覆う森から反射した。


「まずは、一匹。極楽往生せえよ」


 千春の悲鳴が、走る鹿目の元に届いた。

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