第26話 マスク

私は喉が弱い。セカンドオピニオンをした時に、扁桃腺の手術を勧められるほどである。

耳も弱く、すぐに耳鼻咽喉科にお世話になる。


抗生物質に慣れた私は、今回はこれか!とソムリエのようだった。


ソロコンの前に急に喉とリンパが痛くなった私は、朝イチで行きつけの耳鼻咽喉科に駆け込み、抗生物質と胃腸薬をもらい部活へ行った。


感染するものではないため、マスクをして行った。


もちろん最初から参加できるわけではなかったため、遅刻扱いで行った。


「おはようございまーす。」


いつもよりテンション低めで部室に向かうと、仁先輩と片想い(以下略)、奈良先輩がいた。


「神奈川ちゃん、大丈夫かよ…。」


仁先輩は私の方に来て、心配の声をかけてくれた。


片想い(以下略)は、私を心配する様子を出しながら仁先輩についてきた。


「なぎさちゃん、大丈夫?休んだ方がいいよ~?移ると大変だし…。」


「なぎさちゃん、マスクしてると雰囲気変わるね~。良いと思う~!」


これは裏を返せば、きっとこういう訳になるだろう。


『お前、仁の興味がお前に取られただろ、良いところだったんだぞふざけんな。仁に移ると困るし、練習しないといけないから仁とお前が2人になるだろ、休めよ。』


『マスク美人ってやつ?マスクしてる時はおとなしくていいよね。』


言い返しても、面倒なことになるだろうと思い、私は後輩らしく返した。


「すみません…。休んだ分の練習不足が怖いので来ました。今日はビブラフォンで練習するんで、仁先輩方には移さないですから。あと一応診断書です。感染のリスクはないんです。」


「マスク似合ってるならよかったです。似合ってないよりマシですから。」


片想い(以下略)は何か言いたそうだったが、仁先輩が無意識のうちに止めてくれた。


「俺、神奈川ちゃん来たし練習するわ!お前らやらんの?」


いそいそと楽器を取りに行こうとする片想い(以下略)を叩き落すかのように奈良先輩は私に向かって言った。


「なぎさちゃん、マスク大人用?顔の大きさに合ってないじゃん。顔小さくて可愛いんだから子ども用着けな。あと、水持ってくるから待ってな。手に持ってるそれ飲まないとなんでしょ。ビブラフォンで練習なら、寒さ対策にこれ着なよ。」


心の実況・解説:「みんなの前での名前呼びは初めてですね…これは意図がありそうですね?それに顔の大きさをマスクと比較して小さくてかわいいと述べたことで、片想い(以下略)には効果がありそうだ~~~~っ!?そして醸し出ている優しさ!水を持ちに行ってくれることだけではなく、暖房のない冷凍庫倉庫での練習のために、先輩自身の学ランを私に羽織らせるというもはや彼氏のようなその動き、圧巻です!」


私は急に奈良先輩のガードが入ったことに驚いて声が出せなかった。


片想い(以下略)は、私をにらみ、楽器を持ち無言で部室から練習場へと向かった。


仁先輩もこの圧巻の動きに手も足も口も出ず、ただ茫然とそこにいるだけだった。


奈良先輩の学ランを羽織る私は、奈良先輩が水道に向かったため、それについていった。


水道に向かうと、奈良先輩は未開封のミネラルウォーターをくれた。


「ここじゃ、人も通るし倉庫行こう。」


私はうなずき、奈良先輩についていった。


もちろん楽器倉庫の中で水分摂取など言語道断である。楽器にかかったらおおごとである。


それでも今日だけだから、と私と奈良先輩は倉庫に入って扉を閉めた。


「一応手で温めたけど冷たいかも、気をつけてな。」


そう言いながら、座る先輩の隣に座った。


驚きで声が出ない私は、会釈をしたのち貰った水で薬を流し込んだ。


水は喉にクリティカルヒットでとても染みた。


痛みで顔をゆがめた私を見て、奈良先輩は心配そうにこちらを伺っていた。


「声、出る?痛いなら無理するな。」


「大丈夫です。お水、ありがとうございます。あと、学ランも。」


「君の大丈夫は信用できない。本当は?」


「めっちゃ痛いです。声は出せるけどリンパも痛いし、それに結構来ますね、片想い(以下略)。」


「はあ…だから言っただろ。リンパのどの辺が痛いんだ?」


説明するのが難しいと判断した私は、縛っていない髪の毛を左手でかき上げ、奈良先輩の左手を右手で掴んで私の方に寄せた。


「この辺が痛いんです。腫れてません?」


先輩は私の腫れた右リンパに触れて、確かに、と言った。


かき上げをやめて奈良先輩の手から私の手を離すと、奈良先輩はそのままの体勢でこちらに近づいてきた。


「え、なんですか?」


もうそこはリンパではない、と胸を張って言える場所まで手が動いていて私は困った。


「こういうこと、仁にもさせるの?」


「は…?」


「前、仁に勉強教えてたよな。」


「ああ、あれは教えてほしいって言われたんで…。」


「距離、近くない?」


「は…?」


「仁にもこういうことさせるの?」


そう言いながら先輩の手は止まらない。耳裏のリンパからどんどん進むその手はついに胸元で結んであるリボンまで到達した。


「え、え、あのいやえ?」


私は奈良先輩がおかしくなったと思い、逃げようと思った。


後ろに下がろうとしてもチューバのケースで下がれない、では左は?

大誤算、左は引き戸のきっちり閉められた扉!取っ手をひねらないと開かない。

右も前も埋まっているこの状況で逃げることは困難だった。


それでも距離を取るために左後ろに下がろうとした。

奈良先輩はそれを許さなかった。


「急に何ですか?」


「大きな声出しますよ。」


「出せるもんならどうぞ。」


扁桃腺が腫れに腫れまくっている私に大声など不可能だった。


いつも奈良先輩との距離は近く、お互いに意識していることも分かっていた。

告白こそないものの、他の人より一歩距離が近いと思っていた。


だからこそ、奈良先輩の疑問の意味が分からないのだった。


仁先輩なんかより奈良先輩の方がすごく近いのに、なんでだろう?と。


奈良先輩は右手で逃げる私を押さえながら、左手でリボンをほどいた。


「あの、リボンほどけたんですけど…。」


「ああ…。」


「逃げるなよ。」


そう言うと奈良先輩はほどいたリボンを結びなおした。


「仁先輩は、私のことただの後輩としか思ってないですよ。ほんとに。」


「それに奈良先輩の方が距離近いし。」


「だから、こんなやばいことしないでください。」


奈良先輩は、私の着崩れた学ランを直しながら言った。


「君は男を理解してない。ほんとに。」


「君の言うやばいこと、をできるのは俺だけにして。」


「でも、あの時仁との距離が近かったし俺が入ったことも気づかなかっただろ。」


そういえば、気づかなかったような…と記憶を思い返していると奈良先輩はまた言った。


「マスクしてるのも可愛いけど笑顔が見れない。」


「顔に合ってない。」


そう言うと、私のマスクを引っ張り、縦に伸ばした。


前が見えなくなり、戸惑った。


大人用のマスクは大きく設計されていて、私の顔だと伸ばすと眉毛あたりまで隠れてしまうのだ。


「な、何するんですか!?」


マスクを取ろうとする私の手は奈良先輩につかまれ、もうどうにもできなかった。


前は見えない、声も出せない、何かのアレ?なんて考えていると、微かに奈良先輩の動く音がした。


「抵抗…しないの?」


耳元で囁かれた私は、びっくりした。


「しませんよ。奈良先輩だから。」


「俺以外だったら?」


「スティックでフルボッコにします。」


「…君らしいね。かわいい。」



気が済んだのか、奈良先輩は離れた。


私はマスクを元に戻して、奈良先輩を見た。


「シャンプー、前のにした?」


「先輩、好きでしょ。」


「好き。」


「変えましたよ。」


「早く喉治るといいな。」


「先輩がリボン結んだから大丈夫ですよ。」


「怖かった?」


「怖いけど、奈良先輩だから。」


「じゃあ、俺以外にはさせないようにね。」


「奈良先輩以外に仲いい男子いないです。」


仁先輩のことを言いたげだったので、私は断言した。


「仁先輩は先輩、奈良先輩は男子です。」


「奈良先輩、意外とかわいいですね。」


無言で私は髪の毛をぐしゃぐしゃにされた。


照れ隠しであることは分かっていたので、拒否しなかった。


「ぐしゃぐしゃですよ、もう!直して!」


手櫛で直す奈良先輩の手つきは慣れたそれで、私は少し嫌になった。


「他の女の子にもしてるんですか?」


「するわけないだろ。他の女なんか興味ない。」


「じゃあなんでこんなに慣れた手つきなんですか。」


「そりゃ、サックス吹いてりゃ手も動くようになるだろ。」


確かにそうか、と思い納得した。


それに、彼氏彼女ではないし束縛する権利もない。


私は関係が壊れることが怖かった。


それを明言したりはしないものの、奈良先輩はそれを感じ取っていた。


だから、この距離で十分。


でも嫌な気持ちは変わらない、これくらいのは許されるよね。


「他の女の子に触ってもいいですけど、それ以上に私に触ってくださいね。」


奈良先輩の手櫛の手が止まり、ポーカーフェイスが崩れた。


「俺だから良いけど、他の男にそれ絶対言うなよ。」


照れている顔も可愛いと感じた私はもう奈良先輩のことが好きだった。




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