私が私になった理由

中川葉子

私の名前は中川葉子

 お父さんは今日は何をするんだろう。ああ、箸を投げた。これで終わればいいな。悪口言ったって? 言うわけないじゃん。なんでこれで怒られてるの。お父さんは何を見ているの? 何を聞いているの?

 休み時間になると、活発な雰囲気の読書好きの女子と、その仲間達が窓際に集結する。別に何も話さない。ただ一緒に本を読んでいるだけ。とても居心地の良い。

 お父さんが窓を閉め始めた。外に声が聞こえたら捕まるかららしい。そりゃ怒鳴るもんね。叫びながら殴るし。何? お母さん。ああわかったよ。弟妹連れて、寝室に逃げるんだね。

 休み時間は本を読むだけじゃなく、定規飛ばしもする。負けた方の定規は没収。本好きの彼女はとても定規飛ばしがうまい。算数の授業のたびにみんなが小声で返してって言うくらい。休み時間の時に一回言ってみた。定規結構不便だから返してって。すると彼女はとても良い笑顔で言った。


「大丈夫。気にすんな。なんとかなるって」


 とケラケラ笑って。心の中で言われた言葉を繰り返した。とても良い言葉だ。

 寝室に弟妹を連れて行くと、下の三人が怯えているので、毛布をかけ、豆電球の薄暗い下で、お腹か背中をトントンする。大丈夫。大丈夫。なんとかなるって。大丈夫。隣から聞こえる声は気にしないで。大丈夫。お母さんの絶叫、お兄ちゃんの泣き声、二番目のお兄ちゃんの立ち向かう声、全てを抑えつけるお父さんの怒声が聞こえる。

 彼女は大丈夫、気にするな、なんとかなる。とよく言う。その度に僕はその声を心に刻む。脳に刷り込む。大丈夫大丈夫。なんとかなるから気にするな。

 警察が家に来た。何かを話している。僕は寝室で弟妹に、薄暗い部屋で、熊の人形でトントンしている。腕がもふもふしていて安心するらしい。とん、とん、とん、とん、大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 彼女はよく本を読む。僕も中々に読むタイプだったが、彼女に触発されて、読む量が増えた。知らない世界の追体験は楽しい。何もかも忘れられる。

 逮捕されたらしい。誰も悲しまなかった。むしろ喜んでいた。あの怖い家じゃなくなるんだって。久しぶりにお菓子についていたおもちゃをいっぱい出して遊んだ。けど、やっぱりみんな不安みたいだ。大丈夫。大丈夫。気にするな。どうにかなる。

 小六の僕はお父さんが逮捕されてから知ったことがある。彼女は別の学校に行くらしい。大丈夫じゃない。気にしてしまう。問題しかない。僕は君の言葉に支えられて乗り切れたのに。これからどうすれば。

 何年か刑務所か病院かにはいるらしい。そのまま二度と出て来なかったらいいのに。毎晩みんなの夢に出てくるだけで恐怖なんだから。弟妹がうなされていたら、背中をトントンする。熊の人形の手で。ふと豆電球を見たら、猛烈な吐き気に襲われてトイレで吐いた。大丈夫。大丈夫。

 君のことを好きなのか、ただ君になりたいのか、わからないまま、中学に入学した。恋心と呼べるものなのか、執着と呼ぶものなのか。憧れというものなのかわからない。でも、中学に入ってからも、こんな時は君はなんて言う? 君は何をする? と問いかけ、答えだと思われることをし続けてきた。だけど、まだ、怖い。

 家ではすっかり、僕が父親がわりになっていた。父親なのか。私はあの子になりたいのに。女性になりたいのに。そうか。弟妹の笑顔が最近増えてきた気がする。みんなの話し相手をするのも疲れるし、安心させるのも苦労するけど、多分これが正解なんだよ。大丈夫、大丈夫。

 高校を卒業して、スマートフォンを持った。僕はその時彼女の名前で小説を描き始めた。父親がわりは続けながら、でも女性として、小説を。あの頃の自分を救う文章を。

 大丈夫かな? わかんないや。でも、生きていくしかないもんね。いつの間にか共にいてくれるようになった、私の祈りが産んでくれた彼女と共に。いつまでも。

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私が私になった理由 中川葉子 @tyusensiva

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