26.泊まっていきなよ

 一ノ瀬家は、まるで幸せを絵に描いたような家族だった。優しい父親に可愛い妹、姿は見ていないが母親もいる。詩音は自分が持っていない物を全部持っている。本当に全部だ。

 乃慧琉はカラフルなリビングのあちこちを見渡し、目にしたことがないものを見つけては感心した。父さんの趣味だと詩音が言っていたものか、細かいデザインの小物達が所々に飾ってあり棚の上にはガラスのケースに入った写真立てが沢山置いてある。乃慧琉の家にある家族写真らしきものは心当たりがあるもので一枚だけだ。それ以外の行方は分からない。


「さ、たくさん食べてね」


 食卓につくなり、椅子に座った乃慧琉の前に陶器に入ったチーズたっぷりのグラタンが差し出される。白い湯気がぷかぷかと浮かぶそれに乃慧琉は目をキラキラとさせた。


「ありがとうございます。いただきます」


 ぽふっと音を立てて手を合わせた乃慧琉の隣に座った葵がスプーンを手渡した。家に遊びにきたお客さんに料理を振る舞うのが大好きな父さんは、乃慧琉の反応を見て満足そうな表情をしてる。


「ノエルちゃんはグラタンが好きかな?実はグラタンはママの大好物なんだ。あ、ママっていうのは僕の奥さんのことでね!めちゃくちゃ頼りになる可愛い人なんだよ。今は書斎で仕事をしてるんだけど」


 唐突に愛を語り出す父さんは、おそらく母さんの分であろうグラタンが焼き上がるのを電子レンジの前で待っている。そして押し入るように葵の全力笑顔が会話の中に差し込まれた。


「乃慧琉ちゃん、みんなに内緒だよ!ここだけの話だけど実は葵のママは漫画家なの……すっごいカッコいい絵を描くんだよ?書斎には本がいっぱいあるし、あとで一緒に見に行こうよ」


「ダメだぞ、葵。ママは今仕事中なんだから」


「あー、よく言うよ。さっき書斎にパパが騒ぎながら飛び込んでたの知ってるんだから」


「え?しまったな。見られていたかぁ」


 マシンガントークついでに書斎へ誘われた乃慧琉は戸惑ったように二人を見ては、ただ微笑みを返している。

 詩音と違って父さんと妹の葵は饒舌だ。ご飯中はいつも葵か父さんか、母さんが珍しく食卓に居たとしてもとにかく二人のどっちかが何かしらのお喋りをしている。詩音はそれをただ聞くだけ。特別話したい会話も無いし自分が話さなくてもいいから、そんな彼等が居て楽だなと思っていたりもする。

 だけど今日はいつもとメンバーが違う。お腹が空いていたのか、グラタンを美味しそうに頬張る乃慧琉に二人が意気揚々と話しかけているのを詩音はソワソワした気持ちで見ていた。変なこと言わないでと思っているのだ。


「で、乃慧琉ちゃんは今日泊まるの?」


「ぶふっっ」


 思った瞬間にそう来たか。途端に飲み込み損ねたグラタンが喉に引っかかって、それを吐き戻す為の大きな咳が出た。嫌そうな顔をした葵がサッと自分のグラタンの皿を高く上げて避難させる。


「うわ、お兄ちゃん汚いな」


「葵!変なこと聞くなって言ってるだろ!」


「はいはい」


 お兄ちゃんに聞いてないよ、なんてあしらうように詩音の言葉を流す葵。もはや自分の話には邪魔だからスルーする事に徹しているのか相手にすらしなくなってきた。


「明日休みだし泊まってって欲しいな〜。葵と恋バナしよう」


「だから勝手に決めるなって。しかも初対面の人に恋バナ押し付けるなよ……」


「え?お兄ちゃんは乃慧琉ちゃんを泊めたくないの?」


「そういう問題じゃなくて!なら、服とかはどうするんだよ」


「葵の着ればいいよね。パパはどう思う?」


「まぁノエルちゃんが良いならパパは構わないけど…」


 困ったように笑った父さんが乃慧琉を見たので、当然ながら乃慧琉に決定権が委ねられる。唐突に指名された乃慧琉はスプーンを持っていた手を止めて一ノ瀬家を見渡した。期待で目をキラキラとさせる葵と、困りきった顔をしている詩音の対極な感じが乃慧琉の回答をより急かす。

 もう答えは決まっているのか。だけど言い出しにくいのか、俯きながら唇をもにょもにょとさせた乃慧琉。


「あの……、私一度も友達の家に泊まったことなくて」


 しどろもどろで乃慧琉がそう言ったのと同時に、驚きと笑いが半々で一気に襲ってきたみたいな顔をしてみせた葵は頭をしならせるように乃慧琉を勢いよく振り向く。


「凄い…こんなけ話がつまんないお兄ちゃんも龍心君の家に泊まったりしてるのに………もしかして乃慧琉ちゃんはお城のお嬢様なの?普段は閉じ込められてるの?シンプルに親がめっちゃ怖いとか?それか…」


「葵………」


 もはやうるさいの域を通り越して、こんな激しいのが自分の妹だと乃慧琉に知られたことに今更ながら羞恥心が湧いてきた。隠してはいないにしても、自分だけのちょっとした内緒の話を思いも寄らぬ形で知られたようで恥ずかしい。

 乃慧琉の言葉に、俄然興味が湧いてきたみたいな顔で最後の一口をスプーンで掬って食べた葵は「乃慧琉ちゃんは秘密の塊みたいだね!」と皿を持ってご機嫌に立ち上がった。それを流しに持っていって水に浸す葵は、もう完全に乃慧琉を泊める気満々だった。


「葵、お風呂の準備してくる!」


 意気揚々とリビングから出ていった葵を見て「葵は押せ押せだなぁ」なんて呑気な台詞を吐いた父さんは北欧柄みたいなミトンを装着している。そしてチンと音を立てて出来上がった熱々の皿をレンジから出して両手に持ち、笑顔のまま書斎に向かっていった。ぱたんと扉が閉まり部屋は静まり返る。

あっという間に二人きりのリビングになり、あまりの気まずさに口元に含むような苦い笑みをしたまま乃慧琉へ視線を向けた。


「高岡さん…、葵はああ言ってるけど無理しなくても大丈夫だから…」


 押しの強い葵から、せめて少しの逃げ場でも作らなければと詩音が呟くように言えば、こちらを振り向いた乃慧琉は頷いて笑った。


「……泊まっていこうかな」


「え?」


「私、もっとここに居たい」


 呟いた乃慧琉の長い黒髪がはらりと落ちて、胸元を通り越し机に散らばった。細やかで柔らかそうなあれは、毎日乃慧琉の細い指と櫛で綺麗に梳かされ手入れされているんだろう。そんな髪の毛が過ごすあの豪邸とは全く正反対のこの家に、どうして居たいと思うんだ?分からないと思考を巡らせる詩音に、ふと乃慧琉がちょいちょいと指を出してこっちに来るように促す。

 眉をひそめた詩音は乃慧琉の指示通り机に手をつき、広い机を越えるように乃慧琉に近づいた。


「どうせなら、一緒に寝ようよ」


 耳元でフゥ…と溜息のような吐息のような、乃慧琉の細い囁き声が嗤う。借りてきた猫のように大人しかった乃慧琉は何処いずこへ。

鼓膜を呼吸で優しく撫で、のちに脳天を雷で打ち付けるみたいな声を聞いてしまえば誰だって力が抜ける。途端に弱気になった詩音は目を伏せながら静かに自分の席に戻った。

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