28.悩んでも仕方のないこと

「はぁ〜、さっぱりしたぁ」


 ペタペタと足音を立てながらリビングに入ってきた葵と、その後ろから詩音の服を着た乃慧琉が登場する。


「一ノ瀬くん、服ありがとう」


 小さくお礼を言った乃慧琉だが、どうみても貸した服のサイズが大きい。手渡したスウェット生地の上下は着ているというよりも被っているに近い感じだった。ずるずると長いズボンの裾を引き摺り、余った袖を垂らし手をオバケみたいに隠して歩く乃慧琉の姿はいつもの乃慧琉らしく無くて何とも可愛らしい。加えてお風呂上がりで水気を含んだ黒髪と、火照った桃色の高い頬が詩音の胸をドキドキさせる。こういう姿を見ると、乃慧琉がクラスメイトで隣の席だということをつい忘れそうだ。


「お兄ちゃん聞いてよ!!乃慧琉ちゃんね、すっごいんだよ」


 跳ねながらソファーの背を飛び越え、詩音の隣にぼふっと音を立てて座った葵は興奮したようにバシバシと肩を叩いてくる。


「……お風呂で、すごい?」


「なにがだと思う?」


 何かは分からないけど、その何かに誘導するつもりか。妙な技覚えやがって。目を細めた詩音は釘を刺すように「高岡さんのこと困らせたらダメだよ」とだけ返す。だけど葵は気にもしない、あっけらかんとした顔で首を左右に振った。


「困らせてないよ。ヒントはめちゃくちゃ柔らかい」


「……………」


 女の子が二人でお風呂に入って、互いに柔らかさを確認するのなんか一つしかないじゃないか。一つというか、二つ付いてるやつ。


「分からないの?なら正解を発表します!ドゥルドゥルドゥル……」


 高らかな声と共に口でドラムロールを付け足す葵。最近動画サイトでヒューマンビートボックスを見るのがお気に入りだからか、ドラムロールに妙な気合が入っている。そもそも答えは発表してもいいやつなのか、乃慧琉に視線をやったけど普通に手拍子をしてた。一緒にお風呂に入ると一気に距離が縮まるらしい。

そして長めのドラムロールがあけて葵がパンと手を叩く。


「正解は、腕の可動域が広いでした!」


「…な、なんだそれ」


 正解もよく分からないし、最後はビートボックスじゃ無いのか?と心の中で思う。


「葵の服がキツくて脱げなかった時、乃慧琉ちゃんがスゴい角度まで腕を曲げれたから脱げたんだよ」


 それを思い出したのか楽しそうに顔を見合わせた乃慧琉と葵を見て、自分が思っていた正解と違って一層恥ずかしくなった。しかも風呂場でわざわざ体の柔軟性を確認するってすごくシュールだ。


「乃慧琉ちゃんはめちゃくちゃ体が柔らかいんだよ」


「……へぇ、腕が折れなくてよかったネ」


「服脱ぐだけなのに折れるわけないじゃん」


 割と出来の良いドラムロールを含め葵の回答があまりにも馬鹿馬鹿しいし、詩音は疲れもあってか自分の感情を無駄遣いしている気がしてきた。


「それより葵のドラムロールどうだった?」


「…本物みたいだった。僕はもう風呂に行く」


 棒読みじゃんと不満そうに言った葵へ、サヨウナラとロボットみたいに告げた詩音は真顔でリビングを出ていく。


「変なお兄ちゃんはほっといて、髪の毛乾かしたら書斎見に行こうね」


 詩音など元から居なかったかのようにキャッキャとはしゃぐ葵達の声を背に、空回りした詩音はとぼとぼと風呂場へ向かった。



 ………


 詩音は沢山の白い湯気の中で、色の付いたお湯が入った浴槽に浸かり伸ばした足先を眺めて深い息を吐いた。葵が入れたのか、何かの花みたいな匂いがする入浴剤の色はピンクだ。


「一日が長い…」


 小さく呟いて、瞼を閉じた。葵はこのまま乃慧琉を泊めるつもりだろうけれど、乃慧琉は何度も言うように不眠症だ。いつも客間として使う和室か、多分葵の部屋かどちらかで寝ることになるんだろうな。家が変わったからって都合よく眠れるはずも無いし、これからどんな時間を過ごすことになるんだろう。

 ふと父さんから言われた言葉を思い出し、少しばかりセンチメンタルになる。でも葵のドラムロールと、洗面所で葵の服が脱げなくなり、そのあと体の柔らかさを真剣に測ったであろう二人の姿を想像するとなんだか面白くなってきて一人で笑う。

 ニヤニヤしながら、詩音は浴槽に沈んでいくように全身の力を抜いていった。分からないことを無闇矢鱈に考えても仕方ない。長い夜、どうせなら乃慧琉と葵の恋バナとやらに参加させてもらうことにしよう。

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