第2話

 小学生になってすぐの頃、母が姿を消した。その理由を僕はいまだに知らない。父が教えてくれなかったからだ。だけど僕には、簡単に想像することができる。父を嫌悪していたからだ。父は裏表なくがさつで下品で、分かりやすい人間だった。良くも悪くも分かりやすい父が、僕は嫌いではなかったけれど、その性格ゆえに嫌う人間はあまりにも多く、その代表的な例が、母だった。


 離婚したのかしていないのかも分からない母が消えたあと、父はよく釣りに行くようになった。渓流釣りだ。ひとのすくない時期が好きなのか、特に秋頃は毎日のように渓流に通っていた。父の仕事を僕は知らない。だけど僕が暮らしに不自由することはなかったから、なんらかのお金は得ていたはずだ。誰かと行くわけではなく、いつもひとりだったらしい。父が釣りに行く日は決まって学校か留守番なので、実際に向こうでの父は知らない。だから渓流釣りに本当にひとりで行っていたのかは分からないし、あるいは釣りと称して、誰かと別の何かをしていた可能性だってある。あくまで父の言葉を真実だと仮定しての、いつもひとり、だ。


 なんでこんなまわりくどい言い方をしたのか、というと、僕の新しい母親も渓流から連れ帰ってきたからだ。


 何も釣れなかったよ。ボウズだ。あぁでも魚の代わりに、女は釣れた。


 なんて言って、三十代後半くらいの女性と一緒に。それが本当に渓流で出会った女性なんて思えるだろうか。


 きょうから彼女が新しいお母さんだ。


 父がそう言って、僕に新しい母親ができたわけだけど、実際に会ったのは最初の一回だけだ。そもそも僕の生みの母と父の間で離婚が成立しているのかも分からないし、新しい母親が父と本当に結婚しているのかも僕は知らない。法的な問題はいったん置いておくにしても、一度しか会ったことのない、名前も知らない女を、母親と呼ぶのはためらいがあった。


 僕が小五の秋のことで、同じ年に、僕は新しい姉の藍と出会った。いままで絶対に連れて行こうとはしなかった渓流へと僕を誘って、そこに彼女の姿があった。


 藍が、姉、になることに対してすんなりと受け入れることができたのは、一緒に暮らすことになったからだ。藍は新しい母親の娘になるわけだが、父も藍もはっきりと口にして、そうだ、と言ったことは一度もない。


 彼女の最初の一言は、せせらぎに混じっていた。


 私がきょうから、きみのお姉ちゃん。……なんか慣れないね。


 と言って、むかしから弟が欲しかったから、嬉しい、と続けた。そして彼女は、ぐい、と僕に顔を近づけた、あまいにおいがして、そもそもあった緊張がさらに増したのを覚えている。


 同じ空間で一緒に過ごすようになった彼女は、僕の憧れになった。


 そして僕と藍は、父親のほとんどいない家で、三年という月日を過ごした。





 三日が経った。たった三日だけど、体感時間はその倍くらいだ。あまり監視をしている気にはなれない。この檻の存在さえなければ、その事実を忘れて、同居と勘違いしてしまいそうなほどに。それは僕が彼女に、藍、を見ているからだ。


 同じ空間に寝泊まりして、お互いにやり取りを交わす。買ってきたジャンクフードを檻に差し入れて一緒に食べたり、何か映画を、ということで、『遊星からの物体X』を借りてきて、ふたりでそれを観たり……と、彼女はつねに藍っぽい受け答えをして、僕はときおり、いやその生活の大部分で彼女が、愛、というまったく別の女性であることを忘れてしまう。


「きみは、私に誰を見ているの?」


 僕はどきりとした。愛に、藍のことはひとつも伝えていない。だけど愛は、僕の心を見透かすようにそう言ったのだ。


「誰を、って……」


「いつも、そう。私にはすごく不満なの」これは藍の言葉らしくない、と思い、ふいに僕は夢から醒めたような気持ちになった。そして僕は、藍の先に愛が見えることこそ、不満だった。「私と話しながら、でも絶対に誰も私を見ない。私は、私。愛してるの、愛、だし、英語で言うなら、一人称の、I。それ以外のアイを、私に見るなんて、失礼だと思わない」


 僕はポケットに手を入れて、事前に山崎から渡されていた檻の鍵を握る。


「知ってるよ」


「そうね、知っているかもしれないけど、でも分かってはいない。そしてそれをきみ自身が一番分かっている」


 そうだ、やはり僕にとって、愛は、藍だ。いましゃべっている藍らしさの消えた愛こそ異質だった。


「ごめんね。言い過ぎた。きみだけじゃないのに、ね。私と会ったひとはみんなそうだから気にしないで、きみだけが特別じゃない」特別じゃない。そんな言葉が胸に突き刺さる。「みんな私を見ると、そこにもっともそのひとが見たくないひとが見えるらしいの。見たくない、と言っても、理由は色々。大嫌いな相手の可能性もあるし、愛憎半ばする想いを抱えた相手かもしれない。不義理をした相手の可能性だって、もちろんね。きみは誰を見て、そこに何を感じてるの?」


 藍……。


 愛の言葉が本当かどうかは分からない。でも僕の人生でもっとも見たくない相手がいるとしたら、確かにそれは藍以外には考えられない。


 彼女が、ちいさく笑う。


 その雰囲気は愛から藍に戻っている。たぶんその変化は僕にしか分からない些細なものだ。


 やっぱり彼女からは罪のにおいがする。





 一緒に過ごした三年間で、藍はあまりにも特別な存在になっていた。もともと美しかった藍は時間の経過とともにさらに洗練されて、僕の憧れもそれにつられるように増す一方だった。


 僕は十代の前半というもっとも多感な時期を藍と過ごし、彼女は僕に鮮烈な印象を残して、そして消えた。


 渓流に素足を浸して、藍が、


 ここで、きみとはじめて会ったんだよね。懐かしいな。


 なんて僕にほほ笑んだのは、僕が中学二年の、これも秋だった。秋の渓流らしく、僕たち以外の姿はなかった。さぁぁ、さぁぁ、と水の流れる音は記憶に貼り付いたまま、いまも離れることはない。


 高校での藍がどんな人間だったのか、僕は知らない。生徒会の役員をしている、と藍自身が、僕に教えてくれたことはあったし、彼女が地元でも有数の進学校に通っていて、勉強ができたことも知っていた。でも、そのくらいだ。それ以上のことを知りたいとも思わなかった。眼鏡を外して、束ねた髪をおろした、僕の目の前だけで見せる彼女のほうがずっと特別だった。


 はじめて会った渓流に、久し振りに行かない?


 そう言った時の彼女の真意は分からない。もしかしたら僕が起こそうとしていた行動を、藍も予感していたのかもしれない。


 好きだ。ずっと好きだった。


 水際にふたり素足を浸しながら、僕は僕の抱えていた想いを彼女に吐き出した。


 私も好き。


 僕は藍の答えが嬉しくて、彼女の両肩に手を置き、そしてキスしようと顔を近づけた時、


 やっぱり親子は似るんだね。不思議。


 と、藍が言った。なぜ藍がそんなことをこの場面で言ったのかは分からない。それを知っているのは彼女だけで、もう聞くことは叶わない。


 僕は肩に置いていた手を、気付けば彼女の首に動かしていた。悪気があったわけじゃない、というのは、心の中で言い聞かせるどこまでも都合の良い言葉だ。僕は藍の首を絞めたまま押し倒し、苦しそうにもがく彼女を水の中に浸し続けた。動かなくなるまで。


 彼女を、彼女への想いを、父の罪を、僕の罪を、怒りも、悲しみも、すべて水底に沈めて、もう浮き上がってこないように。


 藍はすこし経って、身元不明の遺体として発見された。テレビがそう報じていたのだ。


 顔を潰して分からないようにしたのもあるけれど、何よりもあとで知ったことなのだが、藍はもともと高校になど通っていなかったのだ。つまり僕の前で制服を身に纏っていた藍は、学生の振りをしていたことになる。


 なんでそんなことをしたのか分からないままだ。よくよく考えれば、僕は家での姿以外、藍のことを何ひとつ知らない。


 もしかしたら父なら、細かい事情まで知っているのかもしれないけれど、もうその頃の父は家に寄りつくこともなく、ただお金を送ってくれるだけの存在で、連絡先さえも分からない関係になっていた。


 三年も一緒に過ごして、僕は藍のことを何も知らなかったわけだ。


 藍は最初から最後まで謎めいたまま、僕の前から消えた。泡沫の夢のように。唯一の実感は、罪に手を染めた瞬間の、その感触の名残りだけだ。





 藍と一緒に暮らしはじめて一週間が経った。これは僕の間違いでもなんでもない。いま目の前で、檻の中に入れられている女性が、愛、だと言葉では知っていても、もう僕の心は、藍、以外を受け入れられなくなっている。


 そして僕は、藍に、藍との話を聞かせた。僕が罪に手を染めた記憶まで詳細に。


「許してあげる」と、藍は言った。「ここから出してくれたら」


「それは……」


「人殺し。きみは許されない、人殺し。でも私と一緒にやり直せば、そんな罪の色が消えるかもしれない。いいじゃない。別に私がここから出たとしても、きみの、きみ自身の罪よりずっと軽いんだから」


 僕の手には、檻の鍵がある。


「あぁ……」


「いまさら、なんでそう、罪悪感を覚えるの? 罪を犯した人間が」言いながら藍は、かつて僕が絞めた首を撫でる。彼女の声が、僕を苦しめる。「ねっ」


 と藍がほほ笑む。


 僕は鍵穴に、持っていた鍵を差し込んだ。

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