第11話
それにしても……と翔太は改めて思った。さっきからはしゃいでいる母親がどう見ても老けているのだ。顔にはシワが明らかに増えているし、動作の一つ一つには老いが見えるし、表情には弱さが見受けられる。
(まあ、それも当然か……)
母親と一緒に暮らしていたのは八年以上前。その間何度か帰省した際には当然顔を合わせてはいたが、母親の顔をまじまじと見つめはしなかった。……顔を合わせてはいても、その老いからは無意識に目を背けていたのかもしれない。
「ねえ、そう言えば今度の新型のウイルスの件、怖いわねえ。……本当に『終わりの日』が近い証拠ね」
どちらかと言うと呟くような母親の一言だったが、それを聞いた瞬間に翔太は血が沸騰しそうになった。非常に懐かしい嫌悪感だった。母親はとある宗教を信仰しており、これに翔太も産まれた時からどっぷりと浸けられていたのだ。
この現代日本において、生活の全てを宗教に捧げる人間など存在するのか?と思う人もいるかもしれない。翔太も月日が経ち母親の熱が少しは冷めているのではないか……という希望的観測を抱いていたが、全然そんなことはなかったようだ。恐らくこのタイミングで実家に帰って来たことすら「神の導き」と思っているのだろう。
翔太が何とかその宗教から脱会したのは高校生になってからだった。もちろん簡単に辞められた訳ではないし、翔太自身もその組織のことを懐かしく思う瞬間がなかったわけではない。それでも辞めたことは正しかったと思う。月日が経ち世の中のことが見えてくればくるほどその思いは強くなっていった。死にたくなるような現状でも、欺瞞に包まれていたあの頃に戻りたいとは思わない。
そして翔太は高校卒業後、逃げるように東京に出てきて独り暮らしを始めたのだった。とにかくあの場所から逃げられるのならば何でも良いと思ったから、展望もなく思慮も浅かった。仕事はずっとバイトで貯金もほとんど出来なかったし、しておこうという意識もなかった。
友人と呼べる人間もほとんど出来なかった。バイト先で遊びに誘ってくれる人は居たし、そのバイトを続けているうちは付き合いが続くのだが、バイト先が変わってから続くような踏み込んだ人間関係は出来なかった。皆いい人たちばかりだったが、浅い付き合いしか出来なかったのは、やはり自分の育ち方から来るコンプレックスが原因だったのだろう。
一番の問題は、健康な心身を持ちながら定職にも就かず……かといって享楽的に生きるでもない、中途半端としか言えない生き方でも不幸をほとんど感じなかったことだ。どう考えても宗教のもとで抑えつけられ育てられてきた少年時代よりは幸福だったのだ。
例えばテレビである。翔太が関わっていた宗教は時代錯誤とも言える厳格な一面を持っており、見るものも聞くものもかなり制限されていた。そのため大橋家にはテレビがなかった。同じ組織の仲間の家ではそこまで厳格でない家もあり、そうした仲間の家に遊びに行った際には食い入るように観ていた。その反動から、一人暮らしを始めリサイクルショップでテレビを買ってからはしばらくテレビ漬けの日々を送っていた。
テレビだけでなく、マンガも禁止されていた。少年向けのマンガと言えど暴力的であったり性的な内容のものも有る……というのがその理由である。学校の図書室から借りてくる本でさえ母親のチェックが入った。
部活も禁止されていた。翔太はわりと運動が得意だし好きなタイプだったのだが、スポーツを本格的に行うことは競争意識を高めるので望ましくない、とされていた。もっと直接的な理由としては宗教活動に費やす時間と体力を損なう、という観点から部活は禁止であった。
じゃあ組織の子供は何をして過ごしていたんだ?と疑問に思う人がいるかもしれない。一番させられたのは当然宗教の勉強である。週に三回ほど数十人での集会があり、そこでは教理に関する講義や討論のようなものが開かれる。そこに向けた予習を母親と二人でやらされた記憶が強い。予習を綿密にやるのは「本番の集会の時に発言出来るようにするため」という一種の見栄である。集会には同年代の子供たちもおり、生まれた時から共に育ってきているので進歩を競わせられるのだ。聖人君子のように見える宗教組織といえども、なんら俗なる組織と変わりはない。
学校の勉強もさせられた。「世俗の勉強に全精力を注ぐべきではないが、他の人から見られた際に模範的な生徒であるべし」というのがその方針であったからだ。翔太も中学生の頃までは良い成績だったが、高校に入ってからはバカらしくなってほとんど勉強しなくなった。自分の将来に絶望している人間が勉強にモチベーションを保てるわけがなかった。
とにかく息の詰まる子供時代だった。こう思い出してみると我ながらよくグレもせず、自殺もせず、神経症にもならなかったものだと思う。唯一の息抜きは下校途中の書店での立ち読みだった。禁止されている分だけ貪るように清濁合わせた様々な本を読み、知識と世界を広げたことが一筋の救いだった。
だが……世界を広げたことは自分の不幸に気付くことでもあったのかもしれない。閉鎖されたあの世界でだけ生きていれば、幸福だっただろうか?不幸だっただろうか?その答えははっきりしない。
「ねえ翔太、健太郎君は今度『長老』になるのよ!すごいでしょう?」
健太郎というのは幼馴染みで、生まれた時から翔太と同様に組織のもとで育てられてきた人間だ。未だにこの組織に留まり『長老』という幹部になろうとしている彼に、翔太は若干の憐れみを覚えた。無論彼の方から見れば憐れむべきは翔太の方なのだろうが。
「今度発行された出版物なんだけどね…………」
翔太が適当に打った相槌を、話しても良いというサインと受け取ったのか、堰を切ったように母親からの宗教上の近況報告は続いていった。
「うるせえな、いい加減にしろ!」と怒鳴り付けてしまいたいのはやまやまだったが、母親にそんな態度を取るタイミングを既に翔太は逸していた。
暴力だとかもっと分かりやすい虐待をするような親だったらどれだけマシだっただろう、と翔太は何度も思った。そうであればこうして二度と相見えることはなかったし連絡をとることも一切なかっただろう。どんな親でも自分にとっては唯一の親だ。時間を経てなんとか関係を修復したい、という願いが自分の中にあったことを翔太はこの時初めて認めた。そしてそれが自分の甘さによるもので、抱くべき願いではなかったことも同時に知った。結局のところ人は変わらないのだ。
「俺、ちょっと久しぶりに散歩してくるわ」
母親のマシンガントークは未だ続いていたが、何とか脱け出した。
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